鯨剣  上

文字数 13,094文字

 最初に顔を合わせた瞬間から、ジャネットは嫌な予感がしていたのだ。
 ベスとは、アップル大尉のオフィスで引き合わされたのだが、ジャネットの表情に気がついたようでアップル大尉はジロリとこちらを見、
「この短期研修生が非常に感じの悪いガキだということはオレも認めるが、海軍特科学校から来た特別なお客さんだからお前も我慢して、トラブルなんか絶対に起こさないようにするんだぞ」
 と片方の眉を上げるだけで伝えてきたのである。
 ベスはまったくその通りの小娘で、真黄色な髪に油っぽいニキビ面をして、ジャネットの顔をチラチラと見ながらも、バカにした表情を隠そうとはしなかった。
 海軍特科学校といえば有名なエリート校であるし、父親が海軍大佐でもあるから、自分には制服を着て偉そうな顔をする権利があると考えているらしい。
 ジャネットはつぶやいた。
「ええ、確かになかなか感じの悪いお嬢さんだね」
 だがそんなことはおくびにも出さず、互いに自己紹介をしたあと、これから何をするのか、と言いたそうな顔でベスが見つめるので、ジャネットは口を開いた。
「私は桟橋で待っているから、すぐに水着に着替えてきなさいよ。あまり待たせないでね」
 桟橋とは、普段は高速艇が係留されている場所だが、ジャネットはすでにチビ介をプールから出し、自由に泳ぎまわらせていたのだ。
 近寄ってきた姿に気づき、チビ介が陽気にピュッと水を吹きかけてきた瞬間のことだったが、背後の足音にジャネットが振り向くと、そこにベスが立っていたのだ。
「着替えてきました。少尉殿」
「ええ、そうね」
「今から何をするのでしょうか?」
「これよ」
 にっこり微笑んでベスに背中を向け、ジャネットはピョンと海へ飛び込んだのだ。
 すぐにチビ介が気づき、でかい頭を寄りそわせてきたが、そのサイズにベスが呆然としているのが、ジャネットは愉快だった。
 今日のチビ介は全身に太陽の光を浴び、のびのびとしている。
 チビ介の背中にはい上がり、ジャネットは声をかけた。
「ベス、何をしているの? あんたも早く海に飛び込みなさいよ」
「えっ、飛び込んでどうするんですか?」
「いい天気だから、近所をひとまわりしましょうよ」
 青くなっているベスの表情に、ジャネットは笑いが浮かんできたが、もちろんベスは、飛び込もうとはしないのである。
 チビ介の背中をくすぐりながら、ジャネットはもう一度声をかけた。
「怖がることはないのよ。クジラは大丈夫よ。怒らせないかぎり、少しも恐れる必要はないわ」
「でも…」
 ため息をつき、ジャネットは別の方向を向いた。
 たまたまだが、知った顔の水兵がそこにいて、桟橋のそばを通りかかったらしく、立ち止まってやり取りを眺めていたのだ。
 ジャネットは声をかけた。
「サムズ上等兵」
「はい」
 サムズが気をつけをし、さっと敬礼をするので、ジャネットはベスを指さした。
「サムズ上等兵、その特科学校のお嬢さんを海に突き落としなさい」
 無表情を装っていたサムズの顔いっぱいに、意地悪そうな笑いが広がった。
「えっ? 少尉殿、本当にいいのでありますか?」
「力いっぱいやりなさい」
「やめて、何するのよ!」
 とベスは逃げ出しかけたが、すぐにつかまってしまった。
 サムズはまだニヤニヤ笑っている。
「すまんな中等兵。少尉殿の命令なんだ。うらまないでくれよ」
 悲鳴を上げながら、ベスは水の中へ落ちていった。
 しりもちをつくような形で派手に水しぶきを上げたので、チビ介が面白そうにまばたきをした。
 ジャネットはすぐに引っ張り上げてやったが、泳ぎがへたで、ベスの手足は水を無意味にかき回すばかりだ。
 何かにつかまることができて、ベスはほっとした顔をしたが、それがクジラの背中であることに気づき、とたんにギョッとした表情に変わったので、ジャネットはもう一度にっこり笑った。
「マッコウクジラの背中へようこそ」
 一分後には、チビ介は港外へ向けて軽々と波をかき分けていたが、指の関節が白くなるほど握り締め、ベスは胸ベルトにしがみついている。
