一、三十歳の自分

文字数 8,667文字

 見上げれば、今日は灰色だ。曇り空。ぽつりと軽く、雨粒が優しく頬に触れる。それが嫌じゃない。
「今日は学校で何があった?」
「楽しいことは?」
「給食、おいしかった?」
 まるで母親だな。そう感じても、僕には母親という概念がわからなかった。幼い頃に別れたっきり。どんな理由があったのかは知らないが、父さんと仲が悪くなって離婚してしまったらしいとだけ聞いている。でも、今の僕には母親という存在は必要なかった。『母の日』や『授業参観』なんかは少し引け目を感じたが、ずっと父さんが代わりに参加してくれていた。大勢のお母さんに紛れた父さん。恥ずかしくもあったが、頼もしくもあった。だけど今は――。
 大きく風が吹いた。何をしていたんだろう。昼休みは終わりだ。ベンチから立ち上がると、僕はひとりで教室に向かった。友達ってなんだろう? 小学六年生になった今でも、僕にはイマイチよくわかっていなかった。
 クラスに戻ると、まだ生徒たちは席に着かず、友達と遊んでいた。女子たちは絵を描いたり、芸能人の切り抜きを持ってきてはうっとりと眺めたり。男子たちは消しゴムサッカーなんかやっている。バレたら先生に怒られるぞ。
 廊下側の最前列に座っている僕は、少しばかり肌寒さを感じていた。秋口だからか。いや、クラスメイトとの温度差が、ダイレクトに伝わっていたのだ。
 なんで僕はひとりなんだろう。班になったり、それなりに人と組めと言われれば問題なく組める。体育で二人組になれと言われば、余った人間となればいい。一人のときは先生がどうにかしてくれる。それだけでいいじゃないか。クラスというコミュニティに、僕は存在しなくても問題なんてないんだから。
 チャイムが鳴って、担任の谷先生が教室に入って来た。五時間目の授業は……。
「今日は皆さんに三十歳になったときの夢を作文用紙に書いてもらいます」
 谷先生が説明するには、今年僕の通う木野崎小学校は、創立百年を迎えるそうだ。その記念に、『三十歳になったら』という作文を、全学年の生徒が書いてタイムカプセルに埋めようという企画が出ているらしい。
 三十歳になったら、なんて、考えたことがなかった。将来の夢なんて特にない。しいて言うならば、高校を卒業して、大学に通って、いい会社に就職して、結婚する。これくらいかな。どんな仕事に就きたいとか、そんなものは何もない。だって、いい仕事ってなに? 宇宙飛行士になれる確率は少ない。なんでも百倍以上の倍率らしい。アーティストは? なれたとしても、固定給ってないんでしょ? 売れなきゃずっと下手くそなCDを持って、路上ライブを毎日。デザイナーは? 今は量販店の服ばかりみんな買っている。弁護士は? 正義の味方なんかじゃない。仕事によっては悪者の味方もしなきゃいけないし、恨まれることだってある。医者? 僕に人の命を助けられるような力も精神力もない。
 夢なんて、見るもんじゃない。あっけない。今の世界、パソコンで検索すれば仕事がどんなものか簡単にわかるんだ。そんな世の中で夢を見ろとか、夢のある仕事を探せだなんて無茶だ。運動神経がよくて、スポーツマンに向いているやつくらいだ。将来の勝者に相応しいのは。
 僕には何にもない。興味があるものもない。才能もない。やる気もない。成績も普通。友達だって……。そんな僕が三十歳まで生きている保証ですらないんだ。
 先生が原稿用紙を僕らに配る。きっと書けなかったら宿題になるんだろう。四百もある四角い崩れやすい豆腐に、僕は黒い鉛筆で何を刻めばいい? タイトルだけは決まっている。
『三十歳になったら』。僕は十一歳だから、十九年後の話を書くんだ。近いようで、遠い、十九年後。二十年後じゃないなんて、中途半端だ。僕らの年代は、すでに中途半端。キリのいいのは創立百年を迎える木野崎小学校だけ。百年を迎えるのだって大人の都合で、僕ら子どもには関係ないはずなのに。どうして夢のない僕らに、考えたくもない未来のことを想像させるのだろうか。
 家に帰って検索してみれば出てくるかな? 『大人はなぜ、子どもに夢を見せたがるのか』って。周りの子たちはガリガリと作文用紙に文章を書いている。白紙なのは僕だけだろうか? チャイムが鳴った。五時間目は終了だ。予想通り、書き切れなかった人は、宿題となった。
