四、朝井悠の守るもの

文字数 5,230文字

 ともかく、秋津に関しては問題なさそうだな。ただ一番厄介なのは朝井だ。先月から一度も出席していない相手に、作文を書いてくれなんて家まで言いに行かなきゃいけないのか? 僕は珍しく星岡に相談することにした。
「朝井悠――最初は五月病かとも思ったけど、違うみたいだな」
「星岡先生は何か聞いてないの?」
「少し家庭に変化があったみたいだけど……ちょっと心配だな。谷先生はそのうち出て来るなんてのんきに言っていたけど、何か問題がある生徒を見過ごすわけにはいかない」
 星岡がまた珍しく教師らしいことを言った。こいつは一体なんだ。社会学部から教育学部っていう経歴もよくわからないし、僕にとってはまさに宇宙人なのかもしれない。でも、こんな大人は嫌いじゃないと最近思えてきた。谷先生より近くて、適度な距離感。悩みの相談は一応乗ってくれる。なんだかんだ言って自然と気も使ってくれる。
「な、戸叶。よかったら今日の放課後一緒に朝井のところに着いてきてくれないか? 君のお父さんには連絡しておくから」
「え、なんでですか?」
「朝井の仲いい友達わからないし、タイムカプセルの件もあるだろ? 生徒が一緒のほうが、学校にまた来てもらえるかもしれないし。な、頼むっ!」
 パンッと手を目の前であわされると、悪い気はしない。どうせ僕は塾にも行っていないし、家に帰ってもひとりだ。それだったら付き合ってもいいかも。
「わかりましたよ」
「ホントか? やった!」
 まるで子どもみたいに喜ぶ星岡を見た僕は、なんだか彼が教職を希望している気持ちがわかった気がした。彼はきっと、子どもに戻りたいんだ。僕らと一緒に楽しみたいんだ。色々なことを、多分。

 授業が終わると、僕と星岡は校門前で待ちあわせた。これから朝井の家に行くのかと思ったら、小銭を渡された。どうやら行く場所は、朝井の家ではなく、市立病院らしい。なんでそんなところに?
「朝井って、何か病気でもしてるんですか?」
「いいや、違うんだ。ま、バスの中で話すよ」
 小学校の裏門から出てしばらく。狭い道にあるバス停には、僕らの他に何人か大人が並んでいた。意外にもここのバス停は利用されるらしい。
「朝井の妹がな、大きな病気にかかっちまったみたいなんだよ」
「朝井が、じゃなくてですか?」
 朝井のことはあまり知らない。六年の頃に引っ越してきたばかりで、一カ月で不登校だ。知りえるわけがない。星岡は朝井の身の上を説明してくれた。『あまりぺらぺら言うのもよくないから、俺と君との秘密にしてくれよ』と前置きをして。
 朝井が今年、うちの小学校に転校してきたのは、両親の離婚があったからだそうだ。母方の実家に近いからということで、ここに通うことになった。しかし、五月に入って朝井の妹がどうやら白血病にかかったことがわかった。母親は治療費を稼ぐために朝から晩まで働き、朝井は妹の介護と認知症気味の祖母介護で学校に通えなくなってしまっているらしいという話を聞かされた。
「それって……どうにかならないんですか? 国の援助とか」
「俺も詳しくはわからないが、お母さんひとりだけじゃ働き手が足りなさすぎる。なんというか、こんな風に言ったら冷たい人間だとは承知だが、運が悪すぎたんだ。いや、因果応報でもあるらしいが、そのことは君にいうことじゃないな」
 因果応報が何を指すかはわからないが、朝井には関係ないことなんじゃないか? もしかしたらその『因果応報』ってやつは、本当は朝井ではなくて大人が被らなくちゃいけないことで、朝井は巻き添えになっているだけなんじゃ……。
 星岡はそれ以上何も話してくれない。やっぱり大人の罪を、子どもが被っているんだと、僕は子どもながらの勘でわかった。
 ――バスが来た。星岡はICカードをかざし、僕は小銭を手に持つ。後ろから乗る大人たちは、ピッピッとICカードの音をテンポよく鳴らす。小銭を持てるのが子どもの特権だなんて、今日初めて知った気がした。