 とうとうベスは声を上げた。
「少尉殿、私たちはどこまで行くのですか?」
「このまま外国へ行ってもいいわよ。パスポートは持ってきた?」
 だがベスはニコリともしない。顔を上げ、ジャネットをにらみつけるのだ。
 ジャネットは続けた。
「にらまれたって怖くなんかないわ、ベス」
「こんなところへ連れてきて、私をどうしようというんです?」
「本当にどうもしないわ。ただ近所の海をひとまわりしようというだけよ。学校を卒業して本省に入れば、いつかあなたも竜騎兵部隊を指揮したり、作戦命令を下す立場になるわ。竜騎兵とはどんなものか知っておくのも邪魔にはならないでしょう?」
「クジラのことはもうよくわかりました、少尉殿」
「その少尉殿というのはやめましょうよ。私のことはジャネットと呼びなさい。大して年も変わらないんだし、数年後にはあんたのほうが上官になるだろうしね」
 ジャネットたちの会話が理解できるはずはないが、いつの間にかチビ介はすっかり速度をゆるめ、もうほとんど漂っているといってもいいほどだ。
 好奇心の旺盛なカモメが二羽、ジャネットたちの上空を旋回している。
 突然ベスが言い出した。
「ジャネット、私を買収しようとしたって無駄です」
「買収ですって? どうして?」
「竜騎兵部隊は役立たずの金食い虫だというのは、本省では常識です。父がそう言っていました。しかるべき地位についたら、私は竜騎兵部隊の廃止を検討するつもりです」
「だから私が買収を試みているとあんたは思っているの?」
「違うんですか? 何がおかしいんですか?」
 ジャネットの笑い声に、ベスは不審そうな顔をしている。
 だがすぐに、ベスの様子がおかしいことにジャネットは気がついた。
 ついさっきまでジャネットをにらみつけていたのが、今ははるかかなたの水平線に目をこらしているのだ。
 額の上に手をかざし、じっと見つめている。
「ベス、どうしたの?」
 ベスは指さした。
「あそこに何かが見えます。二時の方向。水平線ぎりぎりのあたりです」
 すぐにジャネットは双眼鏡を取り出し、その方向を眺めた。
 たしかに何かがいるようだ。
 白い色をした物体だ。
 だが雪や紙のような白さではなく、象牙のようにわずかに茶色がかっている。
 波を起こしながら水面近くを進み、ときどきチラチラと長い体を見せるのだが、ジャネットの目に正体は明らかだった。
 しかしベスは不思議そうな顔をしている。
「ジャネット、あれは何ですか?」
「クジラよ。だけどあの白い肌には見覚えがある。トーマスだわ」
「トーマス? 竜騎兵部隊のクジラなんですか?」
「ええ」
 そう返事をしながら超音波笛を口にくわえ、すぐにジャネットはチビ介に指示を与えた。
 とたんに泳ぐ方向が変わり、でかい体がぐらりと揺れたので、ベスが小さく悲鳴を上げた。
 ジャネットは説明を続けた。
「たしかにトーマスは竜騎兵部隊のクジラだけど、あまりにも年寄りだから、今ではもう仕事をさせていないの。一日中プールの底でぼんやりしているだけ。私たちも、トーマスだけはプールの外へ出すなと言われているのよ」
「トーマスには誰かが乗っていましたか? 私には見えなかったけれど」
「今、トーマスの左胸にちらりと潜水服が見えたわ」
「でも禁じられているのでしょう?」
「何かのミスがあったのかもしれないわ。別のクジラと間違えてプールから出したのかもしれない」
「だけどそもそも、使えないクジラをなぜ飼っておくんですか?」
「あんな役立たずな年寄りはもう海に放してしまえ、という意見も確かにあるのだけどね。でもトーマスは竜騎兵部隊創設の頃、つまり何十年も昔からいる古参だから、みんななんとなく別れがたくてね」
「へえ」
「さあベス、しっかりつかまりなさい。今からトーマスを追跡するわ。あの竜騎兵を助けなくてはならない」
「助けるって?」
「トーマスに乗っていた竜騎兵よ。でも潜水服の手足はだらりとし、まるで力がなかった。きっと意識がないのだと思う」