 大人は勝手すぎる。三十歳になった自分なんて、一日くらいで書き上げられる宿題になんかになるわけがない。『子どもなんだから、夢なんていくらでもあるでしょ?』とでも言いたげで、僕はそれが不愉快だった。子どもだからこそ考えるんだ。僕らの周りにいる大人たち。どれもカッコよくなんてない。
僕の父さんはカメラマンをやっている。他の子たちからはカッコいいなんて褒められるけど、母さんに逃げられている。父さんのことは嫌いじゃないけれど、僕はカッコいいなんて思わない。テレビに出ている芸能人だってそうだ。やれ浮気だの不倫だの。悪いことばっかりじゃないか。大人なんて不潔だ。僕の尊敬する大人は、悲しいけれど誰もいない。歴史の偉人たちだって、悪いことをやっている。戦争なんていい例だ。戦国時代が好きなやつもいるけど、あれは殺し合いでしかない。平和なんて、昔からずっとこの世界にはないんだ。
その世界にいるカッコよくない大人たちを見て、手本にしたいと思う子どもはいるのだろうか? それとも、こんな世界を『汚れた』と見てしまう僕が間違えているのだろうか。
「戸叶くん、ちょっといいかな」
帰りの会の前、僕は谷先生に呼ばれた。三十代くらいのこの女の先生も、僕にとっては尊敬できない人だ。道徳の授業のとき、ひとりだけ違う意見の女の子の感想文だけを読み上げて、こう言った。『ふうん。あなただけそう思うのね』。それっていけないことだったのか? 道徳で読んだ文章は、働いているお母さんについての内容だった。僕は僕なりに『お母さんがいたら』という体で『きっといたらお母さんの仕事を応援する』と書いた。でも、その女の子は『お母さんには仕事をやめてもらいたい』と書いていて、それをみんなの前で読み上げられたのだ。彼女は悲しそうな顔をしていた。これは父さんから聞いていたことだが、彼女のお母さんは家でピアノ教室をやっていた。ピアノの騒音のクレーム対応をしていたのが、その母の娘――入江美沙だった。
入江をまつり上げた谷先生には若干の不信感がある。僕らの事情を知らない教師に呼び出された僕は、仕方なく教壇の横にある先生のデスクに近づいた。
「戸叶くん、あなた、タイムカプセル委員になってくれない?」
「えっ……」
 唐突だった。こういう委員会みたいなものって、学活の時間にみんなで決める者じゃないのか? それに、目立ちたがりだったり、受験を控えている子だったら、我先に立候補するはずだ。なのに、なんで僕なんだろう。
「いいわね? そういうことで」
「え、いや……」
 谷先生はキャスターイスをぐるりと回すと、少し小声で僕に言った。
「戸叶くんの家は一軒家だったわよね。だからどうしてもあなたじゃなきゃいけないの。わかった? とりあえず、明日宿題になった作文を集めてね」
 にっこりと微笑む谷先生に、僕は違和感を持った。家が一軒家って、何が問題なんだろう。別にタイムカプセル委員会なんて、やりたいやつがやればいい。僕が選ばれた理由だって、『一軒家だから』なんて意味のわからないものだ。これがまだ、『僕しか適任者がいなかったから』とか『あなたならきっとやる気があるから!』なんて力づけられていたら話は変わっていたかもしれない。普段やる気のない僕でも、少しくらい頑張ろうって思えたかもしれない。だけど、『一軒家だから』。これは僕じゃなくてもいい。他にも学校近くで一軒家に住んでいるやつはいるだろう。まるで僕は家の――いや、正しくは家を買った父さんのお飾りだ。
「……タイムカプセル委員、戸叶になったんだ」
 急に話しかけてきたのは、秋津ハジメだった。身長は中くらい。勉強も普通。クラスのモブのひとり。目立つようなところがないのは、僕と一緒だ。
「なりたかった?」
「いや別に」
 つぶやくと、ふいと席に戻ってしまう。帰りの会が始まる。今日の日直は、嫌われ者の白川さんだ。今日の洋服も決まってるんだろうな。僕にブランドはわからないけどね。
 
