第2話 中学校教員 羽鳥アイカ

文字数 4,278文字

 公立中学校に勤める羽鳥アイカは、自分の選んだ中学校教師という仕事に自信を失いかけていた。
 二流の私立大学の教育学部に進学後、教員の資格を取って東京都内にある公立中学に勤務して二年になり、初めて二年一組の担任教諭を任される事になった。
 アイカは「先生」と呼ばれながら生徒たちに指示し、一つにまとめるのは自分がイメージしていた『先生』という役職に最も近い存在だったのだが、思春期を迎えたが制服や集団生活のルールで個性を殺され、画一的な閉鎖空間で少しでも優位に立とうとしている生徒達を近い位置で観ていると、次第に自分が思い描いていた『先生』という、神格化された存在が汚され変化してゆくのを感じていた。自分が中学生だった頃にはあこがれと尊敬の眼差しで見上げていたはずの存在が、自分がその身分になると生徒の側に向かって下がって行くような違和感を覚え、生徒達も自分より少し年下の異性と同性として見てしまう事が度々あった。
 特に最近のアイカを悩ませているのは、担当している江本ジュンヤという男子生徒だった。特に素行や家庭環境に問題があるという訳ではないのだが、他の生徒とのコミュニケーションがうまく取れず、しょっちゅう暴力沙汰等の問題を起こしている。彼の起こす問題が学校全体で起こる問題の六割になる事もあり、そうなれば問題を起こした相手側の保護者とも、役所の教育担当者とも話をつけなければならない。大手メディアやテレビドラマ等ではあまり描かれる事の無い、厄介でストレスになる仕事が、アイカの仕事に対する意欲と精神力を奪ってゆく。同じ二年生を担当している他の教員や先輩などに相談できれば良かったが、彼らも自分達の問題を抱えており、話し合った所で傷の舐め合いにしかならず、根本的な解決は出来なかった。

 そうしてひたすら我慢を続け、教師としての意欲をすり減らしながら一週間を終わらせると、アイカは久々に繁華街に出掛けた。特に欲しい物や遊びたい場所がある訳では無かったが、休日に教師という役職を脱ぎ捨てて普通の人間に戻るのが最大の目的だった。
 行きの電車の中で、アイカは仲間や友人と一緒に楽しい時間を過ごしている学生たちの姿を目にした。つい数年前まではああやって楽しい時間を過ごす側にいたはずなのに、今では彼らの行いが正しいか確認し問題があれば中止する立場に居る。自分で後者の立場になる事を望んだとはいえ、今思えば少し心苦しかった。
 電車を降りて繁華街を歩くと、アイカは奇妙な感覚に襲われた。この街は自分が中学生の頃から何度も着た経験のある街だが、その頃とはまた違った視点で街を見ている気がする。生徒と呼ばれていた頃には店頭に並べられた様々な商品や広告の文字が様々な刺激を与えてくれたが、教員という立場になった今ではそれらの視覚的情報の裏側にある、人間の浅ましく醜い欲望が透けて見える。自分が教養を身に付け読解力を高めた証拠だったが、今はそれがアイカには苦痛だった。
 アイカは懐かしさと違和感をそれぞれ胸に抱きながら繁華街を進んだ。中学生時代に良く友人達と一緒に行ったアミューズメント施設に行ったが、ゲーム機器が新しくなってもお金を払って遊びたいと思える物は無かった。もう昔の自分には戻れないのだと失意のままアミューズメント施設を後にすると、目の前の通りに、周囲とは異なる自信に満ちたオーラを放っている男が居る事に気付いた。何者だろうかと思ってその男に注目すると、それは中学生時代の男友達の一人だった中本ヒロヤだった。
「中本君?」
 アイカは思わず口に漏らした。するとアイカの視線に気づいたヒロヤは彼女の視線に気づき、目を合わせたあと少し考え込むような表情をした後、アイカの名前を呼んだ。
「羽鳥アイカ?」
「そう。同じ中学で一緒だった」
 アイカはヒロヤが自分の名前を呼んでくれた事に嬉しさを感じた。そして懐かしい顔に出会えた事、自分の名前を呼んでくれる人間が居ると思うと、それまでの不安が少し和らいだ。
「懐かしいな。ここで何をしているの」
「仕事が休みだから、気分転換にこの街に来たの。私、中学校の先生になったの」
 アイカは現在の自分を、声を少し弾ませながら答えた。
「俺は会社員。平凡な仕事さ」
 ヒロヤは恐縮気味に答えた。だがその仕草はアイカには男としての魅力を増したように見えた。
 アイカとヒロヤは少し立ち話をした後、立ち話で語り合うのも無粋だからという理由で、繁華街から大通りを隔てた飲み屋街に向かった。昼間から開いている立ち飲み居酒屋に入り、アイカはレモンサワーを、ヒロヤは生ビールを頼む。二人がまだ中学生だった頃はハンバーガーチェーンが関の山だったが、立ち飲み居酒屋で酒を頼むという行為が時間の流れを強く意識させた。
「このお店はよく来るの?」
 アイカはレモンサワーを一口飲んだあと、ヒロヤに質問する。
「就職を機会にこの近所に引っ越してね。この店は最寄りの店の一つなんだ」
 アイカは小さく頷いた。アルコールと旧友に会えたという事実が、アイカの胸に溜っていた不安を完全に紛らわしてくれていた。
「仕事の方はどう?」
 アイカは気さくに話かけた。
「一応順調かな。ここ最近は能率が上がっていい感じだよ」
 ヒロヤは朗らかに答えた。仕事が順調で周囲からの評価も高く自己肯定感も高いのだろうか。一人の男として、与えられた責務をしっかりこなすヒロヤの姿を見て、アイカは自分が彼の同級生であることが少し恥ずかしくなった。
「羽鳥はどうなの。学校の生徒達とは上手く行っているの?」
「私は学校で一番若い先生だから、学校の生徒達からよく声は掛けられるわ。でもね」
 アイカは言葉に詰まった。ようやく晴れた自分の中の黒い靄がまた心の表面を隠すのが分かった。
「生徒達と一緒に居ると、自分が中学生に戻った気がして上手く接する事が出来ないんだよね。私の担当しているクラスに、一人周囲と馴染めない生徒がいるんだけれど。その子の事で大変でさ」
 アイカは神妙な顔つきでヒロヤにそう語った。どこまでも付いてくる、自分の中に掛かる黒い靄から抜け出したいという気持ちが、教師の視点と一人の人間の視点を曖昧にしていた。
「中本はいいよね。自分の仕事を立派にこなして、周囲からも評価されて自分にも自信が付いたみたいだし。羨ましいよ」
 アイカは再び言葉に詰まった。アルコールのせいだろうか、それとも教師という仮面を脱ぐことが出来る場所に来て、懐かしい人間に会えたからだろうか、胸の中に掛かっていた靄が一つになって、感情の塊に変化してアイカからあふれ出る。
「ごめん。昼間から悲しくなって」
 アイカは言葉を湿らせながらヒロヤに詫びた。
「無理しなくていい。辛くても表に出せなかったんだろう」
 声を殺して涙を流すアイカの肩を持ちながら、ヒロヤは声を掛けた。
 結局立ち飲み居酒屋での昼飲みは、注文した酒を半分残してお開きになった。ヒロヤは涙を流すアイカを人目に付かない裏通りまで連れて行った。
「ごめんね。折角の休日なのに湿っぽい雰囲気にして。私、お金払うから何処かで飲みなおそう」
「無理はしなくていいよ。昼間から酒なんて学校の先生のする事じゃない」
 ヒロヤはアイカを労わった。仕事内容は異なるが、自分より精神的に余裕があり冷静な言葉を自分にかけてくれるヒロヤをアイカはより羨ましく思った。
「俺で良ければ、話を聞いてあげるよ」
「ありがとう。学校の先生は誰かを支える側なのに、自分の事を支えてくれる人間は少ないから」
 アイカは涙をぬぐいながら答えて、こう続けた。
「中本君の家って、近いの?そこで話そうよ」



