第4話 無職少女 加納エリナ

文字数 11,837文字

 珍しく午前七時に目が覚めたエリナは、あくびをしながら一階のリビングに降りた。リビングでは仕事着に着替えた兄のユウイチが朝食の白飯を食べている所だった。
「おう、今日は早いな」
 ユウイチはエリナに声を掛けたが、エリナは答えなかった。父が死んで以来、兄のユウイチは高校を辞めて地元の企業に就職し内装工の仕事をして、パート勤めの母と共に家計を支えている。しかし高校にも通えず無職少女という身分のエリナには返す言葉が無かった。
「今日の夜、仕事場の仲間を一人連れてくるんだけれど、良いかな?」
「誰よ」
 眠たげな声でエリナは答えた。朝の最初の言葉が乱暴でいい加減な言葉なのは、今のエリナの環境と心情を強く反映していた。
「お前と同い年の奴。中卒で働いているんだ」
「そう」
 エリナは同じように答えた。自分が中学生の頃は高校に上がらず無職や就職という身分になるのは不幸な事であると思っていたが、自分がその身分に収まってみると不幸や悲しみの感情を持つよりも、疎外感を感じる事が多い。その疎外感を自分の中で持て余している状態で、自身の立場を悲劇的な言葉で修飾させられると、最近は怒りを覚えるようになった。
 朝はエリナの興味を引くものが無かったので、彼女は部屋に戻りもうひと眠りする事にした。


 昼前に再び目が覚めると、エリナは家を出た。地元をぶらぶらしても面白い物は見つけられないし、下校途中の同世代の学生を目にすれば自分に引け目を感じてしまうので、地下鉄に乗って繁華街に向かった。
 繁華街の駅で降りて地上に出ると、エリナはゆっくりとした足取りで百貨店が並ぶ界隈を抜けて、風俗店や飲食店が立ち並ぶ歓楽街に向かった。昼間でも空いている様々な店の前には、エリナと同じような理由で昼間から遊びに来たような人間と、店舗の関係者らしき人間達。色々な事情を抱えてこの街にたどり着いたのだろうが、親しみや仲間意識のようなものは感じなかった。
 歓楽街を抜けると、エリナは駅近くにある大型書店に向かった。普段エリナは活字だらけの本なんて読まない人間であったが、外出が期待外れに終わり暇を持て余していた今の彼女には、中に入って背表紙のタイトルを見るだけで時間を消費したような気分になれるような予感がしていた。
 書店の内部はエリナの想像よりも混雑していた。一階は新刊や話題書が平積みにされ、書店員がパソコンとプリンターで作ったであろう、手作りの見出しや宣伝文句が添えられている。エリナはそれらの平積みの新刊や手作りの装飾を眺めたが、興味を引く言葉やタイトルの本は無かった。少しがっかりした気分になったエリナは新刊コーナーから離れて、『新書』というプラスチック製の看板が下げられているコーナーに向かった。
 新書のコーナーは文庫本より細長い形状の本が平積みになっていた。覗き込んでみると出版社ごとに色分けされた表紙とタイトルだけのシンプルなデザインで、宣伝用の帯以外に興味を引くような演出が無い。派手に自分を着飾らずに、言葉と中身だけで語り掛けてくる。人間の本質に訴えかけてくるような見た目が、エリナに良い印象として残る。彼女は何か良さそうなタイトルの新書は無いだろうか探した。すると平積みにされている新書の中から『意志を持つこと』というタイトルの本を見つけた。
 手に取って著者を調べると、京都大学の哲学科の教授が記した本らしい。少し開いて目次を見ると、哲学科の教授が聖書や啓蒙思想を引用して、生きてゆく上での意志の必要性、複雑化する社会で倫理的、理性的に生きるための事が箇条書きで綴られている。
 エリナは書かれている事がすべて理解できるわけではないが、一項目ごとの文量も多くはなさそうだし、税込みで一一〇〇円と言う値段も気に入った。エリナは自分から本を読もうという意思を自分が持った事に喜び、レジへと向かった。

 その後エリナは地下鉄に乗って繁華街から家に戻った。紙のブックカバーを被せた新書本を無職少女が地下鉄で読んでいるのは、自分でも奇妙な光景だとエリナは思ったが、その奇妙さが自分と読書という行為を強く結びつけているような気がした。
