死の礼砲  中

文字数 14,468文字


 ゴーレムのソナー手が声を上げた。
「艦長、艦長」
「どうした?」
 と、スピナー艦長はじろりと振り返った。
「ウルフがまた進路を変えました。でも様子がおかしいんです」
「なぜだ?」
「いくらジグザグ航行している敵でも、大雑把ならそれなりにソナーで追跡できるものです。でもウルフは突然フッと音が途切れたかと思うと、また数秒後に聞こえ始めたんです」
「それのどこがおかしいんだ? 音が一瞬消えるなんて、ソナーでは珍しいことじゃあるまい?」
「そうかもしれません。しかし音が再び聞こえるようになった時には、たった数秒間のブランクにしては、位置がずれすぎている気がしたんです。ほんの数秒であれだけの距離を移動できるとは、ちょっと信じられません」
「潜水艦が、忍者みたいに瞬間移動したというのか? 距離にしてどのくらいだ?」
「500か600メートルというところでしょうか」
「500か600? ふうむ、ちょいと気になるが、やはりソナーの誤差の範囲ともいえるな…。おい副長、おまえはどう思う?」
 ところがその時、再びゴーストからのモールス信号が入ったのだ。
 外部から船体をたたく耳障りな音が発令室に響いたが、その内容はこうだった。
『ウルフが針路変更をした。方位210、距離1100、深度30。ジグザグをやめ、なぜか直進しつつあり』
 歯を見せ、スピナー艦長は声を上げた。
「ほれほれ、ゴースト先生も同じことをおっしゃるぞ…。おいソナー手、ゴーストの言うデータはおまえのデータと一致するか?」
「完全に一致します、艦長」
「よし操舵手、ゴーストのデータに従って進路を変えろ。ウルフの追跡を続けるんだ…。副長、おまえは魚雷室にデータを教えてやれ。もう一発魚雷をぶちかますんだ」
「はい艦長…。ああ魚雷室から返事がありました。『データ入力完了。発射用意よろし』とのことです」
「よし撃て」
「はい艦長…。ただいまウルフへ向けて2発目の魚雷、発射しました」
 艦内に響く発射音に、副長は満足そうにスピナー艦長を振り返ったが、期待は外れてしまった。
 なぜかスピナー艦長は、ひどく不愉快そうな顔をしているのだ。
 そのスピナー艦長の口が動いた。
「おいソナー手、魚雷はまっすぐに進んでいるか?」
 ソナー手は目を閉じ、ヘッドフォンに神経を集中している。
「はい艦長、今のところ異常ありません。命中まであと20秒」
「副長、魚雷に入力したデータをもう一度読み上げてくれ」
「はい。ええっと、210、850、35」
「ふうむ、どうにも気に入らねえな」
「どうしてです?」
「だっておまえ海図を見ろ。その方角には何もない。ただの大洋の真ん中じゃないか。通常の航路からも遠い。海底に沈んで魚のエサになりたきゃ別だが、まともな艦長なら少しでも自国の海岸に近づき、救助される可能性を高めたいと思うはずだがな」
「ウルフは大きくダメージを受けているんです。とにかく無我夢中で逃げているんでしょう。そんなときには、自分の進んでいる方向を気にする余裕があるとは思えません」
「そうかい? おまえは本当にそう思うかい?」
 何を予感しているのか、スピナー艦長は相変わらず機嫌が悪い。



 海中に響く不快な音に気づいたのは、ジャネットもチビ介もほとんど同時だった。
 キーンと脳天に来る甲高い音だ。
「魚雷だ」
 あらかじめ覚悟はしていても、いざ自分がその標的にされると、ジャネットは心臓が凍りつき、落ち着いてなどいられなかった。
 あせりを感じ、チビ介に指示を出そうとしたが、何も思いつかないのだ。
 一瞬でのどがカラカラに渇き、超音波笛に息を吹き込むことさえ、ジャネットには困難に感じられた。
 しかしチビ介の頭脳は正しく活動していた。
 あの魚雷は速度が速く、到底まくことはできない。
 右へ逃げる余裕も、左に避ける余裕もない。
 付け入る隙は、ただあの魚雷がなぜか少し深めにやってくるということだけだ。
 だとすれば、可能な行動はただ一つしかない。
「チビ介!」
 竜騎兵の指示がなくても、マッコウクジラには自分で正しく判断する知性がある。
 尾びれで強く水を蹴り、チビ介は全速力で泳ぎ始めたのだ。
「チビ介はどうするつもりだろう? くそっ、こんなときに私が正しい指示を出せないなんて…」
 チビ介が突如、頭を上に向け、水面目ざしてダッシュしたことにジャネットは気がついた。
「なぜだ? どうしてチビ介は水面など目ざす?」
 だがチビ介は迷いなど見せず、ロケットのように水面を突き破ったのだ。
 チビ介に続いて、ジャネットも水面を破った。
 二人は、そのままの速度で空へ飛び出たのだ。
「ああ月が美しい。満月どころか、今が夜だということさえ忘れていた…」
 だが月との出会いも一瞬のこと。
 チビ介と共に、ジャネットは再び海面へと落ちていった。
 もう一度海水に包まれたジャネットは、魚雷の響きが先ほどとは違っていることに気がついた。
 後方から追ってくるのではなく、今は前方から聞こえるのだ。
「おや、水中に長く白い泡の航跡が残っているぞ。そうか、空を飛んでいる間に、魚雷が私たちを追い越していったのか。助かった…」