 バスから降りて、駅を越える。反対口にある市立病院は、ついこの間建て替えられ、古臭い印象からきれいで未来的なイメージに変わっていた。父さんが言うには、僕はここの病院で生まれたらしい。そのときのことは当然覚えていないし、僕の子どものときの写真なんて、もうすべて倉庫の奥に埋められてしまっている。母親の覚えていない思い出とともに。
 小児病棟の三階のナースステーション。そこで星岡は看護師さんに「朝井くんはいますか?」とたずねる。教師と生徒だと伝えると、看護師さんはすぐに病室に案内してくれた。
「朝井くんだよな?」
「……誰、あんたら。そっちのちっこいのは見覚えある」
 身長の高い朝井は、ベッドの横で眠っている妹の横顔を見ていた。星岡とはそう言えば初対面だったな。だけど、僕のことも覚えてなかったか。それもそうか。一カ月しか同じクラスに居なかったわけだし、家のことで学校のことなんて気に留める場合じゃなかっただろうし。
「俺は教育実習生の星岡葉だ。こっちは同じクラスの戸叶輝くん」
「ふうん。俺に用があるなら、病室から出てくれるか?」
 そうだな。妹さんが眠っているもんな。僕らは部屋から出ると、ナースステーション近くのソファに座った。
「で? 何の用?」
「学校に来られない状況だって聞いて心配だったのと、タイムカプセルの宿題が出ててね」
 星岡は僕たちにパックのバナナミルクを買ってくれると、朝井はさっそくストローを刺した。
「一応、家のポストに入っている連絡帳は見てるし、宿題も出しに行けてるとき出してるだろ」
「顔を見に来たら行けない法律でもあるのか?」
 星岡がまたニッと笑うと、朝井は視線を逸らした。
 朝井の状況は理解できる。おばあさんの介護と妹さんの介護。助けてくれる親類や、手伝ってくれる人もいないんだろう。学校に通えない。自分の意思で、ではなく、物理的に。これってどうにかならないものなのだろうか。
「ねぇ、お母さんには言ってないの? 学校に行きたいって」
「は? 俺は俺自身で学校に行ってないんだ。妹やばあちゃんの世話、誰がすんだよ。あ、勘違いすんなよ? お袋から虐待を受けてるーなんて噂でも流されたら、大迷惑だ」
 そうか。朝井は自分の意思で小学校に通っていないんだ。だったらこんな作文なんて余計……。そう思っていたとき、星岡が口を開いた。
「朝井は夢ってあるのか?」
「夢? んなもんあるわけねぇだろ。今の生活でいっぱいいっぱいだ。夢なんか見られるのは、特権階級の人間だけだよ」
「君が三十歳になったとき、何してるかとか考えない?」
「さあな。死んでるんじゃないか?」
 あまりにもあっさりと言った。三十になったら死んでいると。入江も同じことを言っていた。そしてきっと、僕も同じことを感じている。白川さんは考えているかはわからないが、精神的には死んだと同じだときっと思っている。
 なんで僕ら小学六年生が、こんなにも未来に絶望しているんだ? 星岡が大きなため息をついた。
「はぁ、やっぱりな。俺の悲観していたことは現実になった」
「何のことだ?」
 朝井と僕は、星岡を見る。星岡は簡単に、朝井に自分が社会学部にいたこと、現在三十歳で教育実習生をやっていることを説明すると、バナナミルクの容器をべこっとへこませた。
「あのな、俺が前の大学の社会学部で学んでいたことって言うのが、現代の子どもが見る未来についてってことなのよ。だけど、このままじゃ夢なんて見られない。だから俺は、大学を一旦卒業したあと、子どもに夢を見させられるように教育学部に入り直したってわけ」
 でも……俺は口をつぐんで、星岡の顔を見た。星岡ひとりが頑張ったって、未来なんて変わらない。子どもの僕でさえわかるのに、大人の星岡がわからないわけがないのに。それもまた、虚しいんだ。
「朝井、戸叶はタイムカプセル委員をやってるんだ。それで、君にも『三十歳になったら』っていう作文を書いて提出してほしい」
「んなの書くだけ無駄だろ。教育実習生が何言ってんだ。担任が言うならわかるけど」
 だよな。秋津以外の未提出者は、みんな夢なんて描けない。夢を描ける立場にいないんだ。夢? 何それ。将来もご飯が食べられるの? 今の生活が改善されるの? 今より不幸じゃなくなるの? そんなものを見ても、今の現状は救われないでしょ? 