 自分の住んでいる街に着き、地下鉄を降りる。駅のホームでエリカが通いたかった高校の制服を着た女子高校生とすれ違う一瞬、自分も同じ制服を着て同級生と談笑する場面が脳裏に浮かんだが、すぐにかき消した。
 地上に出て家に向かう道筋は、細い人通りの少ない道を選んだ。人通りの多い道はエリナが通っていた中学校の生徒達が通学に使う道で、情けない自分を後輩に晒したくはないので、最近は遠回りでも人と巡り合わない道を選んでいた。
 エリナは帰宅すると、自分の部屋に入った。ベッドの上で寝転がり途中まで読んだ新書を再び開くと、エリナはそこに書かれている文章の中から印象に残る言葉を見つけながら読んだ。本の内容を冒頭から終わりまで理解する事は出来なくても、エリナにとっては散らかった部屋が整理されるように、心が整って安らぐような感覚を与えてくれた。
 残り二割程度の所まで読み進めると、エリナは本を閉じて目を閉じ浅い眠りに落ちた。目が覚めると、すっかり日は暮れて、耳を澄ますと下のリビングで夕食の準備を整える音が聞こえて来た。夕食の時間になったとエリナは起き上がり、一階のリビングへと向かった。
 リビングではいつもより豪華な夕食の用意がされていた。母の揚げた鶏のから揚げに、エリナが好きな竹輪とスライスオニオン、サニーレタスにわさびドレッシングを合わせたサラダ。それにスーパーの刺身盛り合わせと、油揚げに納豆を詰めた包み焼。なぜこんな豪華な料理が並ぶのだろう疑問に思うと、兄のユウイチが仕事仲間を連れてくるという朝の言葉を思い出した。
「エリナ、起きたの?」
 台所から母がエリナの元にやって来た。母の両手には兄が好きな甘口の卵焼きの皿を二枚持っていた。
「もうすぐユウイチがお友達と一緒に来るって言いうLINEがあったから、出迎える準備をしておいて」
 母の言葉を耳にした瞬間、エリナは久しぶりに新しい刺激を受ける喜びを覚えた。暫く感じていなかった未知なる刺激に、小さく心が弾むのが分かった。
「わかった。何をすればいい?」
「飲み物のグラスを用意しておいて。冷蔵庫の缶ビールも」
 エリナは踵を返して、ビール用のグラスが収納されているキャビネットに向かった。この家で成人しているのは母と兄のユウイチの二人だけだったが、父を失い高校にも通っていないエリナも、開き直って堂々と未成年飲酒をしていた。恐らく今日やってくる兄の友人がどんな人間かは分からないが、同じテーブルで酒を飲み交わせば仲良くなれるだろうとエリナは思った。
 料理と食器、グラスの用意がすべて終わると、兄のユウイチが帰って来た。久々に本を読み、普段よりも豪華な料理が並んだことで気持ちが軽くなっていたエリナは、玄関に向かいユウイチを出迎えた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 帰宅したユウイチを出迎えたエリナは玄関で答えた瞬間、ユウイチが連れて来た仕事の仲間に目を奪われた。作業着を着ていたが年齢はエリナとさほど変わらず、夕焼けの砂漠のような色に染めた髪と、日に焼けているが何処かに影が差しているような表情と雰囲気が、ユウイチの仕事仲間からは漂っていた。
「上がれよジュンヤ。俺の妹だよ」
 ジュンヤはと呼ばれた若者は「お邪魔します」と小さく一礼して家に上がった。自分と近い年齢の人間が客人として家に来る。エリナは挨拶を返すのも忘れて、驚きともときめきとも形容出来ない感情を胸の中に抱いた。
 それから程なくして、ジュンヤを招いてのささやかな宴が始まる。ほぼ全員が自分のグラスにビールを注ぎ、この家は無法地帯だからと言わんばかりに酒を飲んだ。ユウイチの隣に座るジュンヤは明らかに未成年であったが、飲酒と同じように、躊躇う事なくポケットから煙草とライターを取り出して、何時でも吸える用意を整えていた。
「ジュンヤはうちの会社の期待の新人なんだ。仕事の飲み込みも早いし、手際も良いんだ」
「いや、そんな」
 ユウイチの誉め言葉にジュンヤは濁すように謙遜した。その小さな仕草をみてエリナはますます興味を持った。
「あの、江本さんって歳は幾つなんですか?」