 水中に響く2発目の魚雷発射音に、ゴーストはニヤリとした。
 今度こそウルフの撃沈を確信したのだ。
「ついに4隻目のヒトリ潜水艦か。これぞいけにえという奴だ。だが私の怒りとシルビアの魂をしずめるには、まだまだ足りない。シルビアの年齢と同じ14隻を沈める日まで、私は休日など決してとるまい」
 だがゴーストは表情を曇らせた。
「おかしいぞ。もう十分時間は過ぎたのに、なぜ爆発音が聞こえてこない? まさか魚雷がそれたのか?… いや、それは信じがたい」
 ゴーストは2匹のシャチを連れ、今はアルファと呼ばれる一匹の背にまたがっていたが、もう一匹は名をガンマといい、その背に人を乗せるスペースはなかった。
 その代わりに大型の照準装置が乗せられ、いかにも重そうに、ガンマは身をくねらせているのだ。
「このガンマに命じて敵に接近させ、その照準装置から得たデータで発射された魚雷なのだ。よもや外れることなどありえない。もう何秒か待ってみよう」
 だがやはり間違いなかった。
 海中を揺るがすはずの爆発音が耳に届かないのだ。
 考えにくいことだが、2発目は外れたと見るしかない。
 よし、もう一度今度は、船体に手を触れることができるまで敵に肉迫してやるぞ。
「魚雷が爆発し、敵潜水艦の船体を引き裂く音ほど魂を揺るがし、体中の血を沸き立たせるものはない。なぜなら、私のシルビアを殺したヒトリ兵たちが絶望にさいなまれつつ、海底への片道旅行に出発する合図だからだ」
 それはヒトリ兵が得るべき正当な報いだ。
「しかしシルビアの死を弔うべき14の礼砲は、まだ3度しか鳴ってはいない。ウルフを相手に、なんとしても今日中に4発目を鳴らしてやるのだ」



 海図をにらんでいたが、船体を叩くモールス信号が再び聞こえてきたとき、スピナー艦長はじろりと顔を上げた。
「おい副長、ゴーストのやつ、今度は何を言ってきたんだ?」
 音がやむまでじっと耳を傾けていたが、やがて副長は振り返った。
「ゴーストはウルフを追跡し、正しくデータを取り直したあと、もう一度連絡してくれるそうです」
「2発目はやはり外れたのか」
「そのようですね」
「おかしいじゃないか。データははっきりしていて、しかもウルフはわき目も振らずにただ直進しているだけ。距離も遠くはない。どうして外れるなんてことがあるんだ?」
「さあ?」
「けっ、気に入らねえがまあいいか。ゴースト先生がウルフの最新データを寄越すのに、何分ぐらいかかる?」
「ウルフのソナーに気付かれないように迂回して接近し、至近距離で一分間かけて並走して測定、それから戻ってくるから、15分というところでしょうか」
「そんなにかかるのかい? だがしかたねえ…。よしソナー手、ゴーストから連絡があるまで、おまえは休憩していいぞ…。それから操舵手、戻ってくるゴーストを道に迷わせないため、本艦はこのまま直進を続ける。いいな、速度も変えるんじゃないぞ」
「はい艦長」



「何だ、これは?」
 ウルフだと信じて相手に忍び寄ったが、その正体に気づいたとき、ゴーストも驚きを隠すことができなかった。
「なんとこれは潜水艦ではなく、マッコウクジラを連れたヒトリ竜騎兵ではないか…。そうか、こういうトリックだったのか。マッコウクジラの背にある奇妙な機械が、本物の潜水艦とそっくり同じ音を出すのだな。やれやれ、どうりで魚雷が命中しないはずだ…」
 頭を切り替え、ゴーストは作戦を変更することにした。
「よし、ウルフを探し出すのは後回しだ。まずあの竜騎兵をなんとかしよう…。アルファ、いったん下がって距離をとれ。ランスの準備をしよう。ガンマもついて来い」