 家に帰っても、僕は宿題ができなかった。『三十歳になったら』。父さんはまだ仕事から帰って来ない。僕が二年生までは、学校の行事なんかを撮影するイベントカメラマンだったんだけど、ある日転職が決まった。理由は教えてもらえていない。ただ、都内で芸能人を撮る仕事に変わったんだとだけ聞いた。そっちの方が儲かるし、有名にもなれるらしい。父さんはきっと、名誉が欲しかったんだろう。僕の養育費のこともあるだろうけど、それは今までの仕事でも足りたはずなんだ。お金のことはよくわからないけれど、僕はそう感じている。僕の勘はどういうわけかなかなか当たるんだ。
 父さんとの共用のタブレット。それを使って、僕はある言葉を検索した。
『カッコいい三十歳』。調べたら、芸能人しか出てこなかった。しかもこれは、大人の女の人に向けての記事ばかり。『イケメン芸能人と付き合うには』とか、『三十代男性と結婚したい』とか、下品、っていうのかな。こういうの。僕が知りたいのはそんな『下品』な内容じゃない。ああ、なんて不自由な検索なんだろう。僕の知りたいことは、検索エンジンでは教えてくれない。すべてのことを知っているはずのパソコンは、嘘つきで、きっと僕よりも頭が悪いんだ。
「ただいま~、メシ買って来たぞ!」
 鍵が開いて入ってきたのは父さんだ。Tシャツにジーパンと、いつも通り勤め人とは思えない格好。ショルダーバッグの中にはカメラの機材。それを床に置くと、テーブルに勝ってきた弁当を並べる。
「今日はな、アイドルの駒田ちゃんの撮影だったんだ。彼女がリクエストした弁当が残っちゃってさ。お前も夕飯、これでいいだろ? 駒田ちゃんセレクト弁当!」
 駒田ちゃんはテレビにも雑誌にも出ている有名なアイドルだ。普通の子どもや学生だったら喜ぶだろうが、僕は嬉しくなかった。どんなアイドルだって、普通の女の子だ。彼女がエゴで選んだ弁当。僕が食べたいものなんか入っていない。野菜ばかりで、ハンバーグも唐揚げも、もちろんカレーなんかもない。僕が本当に食べたいものは、父さんの作ってくれる生姜焼きなのに。
 一緒に夕飯を食べていても、僕と父さんの距離は近くて遠かった。父さんは楽しそうに今日の仕事の内容を話す。そしてこう僕に聞く。「輝はどうだったんだ?」。僕は「今日も楽しかったよ」とだけつぶやく。今日も学校に行って、時間通りに授業を受け、休み時間には自由な時間を過ごした。ただひとうだけ、今日は違うことがあった。タイムカプセルに埋める作文だ。
 父さんには相談できないな。ちょうど三十代だけど、ごめん。僕のなりたい大人ではないんだ。僕の周りにはなりたい大人がいなさすぎる。大人との関わり合いがないからなのかもしれないけれど、授業参観のときに来るお母さんたちは、その場にいない生徒のお母さんの悪口を言っているし、先生たちも僕には何を考えているのかわからない。
 それでも宿題はやらなきゃいけない。
「ごめん。ご飯はもういいや」
「野菜嫌いだと大きくなれないぞ!」
「どうしても宿題やらなきゃいけなくってさ。ごめんね」
「そっか。じゃ、明日の朝、サラダにして出してやるな!」
 父さんは何も知らないんだ。僕たちに必要なのは、ビタミンCももちろんだけど、カルシウムやたんぱく質だってことを。給食のおばさんたちのほうが、僕らのことを気にかけてくれているんだ。

 部屋に戻ってのっそりと作文用紙を取り出してみるが、自分が三十歳になったらなんて、ったく想像なんてやっぱりつかない。きっと就職して、結婚して、子どもがいるだけじゃ、先生から書き直しを命じられるだろう。子どもの使命は現実を書くことじゃない。いかに夢を見ているかを、大人に教えることなんだ。そんなことを考えると、なおさら荷が重い。こうなったら適当な嘘を書いておこう。
『三十歳の僕へ。夢だった宇宙飛行士にはなれていますか? 今の僕は勉強も運動もできないけれど、きっとできるようになって、宇宙飛行士の試験にもパスしていると信じています』
 宇宙飛行士なんて大嘘だ。一番なれそうもない夢を書いておく。でも大人は、『今は小学生。色んな夢を見る子がいるのね』と微笑ましく思える。子どもの夢は、いつだって大人に搾取されるものなんだ。本当の子どもは夢など見ていないのにね。心で書きなぐった文章は、原稿用紙一枚に収まった。これをあとは明日、みんなのものと合わせて谷先生に提出すれば終わりだ。
 タイムカプセルが掘り出されるとき、僕は何を思うのだろう。そもそも僕はそれまできちんと生きているのだろうか。今は父さんがいて、衣食住を保証されている。それなのに、自分の命が不安になるのは、なぜだろう。こんなことを考えている小学生は、僕だけなのだろうか。