「どうして?」
「機器に故障が起こっているのではないかしら。もう何年間もプールから出されていないから、トーマスについている機器なんて誰も手入れしていないと思う。だから潜水服にうまく空気が供給されていなくて、竜騎兵が失神しているということも考えられるわ」
 こうして追跡が始まった。
 ベスと並んでジャネットもベルトにつかまり、チビ介に命じてさらに速度を上げさせたのだ。
 ふてくされたような顔つきはもうなく、ベスの表情からも緊張が伝わってくる。
「ねえジャネット、これからどうするの?」
「わからないわ。とにかくトーマスを見失わないようにしないと」
「誰かに連絡したほうがよくはない?」
「もちろんしたいわ。でも方法がないのよ」
「無線機はないの?」
「クジラの背中にそんなものがあるもんですか。塩水をかぶって、いっぺんに壊れてしまうわ」
「じゃあどうするの?」
「航行中の船を見つけて、司令部への伝言を頼むしかないわね」
「船なんか一隻も見えないわ」
「そうね」
 ベスと同じように背伸びをして、ジャネットも見回した。
 波の上には青い空があり、白い雲がいくつか浮かんでいるが、目に入るのはそれだけだ。船の姿など一つもない。
「だけどジャネット、船を見つけても、小さな漁船だったりしたら無線機を積んでいないかもしれないわ」
「それはそのときのことよ。船員には口で説明するよりも、手紙を渡すほうがいいわ。時間が節約できるもの。私たちはトーマスを追跡しなくてはならないわけだから」
 目をこらすと、前方には今でもトーマスの姿がはっきりと見えている。
 白い波を起こして背中を見せ、水上に頭を突き出すたびに、ぐったりと動かない潜水服が目に入るのだ。
 ベスが疑問を口にした。
「トーマスはなぜ潜水してしまわないの? そのほうが簡単に姿を消すことができるはずよ。潜水服がないから、私たちは潜水できないわけだし」
「それも不思議の一つね。だけどとにかく、今は通信文を書いてしまいましょう。船影が少しでも見えないか、あんたはまわりを見張っててよ」
「トーマスを見てなくていいの?」
「それは大丈夫よ。チビ介には、ずっとあとをついていくようにと指示が出してあるから」
「へえ」
 ジャネットは腕を伸ばし、道具入れからペンと防水紙を取り出した。
「私が書く」
 とベスが言うので、ジャネットは道具を手渡してやった。
 トーマスの背中を見つめながらジャネットが通信文を作り、ベスは書きとめていった。



緊急事態の発生を海軍司令部へ通報されたし。
竜騎兵部隊所属のクジラ、トーマスが竜騎兵1名を乗せたまま海上を暴走中。
立ち止まる気配なし。
竜騎兵は意識を失っている模様。
機器に故障があり、トーマスは潜水が不可能になっていると思われる。
現在位置は竜騎兵指揮所の北東、約2海里。針路はほぼ真東。
時刻10時21分。
竜騎兵部隊指揮所、ジャネット・スミス少尉。



 ジャネットが口を閉じると、すぐにベスが言った。
「私の名前も書き加えていい?」
「もちろんいいわよ」
 真剣な表情で手を動かし、ベスは通信文の末尾に自分の名を付け加えた。
 不意に方向を変え、チビ介がトーマスから離れる気配を見せたとき、ベスはひどく驚いた様子だったが、ジャネットには予想していたことだった。
「ジャネット、これはどうなってるの? チビ介がトーマスから離れていくわ」
「いいのよ」
「どうして?」
「チビ介には『音源を探せ』という指示も出しておいたの」
「音源?」
「水中で大きな音を出している物体よ。水は音をよく伝えるし、クジラはとても耳がいいから、何キロ離れていてもちゃんと聞きつけるわ」
「他のクジラの鳴き声とか?」
「そういうこともあるけれど、ほとんどの場合は船よ。ゴーゴーいうエンジンの音、波を切るへさきの音とかね」
「じゃあチビ介は船を見つけたの? でも何も見えないわ」
 ジャネットの双眼鏡を手に取り、ベスは勝手に使い始めた。
「いいえベス、船の姿はまだ水平線の向こうに隠れているのだと思うわ。もうすぐ見えてくるはずよ」