 敵の魚雷をなんとかかわした直後、
「ねえチビ介…」
 と話しかけようとしたが、その瞬間にジャネットの記憶は途切れてしまった。
 衝突音やショックを感じる暇さえなく、一瞬で気を失い、ジャネットは何もわからなくなった。



 目が覚めたときジャネットは、自分がどこで何をしているのか、とっさには理解できなかった。
「おや、ここはどこだ? 私は何をしていたのだろう? あっ痛」
 額に痛みが走り、ジャネットは顔をゆがめた。
「…私はヘルメットの中で頭をぶつけたようだ。何がどうなっているのだか…」
 その瞬間、ジャネットは思い出したのだ。
「そうだ。私は敵から攻撃を受けたのだ…。だがおかしい。なぜ私はまだ生きているのだろう?」
 大急ぎで手を伸ばし、ジャネットはランスと盾を手に取った。
 緊張のあまり指先が震えていたが、なんとか準備を終え、しかしそのあと10秒過ぎても20秒過ぎても何も起こらないことを、ついにジャネットは不思議に感じ始めた。
「おかしいぞ。どうして敵は攻撃してこないのだろう? まさか一撃で私を倒したと思っているのか? おそらく私は、ランスの直撃を受けたのだと思うが…」
 ここでやっとジャネットは、深度計をのぞき込むことを思いついたのだ。
「あれっ、深度計の針は500メートルを指している。いつの間に?… そうか、ハマダラカ竜騎兵は深海へは足を踏み入れることができない。だから私は助かったのだ」
 ほっとして、ジャネットは体中の力が抜けてしまった。
「そうか、敵から攻撃を受けたとき、私の指示を待たずにチビ介は泳ぎ始め、深海へ逃げ込んでくれたのだな」
 ヘッドライトの光を向け、ジャネットはチビ介の表情をのぞき込んだ。
「どんなもんだい」とでも言いたげに、チビ介はジャネットを見つめ返した。
「ふうう…」
 敵がやってくることはないとわかると、やっとジャネットも落ち着いて頭を働かせることができた。
「ようし、ここまでは私が狩られる側だったが、今度はお返しをしてやる。キツネ狩りのキツネじゃあるまいし、いつまでも逃げ回っていられるものか」
 道具箱に近寄り、ジャネットはゴム風船を取り出した。
 直径が数メートルある物だが、チビ介の助けを借りてふくらませるのは簡単な仕事だった。
 チビ介の背に乗り、次にジャネットは擬似音響装置の取り外しにかかった。
「そうだよ、チビ介。ゴム風船をつけて、この擬似音響装置を浮上させてやる。私だと思って、敵竜騎兵は追跡するに違いない。そこを狙うのさ」
 チビ介がギョロリと動かす目玉と、ジャネットは視線を合わせた。
「そうさチビ介、今度は私がワナを仕掛ける番だよ。敵がうまく引っかかるように祈ろう」
 手を離すと、あっという間に擬似音響装置とゴム風船は視界の外へ見えなくなったが、もちろん音はしっかり聞こえている。
 ゴウゴウ、ガシャガシャという潜水艦の航行音だ。
「さあチビ介、音を立てないようにして、あのあとをそっとついてゆくのだよ」
 ゴム風船は垂直に登ってゆくので、ジャネットたちも共に水面を目指す形になった。
 頭を天に向けてチビ介は上昇を続け、ランスと盾を構え、ジャネットはそのそばに身を潜めていた。



 潜水服の中で、ゴーストは耳を澄ませた。
 深海から上昇してくる音は、ヘルメットを通してもはっきり耳に届いている。
「敵国ながら、あれはなかなかの発明品ではないか。正体はクジラに乗った竜騎兵に過ぎないのに、音だけなら本物の潜水艦と区別がつかない。この私ですらだまされたほどだ」
 一発目の魚雷はうまくウルフにあてることができたが、いつの間にかあの小ざかしい竜騎兵がウルフと入れ替わり、二発目は見事に外れてしまった。
 だがゴーストはニヤリと笑ったのだ。
「そのカラクリに気がついたときには、私もびっくりしたよ。だがすかさずランスを取り出し、あの竜騎兵を攻撃してやった。やつは心臓が止まるほど驚いただろう」
 しかしヒトリの潜水服は分厚く、ランスをもってしても突き破ることができなかった。
 竜騎兵も一瞬は気絶したようだが、あのマッコウクジラの機転に救われ、あっさり逃げられてしまった。
「よく慣れ、しっかり訓練されたいいマッコウクジラだ。シャチには闘争心と瞬発力がある。マッコウクジラにはそれらが欠けるが、物事を自分で判断し、正しく行動する能力が備わっている。くやしいが、それはシャチには望むべくもない」
 ゴーストは、手の中のランスをもう一度確かめた。
「だが、あの竜騎兵の人生も今日までだ。私のランスを受けて、二度目の幸運はないぞ」