 明日の準備を済ませると、風呂に入り歯を磨き、普通の小学生よりも早い時間である午後九時半には床についた。布団に入ったのは早かったが、僕は眠れなかった。父さんが見ているテレビの音が気になって。

――翌日。登校すると、異様な光景が待ち構えていた。教室の一番後ろに、髪の長いジーパンの男が座っている。イスと机は僕らと同じサイズだから、身体がキツそうだ。……そんなことはどうでもいいが、どう見ても不審者。彼は誰だ? 僕やクラスメイトが遠目から見ていても、男は気にも留めず、のんきに頬杖をつきながら鼻歌を歌っている。
「誰か先生を呼んできてよ」とは誰も言わない。普通なら明らかに不審者だが、もし本当に不審者だったらすでに警備員につまみだされているからだ。子どもが騒いでいたら教師も来るだろうし、それがないということはイコール、不審者ではない謎の第三者ということになる。僕も彼を気にしながら、自分の席に座った。谷先生が来れば説明してくれるだろう。
 朝のホームルームのチャイムがなると、先生が入って来た。
「先生、あの、知らない人がいるんですけど」
 たずねたのは白川さんだ。今日もふわふわなワンピースで、いかにも良家のお嬢様と言った感じだ。
 谷先生は少し困ったような顔を一瞬したが、すぐにいつも通りの『先生』の顔になった。
「今日から教育実習を始める、星岡葉先生です。実はみんなの朝の様子が知りたいと、朝の打ち合わせをサボって教室に来ていたの」
 谷先生は笑顔だが、会話に棘が混ざっていた。それも当然だろう。教育実習初日の会議をサボって教室に来ていた? この時点で教育実習生失格じゃないか? クラスの生徒たちがざわつく中、長髪の星岡葉は立ち上がった。
「どもっ! 今日から六年四組で教育実習をすることになりました、星岡っす! 一応大学三年、三十歳です! ちゅーことで、よろしくな!」
 ざわめきが止まった。大学三年。それはわかる。が、三十歳って、どういうことだ? 谷先生は「余計なことを」とでもいうようなキツい視線を星岡に送っている。みんなも友達同士で顔を見合わせている。
 星岡は頭をかきながら仕方なさそうに説明を始めた。
「俺、大学入ったの遅かったんだよな。だから今三十歳なわけ。別段おかしくないだろ? 法律で大学に入学するのは十八歳じゃなきゃいけないなんて、決められてないんだから」
 僕は唖然とした。ハッとした。虚を突かれた。舌を抜かれた。頭をハンマーで殴られた。今まで、高校を出たら専門学校か大学に入学する。そして就職するのが普通だと思っていた。もちろん高卒で就職するという人もいるが、大体はそういうものだと……。だけど、星岡は何があったのかは知らないが、三十歳で大学三年生になっている。明らかなイレギュラー。初めてかもしれない、こんな三十歳は。
 だからと言って、彼がきちんとした大人だとは決して思えない。なぜなら、立ち上がったときにわかったが、ジーパンの膝が破れていたからだ。お洒落のつもりなのかもしれないが、教育実習には似つかわしくない。彼は、教職不適格だ。
 挨拶が終わったあとは、朝の会だ。それが終わると僕は、谷先生に言われて、昨日書いた嘘の作文をみんなから集めて星岡に持って行った。どうやら星岡が作文をチェックすることになっているらしい。
「お、タイムカプセルに入れる作文かぁ。一応、チェックさせてもらうな。ありがとう」
 ポンっ、と肩を叩かれる。それがなぜか嫌じゃなかったのが、僕は嫌だった。
 僕はこの教育実習生の星岡を、『星岡先生』と呼びたくなかった。彼は教師じゃない『一応』大学生だ。何があって三十歳にもなって大学生を……さらに言うなら教育実習生をやっているのかはわからない。もしかして、新手の変質者じゃないか。最近の犯罪者は何を考えているか理解不能だからな。僕はこの星岡を、若干警戒することにした。しかし、給食のあと、僕は星岡に呼ばれた。
「戸叶くん、枚数が足りてないみたいなんだけど、出してない子、わかる?」
 そのくらい、自分で名簿を調べればわかるだろう? そう口に出さずに、視線だけで星岡に寄越すと、くすりと笑われた。なんで笑うんだよ、僕を。僕、何かおかしなことをしたか?
