人食いクジラ  上

文字数 3,771文字

 ある日、アップル大尉が部下たちを部屋に呼び集めた。
 この部屋は指示室と呼ばれ、作戦におもむく兵に最後の指示を与える場所として使われてきたので、そこへ集められたというだけで、ジャネットは緊張を感じた。
 アップル大尉はすぐに口を開いた。
「戦争のきっかけなど、思いがけず些細な出来事だといつも相場が決まっているが、どうやらわが国とハマダラカの間も例外ではないらしい」
 ジャネットはそっとため息をついた。
 ずっと恐れていたことが、ついに起こったのだ。
 アップル大尉は言葉を続けた。
「昨日、ヒトリ領海で奇妙な動きを見せたハマダラカ貨物船に対して、わが国の警備艇が停船を命じた。後になってわかったことだが、この貨物船はただ舵が故障していただけだ。しかし不用意な発砲が行われた今となっては、すべて結果論でしかない。ヒトリ、ハマダラカ両国とも、すでに全軍に出撃命令が下っている。呼応して、ハマダラカ海軍はアトラスまで出撃させたという情報が入った…」
 つい先月、造船所を離れたばかりの最新鋭戦艦まで出てきたのなら間違いない。
 これは本物の戦争だ。
 各人それぞれに命令や指示を与えて部屋を去らせた後、アップル大尉はジャネットに声をかけた。
「スミス、おまえは少し残れ」
「はい」
 今のジャネットには乗るべきクジラがないのだ。
 ペンを片手に書類の整理をしていたが、アップル大尉はついに顔を上げた。
「スミス、おまえはしばらく指揮所にとどまり、雑用をこなしてくれ。出撃する連中は準備におおわらわだ。手伝いの手はいくらあっても足りないだろう」
「はいアップル大尉」
「海軍本省から呼ばれているので、俺は今すぐ行かなくてはならん。夜までには戻るから、留守番を頼む。いいな?」
「はい」
 アップル大尉は出かけていった。
 その後ジャネットは目が回るほど忙しかったが、アップル大尉はなかなか帰らなかった。
 そのうちに日まで暮れ始めたが、電話のベルが鳴ったのはその時だった。
 当番の新兵が受話器を取り、意外そうな表情でジャネットを振り返ったのだ。
「スミス少尉、あなたに電話です」
「私? 誰からだろう?」
「アップル大尉ですよ。本省からかけているそうです」
 当番兵から受け取り、ジャネットは受話器を手にした。
「もしもし…」
「ああスミスか? 俺だ。まだ本省にいるんだ。帰りは思ったよりも遅くなりそうだ」
「はい大尉」
「司令部から変な命令が出て、実は困っている。今の指揮所には、充分な数のクジラがいない」
「そうですね」
「それでだスミス。プールへ行って、俺からの伝言を伝えてくれ。そんなことは到底無理だと断ったんだが、司令部に押し切られてしまった。平時であれば俺も絶対に納得しないが、状況が状況だからな」
 アップル大尉の伝言を聞き終え、受話器を置くとジャネットは廊下に飛び出し、クジラ用プールのある建物へと急いだのだ。
 平屋建てのずんぐりした建物だが、その入口で飼育班長の姿を見つけ、すぐにジャネットは話しかけた。
「班長、アップル大尉から伝言を頼まれたの」
 班長は、中年というにはまだ若く、スズメの巣のように乱雑な髪をいつも帽子の下に押し込んでいる。
 あまり目立つ見かけの人物ではないが、クジラの飼育にかけてはナンバーワンであり、指揮所では絶対に無視できない存在であることは、誰だって知っていた。
「伝言だって? アップル大尉は本省へ行ったと思ったが」
「いま本省から電話をかけてきたの。急な開戦でクジラの数が足りなくて、司令部はあせっているらしいわ」
「なるほど…。敵主力艦隊の位置は、まだ諜報部もつかんでいないのか」
「ハマダラカはアトラスまで出撃させてきたそうよ」
「アトラス? あれは乗組員の習熟訓練がまだ済んでいないと聞いたが?」
「それでも出してきたのよ。開戦からまだ24時間にしかならないのに、もはや総力戦だわ」
「司令部は何を言ってきたのだね?」
「アップル大尉の言うには、第4プールの鍵を開けて、例のクジラを大プールへ移せって」
「まさかダイモンを実戦に投入するのかい? 一体誰があの死神に乗るというのだね?」
「そんな危険な仕事は誰にもさせられないから、アップル大尉が自分で乗るそうよ。本省から戻りしだい出撃できるように準備しておけ、と私は命令を受けたの」
「無茶だ。ダイモンがどんなクジラかは、あんただって知っているだろう?」
「私はまだ見たことがないから、噂だけはね。でも司令部の命令だもの、アップル大尉も逆らえなかったそうよ」
「やれやれ、なんてことだ…」
 班長はポケットから取り出し、ジャネットに第4プールのキーを手渡した。
「これだよ、スミス。手伝えればいいのだが、私も班員たちも今日はみな大忙しだ」
「いいんです。ダイモンを大プールへ移して潜水服を接続するだけだから、私一人でもできますよ」
「頼むよ。ああそれから、ダイモンの姿を初めて見てきっと驚くと思うが、びっくりしすぎて水に落ちるな」
 第4プールは他のプールから少し離れ、狭い廊下を進んだ先にあった。
 そこへ通じるドアには、『特別な許可を得た者以外は立ち入り禁止』、とまで書かれているのだ。
「ここにどんなクジラがいるのか知らないけれど、なんて大げさなのだろう…。さてドアを開いた。ダイモンはどこだ?」
 ジャネットは見回し、そして気がついた。
 広々としたプールの底に何かが沈んでいる。
 いや、潜んでいるのだ。
 目を見開き、じっとこちらを見つめている。
「とても大きなクジラだ。体長は、もしかしたら20メートルを超えているかもしれない…」
 冷蔵庫から運んできた魚を投げ込むと、最初は警戒していたが、やがてダイモンが一口で飲み込んだので、ジャネットはニヤリとした。
「これで少しは信用してもらえたわけだ。おやっ、あれはなんだろう?」
 ここでやっと、ダイモンの姿を見ても驚くな、と班長が口にした理由がわかったのだ。
「えらく白っぽいクジラだとは思ったけれど…。なんと体の大部分がフジツボに覆われているのか」
 ジャネットの言うとおり、クジラ本来の黒い肌はもはや半分ほどしか見ることができなかった。
 水中に手を入れ、ジャネットは肌をなでてやろうとしたが、感じることができたのは、そのフジツボのゴツゴツした感触だけだったのだ。
「まあいい。とにかく仕事にかかろう」
 水路を開いて大プールへと移し、ダイモンに潜水服を取り付けるのは難しい仕事ではなかった。