 汗ばんだ手でランスを握りなおし、ジャネットは耳を澄ませた。
 擬似音響装置の音は、頭上からはっきりと聞こえてくる。
 戦い前の武者ぶるいで、チビ介も興奮している。
 普段とは違うヒレの動きの固さ、力強さが伝わってくるのだ。
「騎士を乗せていた大昔の馬たちも、命をかけた決闘の前にはこのようだったのかもしれない」
 チビ介は静かにヒレを動かし、ジャネットは前方に目をこらしていた。
 そして見たのだ。
 海中を切り裂くように、突然電気の光がきらめいた。
 十分に近くまで接近したと確信したゴーストが、ヘッドライトのスイッチをオンにしたのだ。



「なんだ?」
 それは落胆という言葉では不十分で、混乱と呼ぶしかなかった。
 背中に擬似音響装置を装備したマッコウクジラが光の中に浮かび上がるはずが、まったく別のものだったのだ。
「これは何だ? ただのゴム風船か? しまった、計略に引っかかったぞ」



 その瞬間、これ以上はない強さで超音波笛を吹き鳴らし、ジャネットは命じたのだ。
「ゆけチビ介、それっ」
 それ以上の細かい指示など必要なかった。
 全身の力を尾びれに集め、チビ介はドンと加速したのだ。
 もちろんすぐにゴーストは反応したが、タイミングが遅れたことは否定できない。
 ランスの向きを変えようとしたときには、すでにジャネットは数メートルの距離に接近していた。
 ヘルメットの中でジャネットは笑った。
「マッコウクジラに比べれば、シャチなど小型のクジラでしかない。持ち運べる装備量もたかが知れている。おかげで、ハマダラカ竜騎兵は盾すら装備していないではないか」
 だがそのジャネットを、大きな驚きが待ち受けていたのだ
「あっ、あの顔…。もしや、あの竜騎兵はゴーストか?」
 その驚きがジャネットの手元を狂わせ、ランスはターゲットを逃してしまったのだ。
 チビ介の体重の乗った強力な切っ先だが、おしいどころか、ゴーストにかすりもしなかった。
 ヘルメットの中で、ジャネットは唇をかむしかなかった。
「間違いない。ヘルメットの中に見えたあの顔はゴーストだ…。くそっ、やはり経験とキャリアの差か。ゴーストから見れば、私などしょせん、ひよっ子竜騎兵に過ぎないのか」
 二個の流星のようにジャネットたちは一瞬ですれ違い、急速に遠ざかっていった。
 手の中でランスを握り直し、振り返ってジャネットは頭をめぐらせたが、ゴーストのヘッドライトはもうどこにも見えなかった。
「ゴーストはどこへ消えた? ヘッドライトを消したのだな。だが体勢を立て直し、いつまた襲い掛かってくるか、わかったものではないぞ…。それに、もうゴム風船は海面に達した頃だろうか」



「艦長」
 ゴーレムの艦内でソナー手が声を上げるので、スピナー艦長は振り返った。
「どうした?」
「潜水艦の音をキャッチしました。方位080、距離800から900、深度は…、なんと浮上中です」
「浮上中だと?」
 副長が意外そうに眉を上げた。
「海面に出て、ウルフは我々に降伏するつもりでしょうか?」
 スピナー艦長は鼻を鳴らした。
「そんなはずがあるものか。戦時でもない今、どこの国も捕虜なんぞ取らないことは誰だって知っている。白旗を振られようが懇願されようが、俺たちには魚雷をぶち込んで、ウルフを海底深く沈める以外に選択肢はない。証拠隠滅ってやつよ。これまでの3隻と同じようにな」
「魚雷の装填はすんでいます」
「よしソナー手、魚雷室に発射データを教えてやれ。距離が500まで近づいたら発射していいぞ」
「はい艦長。距離ただいま750。さらに接近中、730、700、680…」



 いざジャネットとすれ違い、距離が開いてしまうと、ゴム風船に引かれて浮上を続ける擬似音響装置に、ゴーストは強く興味を持った。
「これは本当に興味深い装置だ。複雑な仕掛けでは決してないのに、うまくできている。なんとかハマダラカへ持ち帰りたいものだな」
 シャチの背の道具箱を開き、ゴーストは工具を取り出した。
 擬似音響装置を分解し、ゴーレムに引き渡そうというのだ。
 まずナイフを取り出し、ゴム風船と連結されている部分を切り離そうとした。
 だがゴーストは仕事を終えることができなかった。
 突如、水中にある音が響いたのだ。
 それがゴーストを振り返らせた。
「あれは何の音だ? どこかで聞いた耳慣れた音ではあるが…」
 ゴーストの聴覚は確かだった。
 ヘルメットの中で耳を澄ませるだけで、音の正体を正しく見抜いていた。
「あれは魚雷の発射音だ。しかも、こちらへやってくるぞ。一体誰が発射した? 間違いない…、こちらめがけて一直線にやってくる」
 近づく轟音に、2匹のシャチはパニックに陥った。
 大量の泡を吐きながら、目にもとまらぬスピードで魚雷は迫ってくるのだ。
 恐れるなというほうが無理だ。
 パニックにおちいり、ゴーストの制止もきかず、アルファとガンマはてんでバラバラ、あとも見ずに全速力で駆け出してしまった。