「いや、わかってるよ。俺が出してない子に直接言えばいいって。でも、それじゃ意味がないんだ。君がタイムカプセル委員に選ばれたのも、何かの運命だったのかもな」
 余計に意味がわからない。僕がタイムカプセル委員に選ばれたのは、『家が一軒家だから』というどうでもいいものだ。それに運命もなにもあったもんじゃない。
 僕が黙っていると、星岡は聞いた。
「聞かないのか? なんで直接聞いてくれないのかーとか、何が運命なのかーとか」
「聞かなくちゃいけないんですか?」
「あーそういうことか。『聞いていいこと』がわからないってことなんだな」
 星岡はこっそりと持ちこみ禁止のスマホを取り出すと、僕にだけ見えるように検索エンジンを起動させた。
「君に聞いていいこと」
 そう言って音声で検索すると、電子書籍の本のタイトルだけが出てきた。
「今のでわかった?」
 首を左右に振る。やっぱり言っていることがわからない、この教育実習生。大体スマホ勝手に使うこと自体……そこまで考えていたとき、星岡は言った。
「音声アシスタントに聞いてもわからないことなんて、いくらでもあるんだよ。みんなもそのことに気づいている。それなのに、今回きちんと期限に提出してきた子は、みんなそれをわかった上で『嘘』を書いているんだ。君みたいにね」
 ドキリとした。自分が書いた宇宙飛行士の夢が嘘だと見抜かれている。しかも同じことをしたのは僕だけじゃない。提出していない子だけがきっと、何かに気づいている。僕にもわからない何かに。
「戸叶輝くん。俺はタイムカプセル委員になった君の可能性を信じてみたい」
「ちょ、ちょっと待ってよ。僕の可能性って、何?」
「可能性に気づけるっていう可能性、ってところかな」
 あまりにも思わせぶりに言う、長髪に破れたジーパンのロッカーみたいな教育実習生は、僕にとって未知の存在すぎる。その未知星人は、さらに言葉を乗せた。
「俺や谷先生が督促しても、多分作文を出していない生徒は、提出してくれない気がするんだ。彼らは何か将来の違和感に気づいている。三十歳の自分を想像することがおかしいと感じている。君もそうだったんじゃないか?」
 僕は胸に手を当てた。どうしてここまでこの男は僕のことがわかるんだ? 三十歳になった僕は、宇宙飛行士になんてなっていない。夢のない夢を書かされるのが今の僕たち。なんでも検索で知っている僕たちなんだ。
「君にひとつお願いだ」
「……なんですか?」
 おずおずとたずねると、星岡はあっけらかんと笑った。
「そんな大したことじゃないよ。作文を出してない子に、期限内に出してくれっていうだけだから。俺が谷先生に言って、夏休み明けまで待ってもらうことにしてある。どうも俺が見た感じだと、ちょっと訳あり生徒たちっぽいからな」
「訳あり……」
 僕のクラスでそんな子たちいたっけ? むしろ僕くらいじゃないかと卑屈にも思ってしまうくらい、みんなは普通だ。多少悪口を言われている子がいるくらいとしか思えないけれど。
「はい、これが作文を出してない生徒の名前ね。書き上がったら俺に渡して。では、よろしく」
「はぁ」
 僕の悪いところは断れないところだけど、教育実習生のお願いだったら断るなんて選択肢はない。渡されたメモには、四人の名前があった。
『入江美沙 白川涼子 朝井悠 秋津一』
 入江は家がピアノ教室だろう? ピアノの先生になればいいのに。白川さんだってお金持ちなんだから、塾に通っていい学校に行って、将来安泰のはずだ。秋津も特に変わったやつじゃない。この三人についてはなぜ提出していないのかわからない。ただ、朝井だけはわかる。こいつは先月から不登校になってるんだよな。
 他の三人はどうにか話せば書いてくれそうな気はするけど、朝井だけはなぁ……。どうしたものだろう。期限は夏休み明けまである。とりあえず僕は、放課後からひとりずつ話を聞いてみることにした。

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