二、入江美沙の事情

文字数 3,213文字

「入江、ちょっといいかな。作文のことなんだけど」
「あぁ……っと、ごめん。ちょっと時間ないんだ。宿題だったら期限内に出すから!」
 放課後用事でもあったのか、入江はすぐに教室から逃げるように出て行ってしまった。しかし、入江のおかしさはそれだけではなかった。次の日の朝、同じように尋ねたが逃げられた。なんでもお腹が痛いとか。昼休みは係の仕事があるとか。ともかく避けられる。次の次の日もだ。
 業を煮やした僕は、放課後入江を捕まえることにした。今日こそは提出してもらう。何の理由があるのかは知らないが、僕だって書きたくない未来を書いたんだ。入江だけ逃げようなんてそうは行かない。入江だけじゃない。他のメンバーだって。

 僕たちは見たくない夢を描かなくちゃいけないんだ。大人なんかのために。

「入江!」
「ごめん、まだ作文は……今日も時間がないし」
「なんで書く気がないの? 時間がないって、どういうこと?」
 入江は顔を引きつらせ、僕から顔を背けた。一瞬見えたのは、まるで僕なんかに理由は理解できないとでもいうような顔つきだった。それが無性に腹が立った。僕は入江と同じ年齢だ。自分ばかり大人だとでもいう表情を見せられた僕は、つい怒りが沸いた。
「時間がなくても宿題は宿題だ。書けないなら、その理由を教えてよ」
「タイムカプセル委員って大変だね。やりたくもなかったくせに」
「でもやれって言われたから、やらなくちゃ」
「……ついて来ればわかる」
 入江はランドセルを背負うと、僕を見た。その視線にはなぜか悲しみと同情が交じっているように思えた。

 入江の家は前から聞いていたがピアノ教室を営んでいる。入江の家の前に行くと、すでに数人の女の子と大人たちがいた。入江の姿を見た瞬間、親御さんたちが食ってかかる。
「美沙ちゃん! お母さんはまた遅刻なの⁉ いい加減にしてちょうだい! こっちはお月謝を払ってるのよ!」
「あなたね、お母さんが毎回みんなに迷惑をかけてるってわかってるの⁉」
「すいません、すいません」
「す『み』ませんもきちんと言えない子なのね! 躾ができてない! 本当にこの子は!」
 僕は入江が一方的に大人から責められている様子を見て、ぞっとした。女の子たちは、そんな入江を見て笑っている。彼女が何をしたんだ? 少なくても僕からしたら、彼女は何もしていない。なのになんで怒られているんだ? 
 寄ってたかって大人が入江をいじめていると、のほほんとした空気の女性が現れた。
「あら、みなさん。遅くなってごめんなさぁ~い。レッスン始めましょうねぇ」
「ま、ママ……」
「ほら、美沙も練習するわよ!」
「ご、ごめん。今日はどうしてもやらなきゃいけない宿題があって」
「宿題なんて夜やればいいでしょ」
「入江さんが提出してくれないと、僕が帰れないんです」
 僕は知らない大人に意見をした。生意気だと思われてもいいと思った。だって、これが大人の間違いだと思ったから。なんで入江は知らない大人に怒られる? 話を聞いていた限り、レッスンに遅れたのはお母さんだ。お母さんが怒られるのはわかるけど、なんで立場の弱い子どもである入江が、あんな暴言を吐かれなくちゃいけないんだ? それに、一緒になって笑っていた女の子たち。こんなのいじめなんかよりタチが悪い。
 入江のお母さんはじっと僕を見てから、笑顔で言った。
「宿題なら仕方ないわね。美沙ちゃん、お茶くらいは自分で出して」
「はい、ママ。……行こう」
 入江は僕に背を向けたまま、家の中に入っていく。一階はピアノ教室。その奥の階段を上ると、入江の部屋に着いた。
 部屋の中はピンク一色で、こちらがうんざりしそうだった。しばらくすると、入江が温かい紅茶を運んでくる。女の子の部屋ということで緊張はするが、それ以上にピンクの視界の暴力がすごかった。
「それで、宿題ができない理由って何?」
「あと少しでわかるよ」
 ポロロン、とピアノの音が響いてくる。最初は軽やかだったが、子どもたちの大きな歌声と下手くそなピアノも一緒に。また、音響の関係か、家が軽く揺れている。
「この環境で、毎日の宿題をやっているだけ、奇跡だと思わない? 私は騒音のせいで不眠気味なんだよ」
「お母さんには?」
「言っても聞かない。『私の人生の夢なんだから、好きにさせてよ』って」
 人生の夢、と聞き、僕は胸がずきりとした。親の人生の夢を優先させたから、娘の生活が脅かされていることに気がついているのか? それに、もしかしたら……。
「入江が三十年後の作文を書けないのって、やっぱり自分の夢が持てないから?」
 入江はカップの乗ったテーブルを、拳で打ち付けた。
「当たり前じゃん! 親が自分の夢のために子どもの生活をめちゃくちゃにしてるんだよ? 夢って何⁉ 人の生活を壊してまで叶えたいものなの? だったら私は夢なんて持ちたくない!」
 ガチャンとカップが揺れた音がした。ひと息置くと、入江は顔を伏せたまま、ぽつりと話し出す。
「私だって最初はママのことを応援しようと思った。でも、あの人は夢ばかり追いかけて、周りの家族が見えてないの。私はそんな欠落した人間になんてなりたくない」
「欠落って……」
「だって! どうみても『欠落』じゃない! 子どもが自分の失敗のせいで大人たちから責められて、同じ子どもからもいじめられてるのに無視! 気づきもしない! こんなの……親でもないし、こんな大人になるくらいだったら、私は三十歳になる前に死にたい」
「死ぬだなんて、大げさすぎる」
「大げさじゃない!」
 入江は鬼気迫る顔で僕の腕を取った。
「ご、ごめん。今日は帰るよ」
 僕は泣きそうな顔だった入江の腕を振り払い、逃げるように彼女の家を後にした。