「おびえて暴走するクジラの背中に乗っているときほど、情けないことはない」
 と、竜騎兵になって以来何度目になるかわからないが、今この瞬間もゴーストは感じていた。
 特にこのシャチどもときたらどうだ。
 マッコウクジラであれば、もう少し落ち着きがある。
 あのでかい頭で、もう少しましに状況を把握し、暴走といっても1分か2分。
 そのうちに自分を取り戻すものだ。
「まったくハマダラカとはどういう国だろう。竜騎兵部隊を運営するのに、なぜシャチなんぞを使う?」
 ゴーストは舌打ちをした。
「なるほどシャチには強い闘争心がある。だが思慮深さはなく、一度暴走を始めたら、静めるのは並大抵ではない。だから私は、ハマダラカでもマッコウクジラを用いるようにと進言したのだ。頭の固い連中を説き伏せ、やっとマッコウクジラを一頭導入するのに、どれだけ骨が折れたか。しかしその一頭も、作戦行動中に行方不明になってしまった…」
 ゴーストは考え続けた。
「私自身がピーターと名づけ、やたら素直で人懐っこい子供のマッコウクジラだったが、実におしいことをした。今あいつがいれば、私の仕事はどれほど楽になることか…。そういえば、ピーターは本当にどこへ行ってしまったのだろう。なんでも最後の目撃によれば、ピーターは突然、背中にヒトリ竜騎兵を乗せて現れたというが…」
 アルファはまだ暴走を続けている。
 超音波笛を吹き鳴らしていくら指示を出しても、まるで受け付けないのだ。
 ヘルメットの中で、ゴーストはもう一度唇をかんだ。
「ええい、本当にこのシャチというやつは…。そういえばガンマはどこへ行った? 訓練をつんだアルファでさえこうなのだから、ガンマも同じように暴走しているに違いない。ああ、見回してもそばにはいないな。全くあさっての方角へ行ってしまったのか。まだ新米で半人前のシャチとはいえ、困ったやつだ」