 朝井は続けた。
「大体タイムカプセルなんて、掘り起こされないで終わるんだよ。俺の母ちゃんの代でもやったけど、結局自然消滅して掘り起こされずに終わったんだ。学校の勝手なイベントに、生徒を巻き込むなよ」
 タイムカプセルが掘り起こされない? そんなこともあったのか。朝井のお母さんがうちの学校の生徒ではないとは思うけど、確かに僕らが三十歳になったとき、タイムカプセルが掘り出されるなんて保証、どこにもない。 僕たちが大人に夢を見ろと急かされて、一生懸命書いた文章。それは書かされるだけ書かされて、絶望の現実に塞がれてしまう。重い蓋で覆われて、土の中に埋められて終わりだ。
「星岡……」
「『先生』は?」
「星岡、僕も自分の書いた作文、やっぱり出したの返してもらいたい」
「……」
「だって嫌なんだ。嘘書いて、結局掘り出されずに終わる。今の僕らに、夢も希望もない。今回の作文で、痛いほどそれがわかった。だから……」
 言いかけたところで、看護師さんに声をかけられた。そろそろ面会時間終了らしい。
「朝井、君の言い分はわかった。今日は一度帰るよ。行くか、戸叶」
 僕は星岡に背を押されると、朝井に軽く会釈して病院のエレベーターに乗り込む。中で星岡は僕に耳打ちした。
「戸叶、悪いことしていくか」

 星岡のいう『悪いこと』とは、近くのファミレスでご飯を食べていくことだった。今日も父さんはいないだろうし、そもそも星岡からタイムカプセル委員のことで朝井のところに行くと連絡が入っているはずだ。
「何食べる?」
「えーと……ミラノ風ドリア」
「野菜も食えよ。サラダも頼むから、分けてやる。俺は明太子パスタな」
 注文すると、僕は星岡に初めて自分の内心を打ち明けることにした。彼は父さんと違う。谷先生とも。だったら少しはわかってもらえるかもしれない。
「星岡が今回の作文未提出の生徒が訳ありって言った意味、ちょっとわかった。みんな三十歳になるまでの夢がない。……僕も」
「作文を返せって言ったあれも、嘘を書いたからだな」
 僕は水を飲むと、こくりとうなずいた。僕は宇宙飛行士になんてなりたくない。僕が見ることのできる等身大の夢。それはきっと、運が良ければ大学を出て、就職をして、結婚をする。それが幸せかどうかもわからないけれど、『一般的な人生』だ。僕が見ることのできる将来は、その『一般的な人生』しかない。宇宙飛行士? 無理だ。サッカー選手? 無理だ。漫画家? 才能がない。デザイナー? なれっこない。F1レーサー? 命がけで何かやりたいなんて思えない。カメラマン? 勘弁してくれ、絶対に嫌だ。一番幸せなのは、そこそこの会社の社員として勤めることとしか、僕には思えないんだ。
「嘘を書いたこともそうだけど……みんなの話を聞いて思ったんだ。タイムカプセルなんて、意味がない。だって僕らは夢を見られる環境にいないし、夢を見る権利を大人から奪われているんだから」
 また「はぁ」と大きくため息をついた星岡の前に、明太子パスタとサラダが並べられた。僕の前にはミラノ風ドリアだ。取り皿にサラダを盛り、星岡が僕に差し出してくれた。
「これは今の社会を作った、俺たちの責任でもあるよな」
「なんで? 星岡は社会を作ってないよ。学生なんでしょ、まだ」
「『先生』な。俺たちっていうのは、今の大人たち全員のことだよ」
 星岡は意外にもスプーンも使ってパスタを食べる。軽く麺を混ぜたあと、小さくスプーンに取って食べる姿は、思ったより繊細だ。
「みんなはなんて言ってた?」
 俺はドリアを冷ましている間、みんなのことを話した。入江は母親のクレームのせいで夢どころか現在の生活がストレスで仕方ないこと。白川さんはこの年で結婚相手まで決まっていること。そして朝井は先ほどの通り。僕は夢ではなく嘘を書いた。
「でも、秋津だけは例外みたいだから。あいつがうらやましいよ」
「秋津ハジメかぁ……」
 星岡は残っていた明太子のソースを器用に食べると、いつもは見せない険しい顔を見せた。
「知らないことがないとわからない子どもが多いと嘆くこともあるが……世の中には知らなくていいことのほうが多いからな」 
「どういうこと?」
「戸叶はそのままでいいってことだよ。わかるときが来たら考えればいい。ただ……」
 食べ終わり、フォークとスプーンを皿の端にそろえると、少しだけ悲しそうな表情で星岡が言った。
「今以上に現実に絶望しないでくれな」
 やっぱり僕には何のことだかわからず、ようやく冷めたドリアを口に入れた。
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