 僕はその夜、父さんに会いたくなかった。運よく撮影が長引くから、夕飯はコンビニで弁当を買ってくれとお金が置いてあった。
 夜、近くのコンビニでハンバーグと唐揚げの入った弁当を買う。お菓子はいらない。甘いものを買う習慣は僕にない。
 温めてもらった弁当を食べながら、僕は入江について考えていた。『三十歳になるまでに死にたい』。なんでここまで大人は僕らを追い詰めるんだ。そういう僕だって、三十歳になったときの夢なんて見えない。なんとなく生きて、なんとなく生活している。それって生きている意味、あるんだろうか。父さんは楽しそうに仕事に打ち込んでいるみたいだけれど、それって自分が楽しいだけなんだ。もし僕が同じ年代で子どもを持ったとして、父さんみたいな親になっていたとしたらと考えるだけで、嫌悪感を持ってしまう。父さんのことは嫌いじゃない。だけど、親としては尊敬できないんだ。
 入江はもっと僕より深刻な状態なんだろう。学校では平然としているように見えるが、もしかしたら学校にいるときのほうが安心しているのかもしれない。家では大人たちにどやされる。騒音、同世代の女の子たちの嘲笑。安らげやしない。
 だからと言って、僕がどうにかできる問題じゃない。彼女自身が解決しなくちゃいけないことだ。こんな大きな難題を、十一、二の子どもが解決しないといけないなんて、世の中はおかしい。
 ハンバーグはとてもおいしい。これが、母親が作ったものでなくても、うまいものはうまいのだ。僕は母親の味というものを知らないし、知ることはないんだろう。諦めなんて最初からない。僕はそういう家庭だから、ないものをうらやましがっても仕方がないんだ。
 入江の件はまだ時間がかかりそうだということで、僕は理解した。書き上げられるかどうかは彼女自身にかかってはいるが。
 明日は、入江以外の他のみんなに当たってみよう。このタイムカプセル委員というやつは、ただの雑用というわけではなさそうだ。『面倒くさい雑用』。谷先生には厄介なものを押しつけられたな。それに星岡にも。
 僕は食べ終わった弁当の容器を洗剤で洗って、ゴミを分別してから歯を磨いた。

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