 ゴーストの姿を求め、暗闇の中でジャネットは何回目かの周回に入っていた。
 チビ介の聴覚を最大限に発揮させ、緊張のあまり、ジャネットの歯もカチカチと鳴ったほどだ。
 うるさいし耳障りだが、どうしても止めることができなかった。
 だがそこへ、突然大きな衝撃を受けたのだ。
 驚くどころか、ジャネットは心臓が止まってしまいそうな気がした。
 背中を押されて大きくつんのめり、ヘルメットの中で額をぶつけてしまった。
「なんだ? ものすごく強い力で後ろから押してくる」
 今度ばかりは、チビ介の反応もかんばしくはなかった。
 不意の襲撃に、とっさに逃走するどころか、硬直したかのように、チビ介はヒレを動かすことができなかったのだ。
「だけどおかしい。押してくるのは、どう見てもランスではない。くそっ、ヘッドライトのスイッチはどこだ? こんなときに手がすべるなんて…」
 やっと点灯したヘッドライトの光の中に浮かび上がったものが、もう一度ジャネットを驚かせた。
 そこにはシャチの頭があったのだ。
 白と黒の模様のあるつややかな肌が、光を跳ね返している。
「こいつめ、暗闇の中、何かから無我夢中で逃げてきたのか? さっき聞こえた魚雷の発射音と関係があるのかな? われを忘れて私の空気パイプにぶつかり、からまって身動きが取れなくなったのか」
 これがガンマだったのだ。
 自由になろうとガンマは猛烈に暴れるが、空気パイプは頑丈な金属製で、ちょっとやそっとで切れるはずはない。
 ジャネットの頭を食いちぎってやろうと、ガンマのアゴは何度も開いては閉じるが、あと何センチかのことでギリギリ届かない。
「くそっ、なんてことだ」
 この瞬間、ついにチビ介が猛然と泳ぎ始めたのだ。
 頭を下へ向け、急降下のような潜行に入ったのにはジャネットも驚いた。
 ガンマはあらがい、自由になろうと力の限り暴れるが、体のサイズが違いすぎる。
 大人が子供を引きずるようにして、チビ介は深度をかせいでいった。
「チビ介は何を考えているのだろう? そうか、このシャチを深海へ引きずり込む作戦だな」
 ジャネットは深度計をのぞき込んだ。
「シャチは深海へ足を踏み入れることができない。深海の水圧に負けて、やがて死んでしまう。ああ、もうすぐ針が200メートルを超えるな…。シャチめ、目にもの見るがいい。私の潜水服とマッコウクジラの体は、深度1000メートルでも平気なのだぞ」
 深度が増すにつれ、苦しくなるのだ。
 ガンマの暴れ方はますます激しくなり、まるでワナにかかったトラのようだ。
 体中の筋肉をすべて用いて、ヒレとアゴを振り回す。
 胸びれが何回かジャネットの潜水服をかすったが、チビ介は降下を続けた。
「深度はもう300を超えようとしている」
 ガンマの動きは目に見えて弱くなった。
 アゴや尾びれの動きも小さく、気を失いかけている。
「さあ、もうすぐ深度500に達するぞ。ハマダラカのシャチめ」
 ついにガンマは完全に動かなくなった。
 尾びれも胸びれもダラリとし、あの恐ろしいアゴも動きをやめ、目や口からは血が流れ出ている。
 まるで絵の具のように、赤い線を引きながら水中を漂っていくのだ。
 ほっと息をつき、やっとジャネットはチビ介に停止の指示を出すことができた。
「さあチビ介、もういいよ。潜行は中止していい。敵は死んだよ」
 ナイフを用い、空気パイプに引っかかっていた装具ベルトをジャネットが切り離し、チビ介がブルブルと体を揺らすと、海底へむかって、ガンマはゆっくりと落ちていった。
 だがジャネットは知らなかったのだ。
 生まれながらの戦士とも言うべきシャチが、何もなくただ死ぬはずがない。
 死ぬ直前に、水面へ向けてガンマは超音波を発していたのだ。
 それが水中を進み、アルファの耳に入っていた。
 それを受信したアルファの表情に、ゴーストが気づかないわけがない。
 数分も立たないうちにジャネットは、上方から落下してくる何発もの爆雷の洗礼を受けることになった。



 アルファの表情から状況を読み取り、ゴーストはつぶやいたのだ。
「ほう、ガンマは死んだか…。あの小柄な竜騎兵め、会うたびに強くなってゆくではないか。それにしても、確かなのだなアルファ? やつは今、この真下にいるのだな?」
 しかしゴーストにとっても万全の戦いではなかったのだ。
 ジャネットがいる深海へは、シャチは足を踏み入れることができない。
 爆雷を用いる以外に、ゴーストには攻撃方法がなかった。
「この距離で爆雷を命中させるのは至難の業だ。いや、まず不可能といっていい。クジラにかすり傷でも負わせれば万歳というところか」
 しかも爆雷の数には限りがある。
 数分後、ゴーストはしぶい顔をした。
「なんとこれが、私が持つ最後の一発ということだ…」
 祈りにも似た願いをこめてゴーストはその一発を投下したが、戦いの女神は微笑まなかった。
 偶然だがこの一発はすぐ近くへ落下し、ひやひやするどころかジャネットは息まで止まってしまいそうな気がしたが、結局は知らん顔をして通り過ぎ、爆雷は彼女のずっと下方で無害に爆発するだけですんだ。
 状況はよくない。
 ゴーストは知恵を絞った。
「よしアルファ、一度作戦を立て直そう。水面へ向かうぞ。うまくいけばゴーレムと合流し、物資の補給を受けることができる」
 だが、アルファが奇妙な動きを見せたのは、その時のことだった。
 決して大きな変化ではないが、目ざといゴーストが見逃すはずはなかった。
「どうしたアルファ? 何が起こった?」
 アルファのヒレの動きは見間違いようのないものだった。
 ヘルメットの中で、ゴーストは眉にしわを寄せたのだ。
「なんだとアルファ? 『クジラが発する超音波をキャッチした』だって? しかし一体、どこのクジラだ? まさかあのヒトリのマッコウクジラではなかろう。戦闘中に超音波発信を許可するバカな竜騎兵はいない…。だがまさか…」