「私としたことが、今回はやけに地味な仕事を命じられたものではないか。ソナーのかわりとして、敵潜水艦を警戒する役とはな」
 そう思いながらゴーストは見回したが、振り返っても何も見ることはできなかった。
 いくら巨大な戦艦アトラスでも今は暗闇の中に沈み、気配すらないのだ。
「いくらなんでもアトラスから離れすぎたか? いや、ある程度は距離を取らないと、巨大な船体が立てる騒音に邪魔をされて、クジラたちの聴覚も役には立たない…。そういえば部下たちはどうしているだろう? 扇形に広がって、私の左右に散らばっているはずだが」
 ゴーストが瞳をのぞき込むと、すぐにピーターは気付いて見つめ返した。
 その表情にはどこか茶目っ気があり、ハマダラカ竜騎兵部隊で唯一マッコウクジラに乗る者として、ゴーストも誇らしく感じた。
「司令部にとって、アトラスはかなりの虎の子と見える。ヒトリ潜水艦との遭遇がそれほど怖いのだな。それゆえこうして竜騎兵部隊を差し向け、前方の警戒に当たらせているわけだ…。まあいい。久しぶりに手元に帰ってきたピーターだ。やりがいのない仕事だが、互いになじむための機会だと思えばいいさ」



「あれっ、あの音は何だろう?」
 大プールのわきで、思わずジャネットは顔を上げたのだ。
 ダイモンへの潜水服の装着はすでに完了していた。
「なんとも不快な音だ。上空から聞こえるのか。まさか、飛行機が飛んでいるのかな?」
 それがハマダラカ爆撃機が発する音だとジャネットが気づいたのは、第1弾が命中し、大きな爆発音と共に指揮所の一角が崩れ落ちたときだった。
「なんてことだ。敵の爆撃機だ」
 大急ぎで窓に近寄ったが、目に入ったのは、2発目の爆弾が命中して指揮所の別の一角が吹き飛び、コンクリート壁が崩れおち、窓ガラスが粉々に飛び散るところだった。
「ハマダラカめ、アトラスの居場所を知られることを恐れているのだな。そのために先手を打ち、竜騎兵指揮所を叩くということか…」
 絶望的な瞳で、ジャネットは空を見上げた。
 すでに味方の対空砲が火を吹きはじめているが、ハマダラカ機は敏捷に銃弾をよけ、爆弾を落とし続けるのだ。
「これでは、いつこの建物にも命中するか、わかったものではない。思い切って外へ出るか…」
 だがジャネットは考えを変えた。
「いや、いま外へ出るのはまずい。出れば爆弾の餌食になるだけだ…。だとすると」
 ジャネットは背後を振り返った。これだけの爆撃にもかかわらず、プールには波もなく静かで、その下でダイモンがヒレを動かすのが見えたのだ。
「ああ、それしか方法はない」
 覚悟を決め、ジャネットは駆け出した。
 水音を立ててプールへ飛び込み、ダイモンに泳ぎ寄ったのだ。
 ヘルメットを押し上げ、潜水服の中へ体を滑り込ませるには、ほんの数秒しか必要なかった。
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