「トーマスのことはどうするの?」
「船を見つけて通信文を手渡したら、とんぼ返りしてまた追い続けるわ。トーマスは潜水できないのだし、重い潜水服を引きずっているから、きっと水中でも派手な音を立てていると思う。追いつくのは難しい仕事ではないわ」
 船の姿を最初に見つけたのはベスだった。
 突然大きな声を出し、ジャネットの肩をたたいたのだ。
「あっあそこ、確かに船がいるわ」
「どんな船?」
「クルーザー船よ」
 その方向へ視線を走らせ、ジャネットは目を丸くした。
 高いマストや白い塗装、スマートで長い船体などは確かにクルーザー船なのだが、通常よりもはるかに大型で、白鳥のように優雅な姿をしていたのだ。
 船体にはしみ一つなく、丸い形の窓ガラスもすべてピカピカに磨き上げられて、太陽の光を反射している。
「へえベス、なんだか知らないけど、いかにも金持ちの所有物という感じの船ね。優雅に世界漫遊中なのかな? 衝突しないように、少しスピードを落としたほうがいいわね…。アホーイ」
 ジャネットが不意に大きな声を出したので、ベスは不思議そうな顔をした。
「アホーイって、何を言ってるの?」
「船から船へと呼びかけるときの決まった言い方よ。あんたも手伝ってよ…。アホーイ」
「へえ知らなかったわ。…アホーイ」
 ベスの声が届いたのか、船員が甲板に顔を出したので、ジャネットは手紙を渡すことができた。
 金属製の通信筒に入れて力いっぱい投げ込み、甲板にドスンと落としたのだ。
 船員が拾い上げたことを確認してから、ジャネットは言った。
「さあベス、手紙はこれでいいわ。私たちはトーマスの追跡に戻るのよ」



 チェリー少佐から内線電話を受け、
「すぐに私の部屋へ来てくれ」
 と言われたとき、アップル大尉は嫌な予感がした。
「やれやれ、何の用だか知らないが、諜報部の連絡仕官からじきじきの呼び出しを受けるとは、あまり気持ちのよいことではないな」
 ドアをノックすると、いつものようにギョロリとした目でチェリー少佐は迎えてくれた。
 金髪丸顔で、どこか子供じみた風貌だが、特に太ってはいないのに、指も首筋もどことなく丸々している。
 見かけによらぬそうそうとした経歴の持ち主らしいし、部隊長を除けば、竜騎兵部隊で唯一、自家用車を所有している人物でもある。
 チェリー少佐はわざわざ立ち上がり、ドアのところまで来てアップル大尉を出迎えた。
 握手が済むと、さっそくチェリー少佐は口を開いた。
「アップル大尉、君の噂は色々聞いているよ」
「よい噂だとよろしいのですが」
 チェリー少佐は笑った。「悪いはずなどあるものか。先日のゴーストの件がいい例さ。君の頭の切れるのには私も感心しているよ」
「恐縮です」
「いやいやアップル大尉、私や諜報部のことを君がどう思っているかは知らんが、私は君を本当に高く評価しているのだよ。おまけに君は口も固い」
「買いかぶっていらっしゃるのでなければいいのですが」
「まあ聞きたまえ。私は諜報部の人間だ。いろいろな情報に接する機会がある。実は今も、司令部ですら知らないある情報を握っているんだ。それを君に打ち明けるよ」
「なぜです?」
「司令部には知られず、この件をなんとか穏便に終わらせたいからさ。明日の新聞にデカデカと載るようなことは避けたい」
「それほどの大事件なのですか?」
「残念ながらそうだよ。さあ出かけよう。遊んでいる暇はない。私の車に乗ってくれ。大至急会ってもらいたい人物がいる」



 通りすがりのクルーザー船に通信筒を託した後、チビ介が再びトーマスに追いつくには15分もかからなかった。
 白っぽい背中を眺め、また追跡に戻ったのだ。
 しかし双眼鏡を使って様子を見ていたベスが突然、奇妙なことを言った。
「大変よジャネット、あの潜水服の中にいるのは竜騎兵じゃないわ。この双眼鏡ならヘルメットの中までよく見えるもの。あれは女の子よ」
「なんですって?」
「本当よ、女の子よ。うそだと思うのなら、ジャネットもこれで見ればいいのよ」