 しかしジャネットは、確かにそう指示を出したのだ。
 思いがけない指示に、不思議そうな顔をしてチビ介が見つめるので、
「いいからおやり」
 とジャネットは口を動かした。
 だからチビ介は従ったのだ。チビ介の発信した超音波は海中に広く響き渡り、これがアルファの耳に届いたのだ。
 ゴーストのヘッドライトが見えてくる瞬間を、ジャネットは待ち続けた。
「ほらほらゴーストさん、私はここにいるよ。逃げも隠れもしない。戦いたければ、ここまで降りておいで」
 シャチにも潜水可能な深海の入口まで戻り、360度すべてをくまなく見回すため、円を描いてチビ介はゆっくりと泳ぎ続けた。
 だがジャネットの隙を突いて、なんとゴーストは真上からやってきたのだ。
「あっ、来たぞ。ゴーストが降下してくる!」
 ゴーストのヘッドライトは、始めはぼんやりした小さな光点に過ぎなかったが、みるみる大きくはっきりと変わり、あっという間に夜空に光る北極星のように明るくなった。
「チビ介、用意はいい?… おや、どういうことだ?」  
 ゴーストが接近する速度の大きさに、ジャネットは度肝を抜かれたのだ。
「なんていうスピードだろう。あんな速さは一度も見たことがない。訓練校で聞かされたよりも、1・5倍は速い」
 計算に狂いが生じるどころか、ランスや盾の方向を変えるのさえ、もう間に合わなかった。
「くそっ、今さら泣き言を言っても始まらないか…」
 真上から突っ込むことで不意をつき、ジャネットの対応が遅れることを、始めからゴーストは狙っていたのだ。
 しかもあの常識外れのスピードだ。
「あっチビ介、何をするの?」
 ランスの方向転換が間に合わないと知るや、ジャネットのために、チビ介はとっさに体を丸めた。
 あのサイズからは信じられないが、クジラの体は意外とやわらかい。
 頭を下にむけてへそを内側にし、ボールのように小さくなったのだ。
「いいぞ、チビ介」
 それによってゴーストも当てが外れたわけだ。
 チビ介の鼻先、ほんの数メートルのところを空振りして、通り過ぎていった。
 このときジャネットは、ゴーストのスピードの秘密を知ったのだ。
「なんだゴーストの奴、背に乗るのではなく、シャチの腹の下にしがみついている。体を密着させ、あれなら水の抵抗が少なく、スピードが出るのも不思議はない」
 今回も、ジャネットのランスはゴーストにかすり傷一つ与えることができなかった。
 だがそのことも、ジャネットを落胆させはしなかった。
「あのスピードなのだから、ゴーストはこのまま垂直に、相当な深さまで行き過ぎてしまうに違いない。ここはもう深海の入口なのだからね。さあチビ介、ゴーストとシャチが深海の圧力にどのくらい耐えられるものか、お手並み拝見といこう」
 ジャネットはチビ介に、新たな指示を送った。
 それを受け、チビ介はすぐに行動を開始した。
 勢いあまって深海へ足を踏み入れたゴーストの追跡に移ったのだ。



 限界深度を超えて潜っていることは、もちろんゴーストも承知していた。
「これはまずいぞ。一秒でも早く浮上し、水圧を減らさなくてはならない。だがくそっ、あの竜騎兵め。マッコウクジラの体でふたをし、私を上昇させないつもりだな」



 ヘルメットの中で、ジャネットは声を上げて笑った。
「おやおやゴーストさん、お困りのご様子。だけど逃がしゃしないよ。これまでのお返しをするからね」

 チビ介の背に手を伸ばし、ジャネットは爆雷をつかんだのだ。
 安全ピンを抜き、ゴーストの頭上に投下してやった。
 爆雷の投下訓練は、もちろんチビ介も充分に受けていた。
 敵が下方にいる場合に適した特別な泳ぎ方があり、それをうまく実行したのだ。
 おかげでゴーストは上昇もままならず、深海に足止めされた。
 次々に落ちてくる爆雷をよけるのが精一杯で、上向けの進路を決定することができないのだ。
 だがこの日の運も、ジャネットの側にばかりあったのではない。
「くそっ、もう爆雷が品切れだ。調子に乗って使いすぎたか」
 手元に爆雷がもう少しあれば、ジャネットはゴーストを追い詰めることができたかもしれない。
 しかし、さすがはゴーストだ。
 爆雷を避けて逃げ回るだけに見えて、実はジャネットの爆雷がつきる瞬間を待ちかまえていたのだ。
 最後の一発が閃光を発し、水中に轟音が響いた直後から、ゴーストは行動に出たのだ。