 エリナは単刀直入に質問した。高校に通わない無職少女だった自分が、急に年齢相応の純朴な小娘に変化したのが自分でも分かった。
「十六歳です。それが何か?」
 ジュンヤは無表情に答えた。
「わたしも同い年なんです」
「高校には、通ってないんですか?」
 今度はジュンヤがエリナに質問した。エリナははっとして自分が高校に通っていない事実を告げる事に一瞬躊躇ったが、臆せずに打ち明ける事にした。
「はい。高校には通いたかったんですけれど、中学時代に色々と」
 エリナは生まれて初めて、自分が高校に通っていない事を初対面の他人に打ち明けた。話した内容は大雑把だったが、自分の事を口にして誰かに打ち明けると、高校に通っていないという事実が自分の中で少し小さく、軽くなったような気がした。
「そうですか、僕と同じですね」
 ジュンヤも自分が高校に通っていない事を打ち明けたが、人生に冷めたような言い方と表情に、エリナは自分にはない落ち着きと経験が彼の中に宿っているのを見逃さなかった。
「なんだよ。エリナは自分と似たもの同士だと嬉しいのかよ。まあ、俺も高校中退の身分だけれど」
 ユウイチは割り込むようにして自嘲気味に言ったが、笑い声は起こらなかった。自分の境遇を笑わないジュンヤに、エリナはますます親しみの情を抱いた。
 宴席は二時間ほど行われ、ジュンヤは帰宅する事になった。全員が酒を飲んでそれなりに酔っていたので、駐車場に停めてある家の軽自動車を使う訳には行かず最寄りの地下鉄の駅までジュンヤを見送る事になった。最初は仕事の同僚である兄のユウイチが行くと言ったが、ジュンヤの持つ何処かミステリアスな雰囲気に興味を持ったエリナは、自分が送ると言って無理矢理引き受けさせた。
 地下鉄の駅まで向かう道筋はすっかり暗くなっていた。スマートフォンで時間を確認すると、午後十時二分。それ程夜中になった訳ではないが、エリナには長い時間が経過して深夜の街を歩くような不思議な感じがした。駅に向かう途中、エリナは朗らかにジュンヤと束の間の会話をしようと思ったが、共通の話題を持ち合わせていない初対面の関係だったので、すぐに話せるような事は無かった。
「あの」
 不意にエリナは漏らした。気付いたジュンヤはエリナの方を少し見る。
「江本さんは、彼女とか居ないんですか?」
「いないよ。好きだった人は居るけれど」
 ジュンヤは即答した。あまりにも素早い返事にエリナは頭の中が真っ白になった。
「君には居るの?付き合っている人?」
「はい。いません」
 踵を返すようなジュンヤからの質問に、エリナはすぐ答えた。
「俺を見送ってくれたのは、自分と同い年の人間が高校に通わず、自分と同じような境遇にいるから?」
「はい」
 エリナは小さく答えた。完全に見抜かれた本心を否定する事は出来なかったし、するつもりも無かった。
「LINE教えてよ」
「えっ」
 ジュンヤからの突然の提案に、エリナは声を漏らした。
「同じような境遇を持つ同い年の人間に出会えたんだ。このままスルーで終わるのもつまらないから、連絡取り合おうよ」
 ジュンヤの言葉に、エリナは胸が熱くなり喜びの感情が心地よく広がって行くのを感じた。暗く長いトンネルを進んでいたら、ようやく出口の光が見えた気分にも似た感覚だった。
「ありがとうございます。すぐ教えます」
 エリナはすぐさま自分のスマートフォンを取り出し、ジュンヤとお互いのIDを交換して確認用のメッセージを送り合った。エリナは自分の貧相な語彙量では表現できない程の喜びを覚え、そのまま地下鉄の入り口まで進んだ。
「それじゃあ、何かあったら連絡してよ。今日はありがとう」
 ジュンヤはそれだけ告げて、地下鉄の階段を下っていった。エリナは地下に消えて行くジュンヤの背中を見ながら、今日という日に初めて感謝の念を抱いた。


 それから一週間の間、エリナはジュンヤとのLINEを通じて連絡を取り合った。学校の同級生以外の、初めて出来た新しい関係の友人。無職と内装工という差はあるが、学生という身分から抜け出して、「単なる若者」というシンプルな身分でコミュニケーションを取れるのが、エリナにはたまらなく嬉しかった。スマートフォンの画面の向こうで指先を動かしているであろうジュンヤも、同世代の高校生ではない異性と会話できるのが嬉しいのか、よく返事を返してくれた。