 双眼鏡を押し付けられ、目に当ててジャネットも息を呑んだ。
「本当だわ。年はあんたと同じくらいかな。金色の髪で、まるで人形みたいにきれいね。唇もイチゴのように赤い。でも目を閉じているから、眠っているのかな」
「ねっ、そうでしょう」
「おやおや、現代の眠り姫ってところ? そんなお姫様みたいなのが、竜騎兵の潜水服の中で何をしているのかしらね」
「あの子、どうやって潜水服の中へ入ったのかしら。竜騎兵の訓練生なのかな?」
「いいえベス、それはありえない。私のまったく知らない顔だもの。竜騎兵はとても小さな部隊だから、訓練生も含めて全員が顔見知りよ」
「へえ」
「訓練生でないなら、外部の人に違いない…。ねえベス、もしかしたらこれは大事件かもしれないわ」
「大事件?」
「だけどとにかく、あの子が眠っている…、いえ意識がないことがとても気にかかる。やはり潜水服の中に空気がうまくまわっていないのかな。私たち、彼女を救出しなくてはならないわ」
「あの潜水服の中から助け出すの? トーマスはずっと泳ぎ続けているのに? どうやって?」
「それを今考えているのよ」
「ねえジャネット、少し頭を冷やしたほうがいいわ。この件はもう司令部に通報済みなのよ。応援が到着するのを待つほうがいいわ」
「ううんベス、それでは手遅れになるかもしれない。あの子が正常な空気を吸っていないのだとすれば、一秒も無駄にはできないのよ」
「ええジャネット、それは確かにそうだけれど…」



 チェリー少佐の自家用車は、いやでもアップル大尉の目をひきつけた。
 水色の車体はいかにも長く優雅で、後部にはとがったヒレのような飾りまでついている。
 新車らしく全体がキラキラ輝き、キーをひねる指先で軽くエンジンをかけるチェリー少佐を横目で見ながら、アップル大尉は口を開いた。
「俺をどこへ連れて行くんです? 誰に会うんですか?」
「今日、君はもう非番なのだろう?」
「ええ、勤務は終わりました。家へ帰ろうと思っていたところです」
「なら付き合ってくれ。本当に重大な用件なんだ」
「まさか、何か違法なことをしようとしているのではないでしょうね?」
 それに答える前に、チェリー少佐はアクセルをぐいと踏み込んでいた。
 シートの上でアップル大尉はバランスを失いかけたが、なんとか持ちこたえた。
 自動車は指揮所の正門を抜け、街道を走り始めたが不安を感じ、アップル大尉はもう一度言った。
「どうなんです、チェリー少佐?」
「アップル大尉、よく聞いてくれ」
「はい」
「君も知っていることと思うが、何年か前、わが国の竜騎兵部隊にはビル・カーターという男がいた。ところがあるとき、この男はスパイの嫌疑をかけられ、逮捕される直前に大急ぎで国を脱出しなくてはならなくなった」
「その男は本当にスパイだったのですか?」
「本人はもちろん否定しているが、実のところ真相はわからない」
「チェリー少佐、あなたはビルにお会いになったわけですね?」
「司令部も誰も知らないことだが、ビルは私の兄なのだよ」
「兄? 兄弟なのですか?」
「異母兄弟だ。事情があって苗字も違うし、世間には知られていない。しかし、おかげで私は助かったのだよ。弟だと知られていれば、あの時ビルだけでなく、私まで司令部から疑われてしまっただろう…。どうしたアップル大尉? 何か言いたいことがあるのかい?」
 この男にしては珍しく、少し話しにくそうにアップル大尉はコホンと咳をした。
「ビルはともかくチェリー少佐、あなたは本当にハマダラカのスパイではないのですか?」
 いかにもおかしそうに声を立て、チェリー少佐は笑い始めた。
「もっともな質問だが、私は無実だよ。諜報部の人間ということで機密情報に近づく資格はあるが、それをハマダラカに流すようなことはしていない。ハマダラカからの金銭的な誘惑に負けないために、十分な給料をもらっているからね」
「なるほど、それはよくわかります」
 そういいながら、高価な自動車の車体をアップル大尉がポンポンとたたくと、チェリー少佐は笑った。