 そのままアイカはヒロヤの住むマンションの一室まで徒歩で向かった。ヒロヤの住むマンションは八階建ての比較的新しいすっきりした建物で、ヒロヤが住む一室は五階にあった。アイカはヒロヤの部屋に上がり、そこで彼が淹れてくれたネルドリップのコーヒーを飲みながら自分の悩みを打ち明けた。周囲に余計な情報や人間が入ってこない二人だけの空間に居ると、ヒロヤはより強く自立した男に見えた。アイカはそのまま感情に任せて服を脱ぎヒロヤと肌を重ね、言葉では言い表せない激情を、そして強い男の存在を自分に取り込もうと必死に腰を動かした。
 久々に男と肌を重ねて満たされたアイカはヒロヤの胸の上で眠りから目が覚めた。部屋に掲げられた時計を見ると、午後二時五十二分。ヒロヤの部屋に来たのが昼の十二時前だったから、想像していたほど時間は経っていないようだった。
「起きた?」
 アイカの頭の上でヒロヤが呟く。自分が眠っている間、彼は起きていたのだろうか。
「ごめん、寝てた?」
 アイカは小さく答えた。強い男に生で触れたいという欲望が強すぎて、ヒロヤの事を気にかける余裕が無かったのだ。自分の一方的な気持ちだけが先走ったセックスの中で、それなりに大きくなった自分の乳房は彼を少しなりとも喜ばせただろうかとアイカは思った。
「ああ、別に気にしなくていいよ」
 ヒロヤは優しく答えた。同じ年に生まれて同じ学校に通った仲なのに、ヒロヤの方が余裕を持っていて気遣いがある。その自分とは異なる明確な違いがアイカには羨ましかった。
「ねえ、質問していい?」
「なんだい?」
「あなたのその優しさと、その源になっている自信と余裕は何処から来るものなの?」
 何気なく訊ねたアイカの質問に、ヒロヤはこう答える。
「それは『しあわせのつぶ』のおかげかな」
「『しあわせのつぶ』?なに、それは?」
「自分に自信と意欲をもたらしてくれるものだよ。すごくいい物で、妖しい薬とか変な副作用はない」
「自己鍛練法とか、意識を変革してくれる本みたいなもの?」
 アイカが質問すると、ヒロヤは少し強引に彼女の身体を引き寄せて自分の上に乗せた。そしてアイカの乳房が彼の胸の上でつぶれるほど抱きしめてこう囁いた。
「君にも分けてあげるよ。良い物だよ」
 ヒロヤはアイカの唇を奪うと、彼女の唇をこじ開けて身体の中から『しあわせのつぶ』をアイカに送り込んだ。アイカは一瞬暴れかけたが、『しあわせのつぶ』が身体の中に入り込んで心地よい熱を放ちながら自分に取り込まれると、違和感も消えていった。そして今まで自分の中に立ち込めていた黒い靄が晴れて、代わって照り付けるような日差しにも似た自信と高揚感が、アイカの中で強くなってゆく。
「これで大丈夫だろう?」
 自信に満ちた声でヒロヤが囁く。
「ええ、ありがとう。もう大丈夫」
 アイカは自信と余裕に満ちた声で答えた。
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