「やれやれ、だいぶひどい目にあったな」
 あっと思う間もなく、ジャネットとチビ介の鼻先をロケットのように全力で駆けぬけたあと、アルファに命じて水面へ頭を向けさせながら、ゴーストはつぶやいた。
「これほどの爆雷を食らったのは私も初めてだ。あの小柄な竜騎兵め、まだ若いが、本当によく訓練されている。いや、いちいち指示を与えなくても正しく動く、あのマッコウクジラのおかげか…。まあいい。やつの鼻先をかすめ、なんとか抜け出すことに成功したわけだ」
 急速上昇を続けているので、深度計の針はどんどんゼロに近づいている。
 もはやマッコウクジラでは逆立ちしても追いつけないスピードが出ている。
「あの竜騎兵のせいで、何メートルまで潜らされたのだろう? 200か? あるいは瞬間的に210に達したかもしれない。水圧のせいでアルファが傷を受けていなければよいが」
 ゴーストは、限界深度を超えた潜水がシャチにもたらす、さまざまな症状に思いをめぐらせた。
「くやしいことだが、今回はこれで戦闘を打ち切るほかない。今すぐにアルファをハマダラカへ連れ戻る必要がある。厳重な医学検査を行わなくてはならない。他のシャチならともかく、このアルファを失うわけにはいかないのだから」
 まるで古い友人に対するかのように、ゴーストはアルファの背にそっと触れた。
「さてアルファ、続けさまですまないが、ゴーレムを探してくれ。一刻も早く合流し、ハマダラカへ戻ろう」



 本来なら、戦闘はこれで終了するはずだった。
 ゴーストは逃げ去り、ゴーレムと共にハマダラカへ帰ってしまう。
 ジャネットもウルフと合流し、やはりヒトリへと戻ってゆく。
 そうなるはずだった。
 だがそのとき、奇妙な出来事が起こった。
 ジャネットの目前を横切るものがあったのだ。
 数匹のサメが深海の暗闇から不意に姿を現し、水面を目指して、矢のように通り過ぎていったのだ。
 とがった牙を見せ、目玉を銀色に輝かせている。
 ジャネットはただ見送ったのだが、チビ介の反応は違っていた。
 ジャネットの気を引くために体をプルプルと振り、クリクリと目玉を動かしたのだ。
「どうしたの?」
 もちろんクジラが口をきくわけがない。
 チビ介はただ意味ありげにジャネットを見つめるのだ。
「どうしたのチビ介?」
 だがチビ介は、やはりジャネットを見つめるばかり。
 ジャネットは決心した。
「いいわチビ介。あんたの好きなようにやりなさい」
 その合図を受けると、チビ介は猛然と泳ぎ始めた。
 尾びれに力がこもり、水面を目指したが、チビ介はあのサメたちを追跡しているのだ、とジャネットも気がついた。
 サメたちは水面を目指して上昇を続けており、チビ介はその背後についた。
 いつの間にか夜が明けたらしく、明るい水面がやがて頭上に見えてきた。
「えへん、どうだい?」
 とでも言いたそうにチビ介がもう一度目玉を動かしたときには、ほうびに肌をなでてやったが、実は驚きのあまり、ジャネットは呆然としていた。
 水面近くに、なんとゴーストとアルファの姿がくっきりと見えてきたのだ。
 ジャネットがさらに口をあんぐりと開けたのは、そこには潜水艦ゴーレムまでいたからだ。
 今は浮上して、艦首にあるくちばし形のドアを大きく開いているから、ゴーストとアルファの収容にかかっているとわかる。
 だがそれだけではなく、あのサメたちもそこにいるのだ。
 サメたちはアルファに襲いかかっていた。
 2、3匹で固まっては牙をむき出し、かわるがわる猛スピードで突進するのだ。
 どうやらジャネットの爆雷攻撃は無駄ではなかった。
 アルファの体に傷を与え、そこから出血していたのだ。
 その血の匂いを深海からかぎつけ、サメたちは集まったのだ。
 さすがのゴーストも苦戦している。
 ランスを振り回すのだが、小回りがきくことではサメのほうが上手であり、切っ先をスルリとよけては身をひるがえし、牙を向けて攻撃に転じるのだ。ゴーストがいかにも手を焼いているのが、見ているだけで伝わってくる。
 しばらくの間、ゴーストは敵に何のダメージも与えることができなかった。
 2度、3度とサメの牙がかすめ、アルファは傷を受けつつある。
 ゴーストはあせりを感じた。
「どうすればいい? 爆雷も使い切り、多勢に無勢では、私でもやりようがないぞ…」



 潜水艦ウルフの排水ポンプは規則正しい音を立て、働き続けていた。メロン中佐が口を開いた。
「副長、船体の傾斜は何度まで戻った?」
「完全な水平まであと7度というところですか」
「まだ少し歩きにくいが、なんとかなるな。いったん浮上しよう」
「ゴーレムのことはどうしますか? スミスからの連絡はまだありません」
「ジャネットかい? 今はゴーレム相手に苦戦しているか、もしかしたらゴーストと直接対決しているのかもしれない。いつまでも連絡を待ってはいられないさ。いいから浮上の用意をしろ」
 メロン中佐の命令はすぐに艦内のすみずみまで伝えられた。
 乗組員たちは準備にかかり、やがて船体は浮上を始めたのだ。
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