「信じてくれてありがたいよ。ビルには、シルビアという名の娘がいた。母親はすでに故人で、事件当時、シルビアはある学校の寮に入っていたのだがね。無実の疑いをかけられたビルが諜報部と警察の手を逃れ、緊急に国外へ脱出したのは承知のとおりだ」
「その後、その娘はどうなったんです?」
「彼女は一人、身寄りもなくヒトリ国内に取り残されることになった。一緒に連れ出したかったに違いないが、ビルにその余裕はなかった」
「するとその娘、シルビアと言いましたか? シルビアは現在でも国内にいるわけですね」
「当時まだ十歳だったからね。スパイ事件との関わりは考えられなかった。しかし念のため、シルビアのパスポートは取り上げられた」
「国外へ出ることができなくなったわけか」
「その通り。その後数年の間、ビルの行方はようとして知れなかった。ところが先日、あろうことかハマダラカのゴーストの正体がビル・カーターであると判明した」
「諜報部は大騒ぎになったでしょうね」
「偉いさんたちは茫然自失さ。頭を抱えて、部下をやたら怒鳴りつけることしかできなかったよ」
 アップル大尉はクスリと笑った。
「それは海軍も同じでしたよ。俺も本省へ何回呼び出されたことか。判明したことはすべて報告書に書いたから、今さら俺に質問したって、何の新事実も出てきやしないのに…」
「おやおや、そうだったのかい」
「ビルが国外へ逃亡した後、シルビアの生活は誰が見ていたのですか? 学校の寮にいるといっても、学費とかいろいろ金がかかるでしょう? ビルの代わりに誰かが支払っていたに違いありません」
「足長おじさんというやつかい? その正体は私だよ。匿名にするために教会を通したがね。神父たちは全面的に協力してくれた」
「なるほど…」
「しばらくの間は、それでうまくいっていたのだよ。本人を逮捕できなきゃ、どうしようもない。ビルが有罪か無罪かは不明のまま、スパイ事件の捜査は凍結されたが、シルビアにとってもそれなりに静かな日々だったのさ」
「だがそこへ、ゴーストの正体がビルだと判明した。ゴーストのせいで、わが軍にはすでに相当の被害が出ている。その恨みがシルビアに向かいつつあるわけですね」
「彼女はまだ十四歳だ。わかってくれ。シルビアは私の姪なのだ」
「それはわかります。さぞ気にかかることでしょう」
「私はビルに連絡をとることにした」
「どうやってです?」
「その方法は言えない。だがとにかくビルと私は話し合い、シルビアを国外へ脱出させる計画を立てた」
「シルビアのパスポートは取り上げられているのでしょう?」
「だから普通の方法での脱出は不可能さ。色々相談の末、トーマスを使うことになった…」



 チビ介の背中の上で風に吹かれ、波のしぶきを浴びながら、ベスの声は心細そうに響いた。
「ねえジャネット、あの女の子を潜水服の中から救出するといっても、一体どうやるの?」
 ジャネットを見つめ、ベスは当惑した顔をしている。だがジャネットの表情は明るかった。
「それが不可能じゃないのよ、ベス。あんたも手伝ってね」
「ええ」
 ジャネットは準備を始めたが、物入れから取り出した道具を見て、ベスは目を丸くした。
「そんなロープをどうするつもりなの?」
「まず一方のはしを私の体にしっかりと結びつけるの…。うん、これでいい」
「それから?」
「もちろん反対側はチビ介の胸ベルトに結び付けるわ。ほら」
「それで? きゃっ、ジャネット。何をするの?」
 ベスが悲鳴を上げたのも無理はない。
 チビ介に命じてギリギリのところまで接近していたとはいえ、波を飛び越え、ジャネットはトーマスの背にひょいと飛び移ったのだ。
 心配そうに見つめるベスに、ジャネットは微笑みかけた。
「ああよかった。トーマスは私のことを気にも留めないみたいね。もしも暴れたら困ると心配していたのよ。だけど私が飛び乗ろうが背中の上を歩こうが、何の反応もない」
 だがベスの機嫌はあまりよくない。
「ふんだ、あまり人を心配させないでよ…。ねえジャネット、何をしているの? トーマスの顔色なんてどうでもいいじゃないの。まず女の子の様子を調べてよ」