 暫くLINE上でのやり取りが続くと、直接会って色々な事を話さないかという事になり、エリナはジュンヤの休みの日に待ち合わせて会う事になった。エリナにとっては、久々の他人と過ごす楽しい時間。ましてや新しく知り合えた異性と一緒に過ごせるのは初めての事だった。
 ジュンヤの休日は金曜日だったので、エリナは以前ジュンヤを見送った地下鉄の駅で待ち合わせる約束を取り付けて、ジュンヤを待った。中学時代に購入した服やアクセサリーを再び身に付けてジュンヤを待っていると、自分に一筋の光が差し込んで、心を明るくし、見える物を全てが輝いているように思えた。それくらいエリナの気持ちは高揚し、弾んでいた。
 エリナが待って二分ほどすると、以前とは違う私服姿のジュンヤが歩いてきた。白い無地のTシャツにグレーのパーカー、黒のスキニージーンズという格好は、初対面時の作業服姿とは異なる、繊細で知的なイメージすら漂わせている。何故ジュンヤが中卒労働者という身分なのだろうと、エリナは疑問に思った。
「おまたせ」
 ジュンヤは軽く右手を上げながらエリナに挨拶した。親しみの籠ったジュンヤの行動にエリナは少し恥じ入ったあと、「うん」とこぼれるような声を漏らした。
「調子はどう?」
 恥じ入るようにエリナは訊いた。自分でも他人行儀な言葉遣いをしていない事に気付いたが、ジュンヤは気にしていない様子だった。
「いい感じだよ。この前に会った時と同じ」
 プライベートの装いに身を包んだジュンヤはエリナが想像していたよりも美しく端正で、自分から積極的に話しかけるのを躊躇してしまうくらいだった。
「さて、これからどうする?俺は君の予定に合わせるよ」
 一呼吸間を置いて、ジュンヤがエリナに訊く。その言葉はエリナが聞いたどんな言葉よりも心地よく響き、また柔らかく甘い感触を伴っていた。
「とりあえず、地下鉄に乗って**まで行こうよ」
 エリナはジュンヤとあった日、本を買った繁華街の名前を口にすると、ジュンヤは「いいよ」と了承して、地下鉄の階段を下った。エリナもその後に続く。何回も利用した地下鉄の駅階段だったが、ジュンヤと一緒に居ると知らない世界に通じる道を進んでいるような気分になる。
 改札を抜けてホームに着くと、目的地に向かう電車がやって来た。エリナとジュンヤは電車に乗り込んで、席には座らずドア付近に立つ事にした。ドアが閉まり電車がゆっくりと動き出す。閉ざされた空間でジュンヤと一緒に居ると、無機質な地下鉄が特別な乗り物の様に思えた。
「向こうに着いたら、どうするの?」
 不意にジュンヤが冷めたような口調で漏らす。虚を突かれたエリナははっとして、到着後の予定を何も考えていない事を今更であるが気付いた。
「特に何も、映画とか観る?」
「映画は特に観たいのが無い。というか最近周囲の事に全く興味がないんだ」
 罪の告白の様に、ジュンヤは答えた。立て続けに降りかかって来た予想を裏切る言葉の数々に、エリナは呆然とするしかなかった。
 電車が次の駅に停まり、ドアが開く。乗降客の入れ替えが規則的に行われると、ドアが閉じて列車は再び走り出した。次第に社内の騒音が大きくなり、固いコンクリートと金属の丸い塊をこすりつけるような音が床の向こう側から響いてくる。
「なんで?」
 走り出して車内の騒音が激しくなってきた時に、エリナは訊いた。ジュンヤは顔を俯けて、ぼそぼそと自分語りを始めた。
「俺が学校に通う事に興味を失ったのは、片想いの人を目の前で失ったからなんだ」
 ジュンヤは前書きの様に一言呟いたあと、エリナの方を向いた。
「中学校に現れたメデューサの話は聞いたことある?」
 エリナはその言葉を聞いて、自分の中で脆く大きな何かが割れる感触を味わった。中学校に現れたメデューサの噂は、当時中学生だったエリナの耳にも届いていた。中学校教師に化けていたメデューサが繁殖の為に男子生徒を犯していたら、その光景を女子生徒に目撃されて、メデューサに女子生徒が殺されてしまった話だ。メデューサなどギリシャ神話にしか登場しない存在だから、完全なるおとぎ話か、実際に起きた不祥事を脚色して作った話だとエリナは思っていた。
