第1話 プロローグ 会社員 中本ヒロヤ

文字数 2,341文字

 中本ヒロヤは、大学時代から付き合っていた彼女のユカリと先週別れた。
 別れた理由は、ヒロヤにもよく判らない。分かっている事と言えば、同じゼミに所属するユカリと同じ課題を使うので、色々と交流を重ねるうちに学友という関係性の中から次第に親密になって行き。それが肌を重ねるような関係になっていっただけだ。別れてもその後の人生が狂ってしまうような痛みは無かった。
 だがユカリと別れた後、ヒロヤは大きな喪失感を抱くようになった。恋人が居ないという事は、言ってしまえば自分の気持ち委ねられる他人が居ないという事だ。歓楽街のお店で働く女たちは、商品として提供されている不幸な立場に居る人々だから、恩恵にあずかる気分にはなれない。仕事仲間や友人という記号的な言葉で表現できる関係以外の人間と付き合う事が、如何に大切な間柄なのかを、ヒロキは社会人一年目にして実感していた。
 そんな喪失感を抱えて街を歩いていた十月のある日、ヒロヤは繁華街の抜け道になっている路地で、『しあわせのつぶ』書かれた看板を掲げている露店を見つけた。店番はアルバイトらしき若い女で、ヒロヤのような喪失感を抱えた若い男を引き付ける美しさを持っていた。
 ヒロヤは女の美しさと『しあわせのつぶ』という言葉に惹かれて、出店の前までやって来た。女が座る出店のテーブルには、一粒の大豆のような物が小瓶に入っていた。
「これは人を幸せにしてくれる『しあわせのつぶ』です。よろしければ一ついかがですか」
 店番の女は澄んだ声でヒロヤに小瓶の中身を勧めた。異様な物だという警戒心は強くあったが、それと同時に得体の知れない物を手に入れて、普段体験できない何かを感じてみたいという邪な感情もあった。
「これは、何なのですか?」
「あなたとその周りにいる人間を幸せにしてくれる『しあわせのつぶ』です。ここにある物は無料です」
「どうやって使うのですか?」
「一粒飲むだけです。薬ではありませんからどうぞ」
 女はなおも澄んだ声でヒロヤの質問に答え、粒の入った小瓶をヒロヤの前に出した。ヒロヤは小瓶を手に取り、乳白色の色をした『しあわせのつぶ』を凝視した。薄皮のような物に包まれている粒には、不自然につなぎ合わせたような跡が無く、人工的に作られた感じはしなかった。
「自分が今幸せではないと思っているのなら、どうぞ。ここで飲んでも大丈夫です」
 女に勧められるまま、ヒロヤは小瓶の蓋を開けて中の粒を手に取った。感触としては死んだカタツムリの貝殻のような、軽くて脆い感触がある。思い切ってそれを飲み込むと、殻は簡単に彼の中で砕けて、生暖かいドロドロしたものが体内に入り込み、心地よい熱を放ちながらヒロヤの中に消えていった。
「これであなたは、失ったものを満たすことが出来ますよ。それだけではありません。その幸せを他の人に分ける事だって出来ます」
 温かな心地良さを感じているヒロヤに向かって、女は微笑みながら言った。


 次の日からヒロヤは人が変わったように積極的に仕事をこなした。身体の中から湧き出る心地良い熱が、ヒロヤの中を満たしていた。頭の回転も身体の高揚感もそれまでとは比べ物にならないくらいになり、人よりも多くの仕事をこなして会社に多大な利益をもたらすようになった。
 それに比例するようにヒロヤは男性としての美しさを増していった。同じ職場の女子社員たちも、ヒロヤの持つ美しさと中に秘めた熱に興味を持ったのか、以前とは明らかに違う眼差しを向けるようになり、彼女たちからヒロヤを飲み会に誘う事も多くなった。ヒロヤも自分が男性としての魅力を増している事を自覚していたので、その誘いを断ることは無かった。
 その誘いを受けて飲み会に行くと、ヒロヤと女子社員たちは酒の力を借りて卑猥な会話に行く事が時々あった。普段の宴席なら問題になるような内容であっても、ヒロヤを前にした女性社員たちとっては楽しく自分の欲望をさらけ出せる貴重な場所でもあった。そして十分に酔いが回ってお開きになると、ヒロヤは小川と清水という二人の女子社員を連れて駅前の安ホテルに入り込んだ。
 三人で服を脱ぎ、肌を重ねてそれぞれの肉欲を貪っていると、清水がヒロヤにある質問をした。
「中本君はどうして最近魅力的になったの?」
 酒と快楽で蕩けた小川の声に、ヒロヤは落ち着いた言葉で答える。
「前に飲んだ『しあわせのつぶ』のおかげかな。あれのお陰で自分に自信が付いたし、すごく活動的な人間になったんだ」
「どんな物なの?」
 今度は小川がベッドの上で質問する。
「植物の種みたいなものだよ。持ち合わせているから分けてあげるよ」
 ヒロヤはそう答えて、仰向けになっている小川に近づき口づけと共に自分の中にある『しあわせのつぶ』を植え付けた。小川は一瞬暴れかけたが、すぐにヒロヤの中から出て来た『しあわせのつぶ』を飲み込んだ。そして肉体関係以上の関係を結べた事に満足そうな笑みを浮かべて、ありがとうの返事を返すように口づけを返した。
 その光景を見ていた清水はそれまでの快楽と熱くなった身体の温度が一気に引いて行く感覚を覚えて、恐ろしさでその場で動けなくなってしまった。
「清水も来なよ。幸せになれるよ」
 ヒロヤの言葉を耳にした清水は、服も着ないでその場から逃げ出そうとしたが、それよりも先に伸びた小川の舌に両足を絡み取られ、遅れて伸びて来たヒロヤの舌に首と口を塞がれ、そのままずるずると二人の元に引き寄せられてしまった。体験した事の無い恐怖に清水は悲鳴を上げる事すら出来ず、得体の知れない快楽の虜になってしまった二人の顔を見た。
「君も仲間になろうよ」
 ヒロヤは微笑みながら必死にもがく清水の口を開けて、彼女に『しあわせのつぶ』を植え付けた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み