 と、ベスは口をとがらせたが、その言葉通りに潜水服は通り越して、ジャネットはトーマスの頭に近寄っていたのだ。
 波の音に負けないように、ジャネットは少し大きな声を出した。
「ああごめん。でもトーマスの額を観察する必要があったのよ」
「どうして?」
「トーマスの額にあるこの機械ね。これは接続装置といって、潜水服の空気パイプとつながっている重要なものでね」
「鉄パイプや弁がモジャモジャした変な機械ね。その機械に何か問題があるの?」
「ちょっとね。でも今は確かにあんたの言うとおり、眠り姫に関心を向けなきゃならないわ。眠り姫を潜水服の外へ引っ張り出すから、あんたも手伝ってね」
「引っ張り出すって、どうやるの? そんなことが可能なの?」
「もちろん可能よ。チビ介の物入れからもう一本ロープを出してくれる? ネジをゆるめ、まずヘルメットを外すわ。それから眠り姫の体にロープを巻きつけて、チビ介の力を借りて潜水服から引き出す。その後チビ介を一瞬潜水させて、彼女を背中の上にすくい上げるのよ」
「本当にできるの?」
「もちろん」
 とジャネットの様子は自信に満ちているが、ベスは眉にしわを寄せている。



 続けざまに聞かされた打ち明け話に、アップル大尉も頭の中が満員になりかけているようだ。
 自動車は相変わらず街道を飛ばしているが、窓から吹き込む風の中で頭を振り、アップル大尉は考えをまとめようとした。
「つまりこういうことですね、チェリー少佐…」
「いっぺんにあれこれ話しすぎたかな? 頭が混乱したかい?」
「ええ、今まとめます」
「ああ」
「あなたはビルと相談して、シルビアを国外へ脱出させることにした。そのためにトーマスを利用した」
 ハンドルを動かしながら、チェリー少佐はチラリと横を向いた。
「いいぞ。続けたまえ」
「しかしチェリー少佐、いくら夜中とはいえ、一人でよくそんなことができましたね。シルビアはどうやって指揮所へ連れてきたのですか? 門衛の目をどうやってごまかしました?」
「それは簡単さ。この車のトランクに隠した」
「ああなるほど。自家用車というのは色々役に立ちますね。俺も一台欲しいや。トーマスに潜水服を取り付けるのに苦労はありませんでしたか?」
「多少はね。だが私も指揮所にオフィスを構えて長い。見よう見まねでなんとかやったさ。深夜のクジラプールには監視兵もいない。目撃者はクジラたちだけさ」
「ははあ、いま思い出しました。潜水服の取り扱いを解説したマニュアルが一冊紛失したと整備工場の連中が騒いでいましたが、犯人はあなたなんですね」
「私を窃盗罪で軍法会議にかけるかい?」
 とチェリー少佐が笑うので、アップル大尉もニヤリとした。
「そんなことはしません。それはそうと、潜水服の中に入ってクジラの胸にぶら下がるなど、シルビアは怖がりませんでしたか? 確かまだ十四歳でしょう?」
「怖がったさ。だから事前に睡眠薬を飲ませて眠らせた。もちろんシルビアも承知の上でだよ」
「そして今朝、人目を盗んで、トーマスをプールから解き放ったわけですね。ヒトリ領海のすぐ外ではあなたの兄、つまりゴーストが、シルビアを受け取ろうと待機している。年寄りで動きの鈍いトーマスを発見するなど、二匹のシャチを連れたゴーストには難しい仕事ではない…。いい計画ですが、そのトーマスの姿を偶然ジャネットに目撃されてしまったわけか」
「だがここでラッキーだったのは、ゴーストは一人ではなかったということさ。隣国とはいえ、クジラに乗って行くにはハマダラカは遠すぎる。シルビアを乗せ、連れ帰るために、ゴーストとともに一隻の船が派遣されていた。トーマスを目撃したジャネットが通信筒を託した相手というのが、偶然にもこの船だったのさ。船のオーナーは直ちに私に連絡をくれた。もちろんヒトリの司令部には知らせずにね」
「ははあ、なるほど…」
「ああアップル大尉、とうとう目的地が見えてきたぞ。車を止めるから、ついてきてくれたまえ」