「俺は、その話の当事者の一人なんだ」
 ジュンヤは一言、苦痛に呻くように漏らした。エリナはジュンヤの表情を見て、彼の言っている事実だと思った。
「俺は担任の先生に指導室で犯されて、様子を見に来た片想い女の子を殺されたんだ。俺は何かを植え付けられて、何も出来なかった」
 ジュンヤは当時の驚きと無力感を思い出しているのか、言葉に力が無かった。エリナが落ち着きと冷静さだと思っていた部分や表現は、自分の痛みと苦しみに耐えている物だったのだ。
「ごめん。言いたくない秘密を言わせてしまって」
 擦れた声でエリナは謝った。ちょっとした興味が深く他人を傷つけてしまったのが、何よりも悔しかった。
「いいんだ。いずれ他人に話さなければならない事だろうと思っていたから」
 ジュンヤが小さな声で呟くと、エリナは少しだけ救われた気分を味わった。
 気まずいような沈黙がエリナとジュンヤの間に流れた後、電車は目的地の駅に着いた。ベルトコンベアから送り出される工業製品の様に二人は電車を降りて、無言のままホームに立ちすくんだ。悲劇的な事実が先だってしまえば、繁華街に溢れる商業主義の様々な実態など、二人にとっては感動も興味も無い物になってしまうのが分かっていた。
 二人は人の邪魔にならない所まで移動して再び立ちすくんだ。途中ジュンヤとエリナの事を怪訝そうに見つめる三十代らしき眼鏡の男の視線が気になったが、気にする余裕は二人には無かった。
「これから、どうする?」
 今度はジュンヤの方から口を開いた。何もなければ、アイカには甘く包容力のある言葉に聞こえただろうが、今の状況では単なる謝罪の言葉だった。
 暫くエリナは考え込み、俯いたままのジュンヤの顔を覗き込みながらこう訊く。
「ジュンヤは、私と一緒に居るのが嫌?」
「いいや、嬉しいよ。でも嫌な過去がある人間とは一緒に居たくないだろ?」
「過去はどうでもいい」
 エリナはジュンヤの言葉を慌てて否定した。
「あなたがどうであれ、私は自分と一緒に居てくれて向き合ってくれる人の力になりたい。それにあなたは、こうして私と一緒に同じ場所に居て真正面から向き合ってくれる。私はそう言う時間や関係を大切にしたい」
 エリナは自分でも饒舌で滅茶苦茶な言葉を並べた。するとジュンヤは俯かせていた顔を上げて、エリナの目を見た。
「俺の事を、嫌だと思わないのか」
「私は嫌じゃないし、まだジュンヤの事を何も知らないから、もっと知りたい」
 エリナの熱の籠った言葉を聞いたジュンヤは、納得したように小さく頷いた。
「ありがとう。ここに居てもつまらないから上に出ようか」
 エリナもその言葉に頷いて、ジュンヤと共に地上へと向かって歩き出した。

 地上に出ると、頭上の空は薄灰色の曇り空だった。雨は降ってはいないが晴れてはいない。自分達の心情を空が表現しているようだとエリナは思った。
 パチンコ店や回転ずしの店舗が並ぶ脇道を抜けて、国道沿いの商業エリアに向かう。近くにはJR線と私鉄各線が乗り入れる駅と、アパレルや音楽関係のテナントが入居するビルがあり、国道沿いに行けば映画館のある商業ビルもあった。どこに行っても困る事は無いが、いずれの施設も目的も無しに入る場所でもなかった。
「俺はこの街のこっち方面に来るのは初めてだな」
 周囲を見回しながらジュンヤが呟く。
「そうなんだ。それなら一通り色々見て回ってさ、面白そうなお店があったら入ってみようよ」
 エリナの提案にジュンヤは小さく頷いて、二人は周辺をうろつく事にした。パチンコ店も大型の量販店も興味が無かったので、駅ビルの隣に立つ商業ビルに入った。フロア案内板を見ると、四階に輸入物のキャップを扱うテナントが入っていたので、そこでクールなキャップでも見ようという事になり、エレベーターで四階に上がった。
 目的のテナントは四階のフロアの四分の一を占めており、黒を基調とした内装と天井から流れるヒップホップ音楽が「米国直入のストリートファッションブランド」という事を露骨に主張してくる。壁の上段にはメジャーリーグの球団のロゴが入った平つばのキャップが並べられ、そこから少し降りた手に取りやすい部分に比較的リーズナブルな商品が並べられている。どれもカリブ海の国々や中米の工場で製造されたものだったが、球団ロゴの使用料が高いのかどの商品も三〇〇〇円以上のプライスタグが点けられていた。
 エリナは商品棚に並べられているキャップの内、ロサンゼルスのチームロゴをあしらった灰色の平つばのキャップを手に取った。チームとメーカーのロゴが黒く塗られており、自分には似合わないだろうがジュンヤには似合うような気がした。
「これ、ジュンヤに似合うと思う」
 エリナは持っていたキャップをジュンヤに手渡し、被ってみてくれと彼に視線を送った。
「被るの?」
 少し戸惑うような言葉をジュンヤは漏らしたが、被っている姿が見たいというエリナの視線を感じたジュンヤは渋々そのキャップを試着した。ネットの動画や広告で見かけるストリートファッションに身を包んだモデルの様に少し傾けて、平つばを斜めにしてみると、今日のグレーを基調としたジュンヤの服装に良く似合っていた。落ち着いた色合いの服装だが、頭にキャップを被るだけで少し活動的な人間になったような印象になる。
「似合う、すごくいいよ」
 エリナはキャップを被ったジュンヤを褒めた。
「本当?ありがとう」
 ジュンヤは自分の服装を褒められた経験が少ないのか、照れくさそうに微笑みを返した。ジュンヤは近くにあった鏡で自分の被った姿を確認すると、いったんキャップを外して、ついている紙製のプライスタグを見た。値段は四二〇〇円。買えない値段では無かったが、中学生時代の感覚では値が張った。
「一〇〇〇円くらいなら、出してあげようか?」
 エリナはプライスタグを凝視していたジュンヤに訊いた。
「いや、悪いよ」
「いいよ、私が被っている所が見たいって言ったんだから、自分の為に下らない物を買って散財するなら、好きな人の為になる物に使った方がいいもん」
 ジュンヤは再び照れくさそうな笑みをこぼした。「好きな人」という言葉を耳にしたのが、嬉しくもこそばゆい感触だったのだろう。
 二人はそのまま会計に向かい、試着したキャップを買った。店員にプライスタグを取ってもらい、試着した時と同じ形でキャップを被る。店舗を後にすると、ジュンヤの顔には先ほどの沈んでいた表情が嘘だったかのような笑みが宿っていた。その笑みを見ると、エリナは彼の心の負担を少し軽く出来たような気がして嬉しかった。
 二人は商業ビルを後にして、近くの通りにあるクレープ屋でクレープを買った。タピオカミルクティーの店もあったが、ジュンヤは生クリームが好きなのでこちらになった。
「生クリームが好きだなんて、意外だね」
「良く言われるよ、優しい口当たりの物が好きなんだ」
 エリナの言葉にジュンヤははにかんだ。少しずつだがお互いの陰の部分を晴らして、お互いの事を知り距離を縮めている。エリナにはそんな気がした。
 クレープを食べ終えると、二人は道を一本隔てた所にある大型書店に向かった。
「ジュンヤがうちに来た時、ここで本を買って読んだんだ」
「そうなんだ。どんな本なんだい?」
 嬉しそうに話すエリナに、ジュンヤは相槌を打つ。
「京都大学の教授が書いた新書本。志とか信念を持つことについて書いた本」
 エリナの言葉にジュンヤは無言で頷いた。やがて大型書店の入り口まで来ると、ジュンヤは店舗ビルを見上げた。
「たまには、本屋でも入ろうかな。一五〇〇円くらいで欲しい本があれば、買ってあげよう」
「いいの?」
「似合うキャップを選んでくれたお礼だよ」
 ジュンヤの返事にエリナは喜んだ。二人はそろって書店の店舗に入り、エスカレーターで二階に上がる。平積みにされたのや、棚に並んだ本のタイトルは、どれも中卒の身分であるエリナとジュンヤには、押しつけがましく抽象的な表現が多かったが、書いた人間の思考回路が垣間見えそうな気もしたので、二人にとってはいい刺激になった。