 チェリー少佐はついにブレーキを踏んだが、その場所に気づいて、アップル大尉は目を丸くした。
「おや、ここは?…」
 指揮所から数キロ離れた隣町の港だったのだ。もちろん軍用港ではなく、貨物船や漁船など、民間の船ばかりがつながれている。
 しかしその中の一隻、チェリー少佐が真横に自動車を止めた白い大型クルーザー船はいかにも美しく、太陽の光を受けて、場違いにきらきらと輝いていた。



 潜水服の中から引っ張り出され、チビ介の背中に乗せられても、眠り姫は目を覚まさなかった。
 体をゆすってみたり、軽く頬を叩いたりもしたが、やはり反応はない。
 ベスとジャネットは顔を見合わせた。
「ねえジャネット、この子は病気なのかしら?」
「そんなことはないと思うけど。見たところ潜水服にも異常はなかった。この人は正常な空気を吸っていたはず…。ねえベス、もしかしたら睡眠薬を飲まされているのかもしれないわ」
「どうして?」
「ただの想像よ。でもベス、あんただって、今日初めてチビ介を見たときには怖かったでしょう? 今はもうすっかり慣れたようだけれど」
 ベスは笑った。
「ええ、クジラはとてもかわいいわ」
「それと同じことよ。誰かが潜水服を着せ、トーマスに乗せて、この女の子をヒトリ国外へ連れ出そうとしたのよ。だけど女の子にはクジラが怖かったに違いない」
「背中に乗るんじゃなくて、潜水服を着て波の下に入るんだものね。それは今の私にだって怖いわ」
「だから睡眠薬を飲ませたのだと思う」
「でも一体誰が? 何のために? この眠り姫は誰なの?」
「残念ながら、その答えは私にも見当がつかないわ」
 ベスは、娘の髪をなでてやっている。
 だが眠り姫は、やはり目を覚ます気配はない。
「ねえジャネット、私たちは指揮所へ戻るのでしょう? 正体は誰だとしても、まずこの人を病院へ連れて行かないといけないわ」
「ええそうね。でもその前に仕事があるのよ」
「何をするの?」
「工具箱はどこかしら? あああった。今からトーマスの接続装置を修理するわ」
「修理って?」
「トーマスの頭を見て気がついたのよ。誰かの手で、トーマスの接続装置には細工がされている。一部が分解され、調圧弁というごく小さな部品だけど、そのネジがゆるめてあるわ」
「調圧弁? どういうこと?」
「調圧弁のネジがゆるめてあると、空気パイプに海水が浸入し、クジラは潜水ができなくなる。トーマスはここまで一度も潜水しなかったでしょう? それは、誰かの手でわざとできないようにしてあったからよ」
「誰かの手で? ああそうか、それが不明なのね。だけどジャネット、なぜそんな修理をしなくてはならないの? 潜水服の中の女の子はもう救出したのよ。まさか、まさかジャネット…」
「そうよベス。私、トーマスがどこへ行くつもりなのか、ものすごく興味がある。こんこんと眠り続ける眠り姫をどこへ運ぶつもりだったのかが知りたいわ」
「そのために潜水服の中に入って、眠り姫の代わりにトーマスに乗ってゆくというの?」
「あら、それじゃいけない? トーマスはただ一心に、ある方角目指して泳ぎ続けているわ。眠り姫を運び届けるという使命に身をささげているのよ。いじらしいじゃないの」
「だけどジャネット、あまりにも危険だわ」
 しかしジャネットは聞く耳を持たなかった。
 ジャネットの心を変えようと、ベスは熱心に説得を続けたが、すべてむだになった。
 いかにも楽しそうにニコニコ笑いながら、ジャネットは潜水服を着込んだのだ。
「ジャネット!」
 と、ベスは最後に呼びかけたが、ヘルメットの分厚いガラスに邪魔をされ、もはや何も聞こえないのだろう。
 手を振り、ジャネットの姿は波の下に消えたのだ。
 その前に、ジャネットはもちろん新しい指示をチビ介に与えていた。
 ベスと眠り姫を乗せて、チビ介を指揮所へと帰らせるのだ。
 不安そうに見送るベスの目の前で、トーマスの姿はゆっくりと小さくなっていった。
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