 やがてハードカバーの文芸書のコーナーに着くと、エリナはここ最近に出版された平積み文芸書のタイトルを眺めた。そこでエリナは高校生活が終るその一瞬を描いた青春小説の一冊に目が止まった。脇にある手作りの広告ポップを見ると、ホラー小説で有名な作家が本格デビュー前に執筆した作品を加筆修正しものらしい。エリナはその本を手に取り、ハードカバーにしては軽くて薄い感触を味わいながら本を開いた。装丁された立派な見た目に反して、書かれている文章は先ほど食べたクレープの生地みたいに柔らかそうな文章だ。
 閉じて裏表紙の値段を見ると、バーコードの側に税込み一三〇〇円と書かれていた。
「これにする」
 エリナは購入を決めた。初デートの時にお互いが求めている物の代金を肩代わりして、なおかつ買ったのがハードカバーの青春小説というのは、非常に面白くて印象深い事だと彼女は思っていた。
「了解」
 ジュンヤは気さくに答えて、同じ階にある会計に向かった。


 会計を済まして店舗を出た後、エリナとジュンヤは書店の本館と別館を隔てる一方通行の道路を歩いていた。ここから国道を隔てると、風俗店や暴力団事務所などがある歓楽街があったが、二人には不要の場所だった。
「私がどうして高校に通っていないか、知りたい?」
 歩きながら人通りの少ない場所に出ると、エリナは急に口を開いた。ジュンヤは突然の言葉に驚いて、少し陰りを見せ始めたエリナの顔を覗き込む。
「突然どうしたのさ」
「ジュンヤが高校に行かなかった理由を話したのに、私だけ話さないのは不公平な気がして」
 エリナは話したくなった理由を答えた。ジュンヤに似合うキャップの購入代金を負担し、面白そうな本をジュンヤに買ってもらってある種の相互承認が生まれたのだから、その関係を深くしたい、モノではなく心の方で繋がりたいという強い意志がエリナに生まれ始めていたのだ。
「私が高校に行かなかった理由は、父が死んだ経済的な理由もあるけれど、もう一つ理由があるの?」
 エリナはジュンヤの返事を待ったが彼は返さなかった。少しがっかりしたが、エリナは気にせずさらに続ける。
「理由は学校に行っても、虚しくて生きている実感が無かったから、同じ制服を着て同質化を強要されて、自分達はマウント取りに必死。そこに自分の思い描いている理想と現実に大きな開きがあった。それが嫌で高校に通う意思を失くしてしまったの」
 エリナは自分の言葉を述べたが、ジュンヤは反応を示さなかった。
「でもそれは単なるわがままに過ぎなかった。箱の中で飼われていた方が自分には合っていたんだって。学校という束縛が無くなったら、急に自分が虚しくて孤独な人間であることに気付いた」
 そこまで来て、ようやくジュンヤは小さく頷いた。
「でも、自分よりひどい経験をしてきたジュンヤを見て、私思った。少しでも真面目に生きて、強く前向きになろうって。定時制でも何でもいいから、バイトと学校を両立しながら、自分を成長させようと思う」
「そう」
 ようやくジュンヤは返事をして、こう続ける。
「エリナの気持ちを、俺は支持したいよ。エリナに出会わなければ、多分俺も過去の記憶にとらわれ続けて、こうして前を向く事が出来なかったと思う」
 そしてジュンヤは足を止めた。エリナも同じく足を止めて彼の方を向く。
「俺はエリナの事を支えたい。もし出来るなら、俺がくじけそうになった時、エリナも支えてくれるかな」
「うん。喜んで」
 エリナは頷いて答えた。するとジュンヤはエリナを抱き寄せて彼女の唇を奪った。首の付け根から触手を出して頭が離れないようにすると、口から『しあわせのつぶ』を植え付ける器官を出し彼女の中に侵入して『しあわせのつぶ』を植え付けた。深い口づけの形をした交配のような行為が終り、重ねていた唇を離す。離れたあと、エリナにはそれまでの自分とは異なる、明らかな自信に満ちた時の眼差しが宿っていた。
「これから色々な事があるかもしれないけれど、よろしく」
「うん。こちらこそ」
 ジュンヤの言葉にエリナは落ち着いて答える。二人が特別な関係で結びついた証拠だった。

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