第3話 中学二年生 江本ジュンヤ

文字数 6,208文字

 枕元でスマートフォンに予約したアラームが鳴って、江本ジュンヤは目を覚ました。
 スマートフォンを手に取り、アラームを消す。スマートフォンの画面に表示されている時刻は、午前六時四十分。決まった時間に起きるよう設定しているから不満はないのだが、ゴシック体のフォントで表示される「おはようございます」という言葉が何時も白々しく思える。
 ベッドから這い出て、まだ冷めきってない頭と鈍くなっている瞼を開いて窓の外を見る。青白い朝の光が差し込んで、ジュンヤに朝の始まりを報せていた。
 トーストだけの朝食を済ませて、制服に着替える。平和な日々を送る中学生が居る家庭なら、朝の会話や時間も楽しく物語に相応しいかもしれないが、平和とは言い難い学校生活を送るジュンヤにとっては気が重い時間だった。意気揚々と学校に向かっても、学校で何か問題があれば結局嫌な一日になってしまうし、気落ちした状態で登校しても良いことがあればそれなりに華やかになる。普通の中学生であれば色々な出来事を受け入れる事が出来る余裕を持っているのだろうが、他の生徒とトラブルをよく起こすジュンヤにそんな余裕はなかった。
 行って来ますという言葉を濁すようにして呟き、ジュンヤは学校に向かった。拒否しようと思えば学校に行く事を拒否出来たが、ジュンヤは登校拒否という手段に出れば自分が問題解決の能力を持っていない人間になってしまう気がしてならなかった。制服と言う個人を殺す服を着て、特定の価値観を植え付けられる行為を繰り返す日々だったが、逃げ出すのは嫌だった。
 それに学校に行けば、仄かに想いを寄せる三村アユミにも会える。彼女とは小学校からの幼馴染で、中学校の同級生の中では一番の顔なじみだった。進学当初は大した思いを持ってはいなかったが、時間と共に学校での生活がシビアになってくると、付き合いが長いからかジュンヤに対し声を掛けてくれるようになってくれていた。ジュンヤにとってはそれが嬉しく、信頼という物を実感できる存在であり、また心の支えでもあった。
 校門を潜り教室に入ると、先に来た生徒達が談笑していた。ジュンヤには朝の登校時に言葉を交わす生徒などいなかったから、黙って席に着いた。座って五分ほど経つと、三村アユミがクラスに入って来た。ジュンヤは声を掛けようか悩んだが、すぐに始業を始めるチャイムが天井から流れて、声を掛けたくても出来なくなってしまった。
 クラスの生徒達が神妙な面持ちでそれぞれに着くと、担任教諭の羽鳥アイカがクラスに入って来た。彼女は大学を出て二年目の新人教師で、ジュンヤの通う学校で最も若い教員だったが、先月の終わり辺りから女としての魅力が増し、言葉遣いや立ち振る舞いに明確な自信が透けて見えるようになった。それまで姉のような存在として捉えていた他人が、急に色気を増した年上の女性に変化した。というのがジュンヤを含むすべての生徒達の認識だった。
 半ば宗教的な行為と化した担任への挨拶が行われると、アイカは「出席を取ります」と漏らした。何気ない一言だったが、女としての魅力が増したように感じられる今となっては、耳に甘い感覚をもたらす言葉の様に思えた。アイカの事を特別に意識している訳ではないが、ジュンヤにとっては学校で体験できる良い事の一つになりつつあった。
 出席が終ると国語の授業になった。担当教諭は五十過ぎの男性で、内容は万葉集の概略についてだった。次の時間は理科を経て社会。三、四時間目は美術で静物画の制作の授業だった。
 美術の授業に必要な物をロッカーから取り出し、美術室に向かう。美術室の席割りは教室とは異なり、ジュンヤからアユミの後ろ姿を見る事は出来るのだが、アユミからジュンヤの姿を見る事は出来なかった。美術の授業中、ジュンヤはアユミの後ろ姿を時折視界に入れながら、「大丈夫。俺には信頼を寄せられる人が居る」と自分に言い聞かせるのが毎週の行いになっていた。
 気分を落ち着かせて作品に向かおうとすると、自分が描く作品の向こう側から、女子生徒の声が聞こえる。教室では別の班に居る木村ミサキだろう。ジュンヤは最初の言葉は無視したが、二つ目の言葉、三つ目の言葉と続くうちに次第に集中力が揺らいできた。そして振り子時計の振り子の音が次第に大きくなるように、前席の会話はジュンヤにとって耳障りで拒否したくなる騒音へと変化していった。
「おい」
 耐えかねたジュンヤは口を開いた。
「今美術の時間だろ。べらべら話すんじゃねえよ」
 何時も見下したような態度をとってくるミサキに対して、ジュンヤはあからさまな口調で続けた。同じクラスで同じように授業を受けている対等な立場だから、配慮なんて必要ないというのが理屈だった。
「なによ」
 ミサキもジュンヤに対してあからさまな態度を取った。陰キャのくせに偉そうな口をきくな。という侮蔑の態度をジュンヤはすぐに感じ取った。
「真面目にやってる人間の邪魔をするなよ。何様のつもりだ」
「あんただって、あたしにケチつける筋合いはないでしょ。別にあんたに関係のある内容を話している訳じゃないんだから」
 ミサキはそう言い捨てて、隣の席の女子生徒との会話に入ろうとした。それと同時にジュンヤは席から乱暴に立ち上がって、前の席に座るミサキの元に踏み込む。突然の出来事にミサキは驚き、怯えた目でジュンヤを見上げた。
「見下していたのに。今更怯えても意味ないんだよ」
 ジュンヤは自分が思っている事を素直に口にした。今のジュンヤにミサキがその言葉を理解しているかどうかは重要ではなかった。
「何よ。急に」
 ミサキは平静さを装って答えたが、その声は戸惑いから怯えに変化する途中の声だった。ジュンヤは美術室中の注目が集まっているのも気にせずに、さらにミサキに歩み寄る。怒りではなく「目の前の人間を倒さなければならない」という半ば習慣化した動機でミサキに迫って、次に何をしたらいいか考えて無言になった。
「何も出来ないなら、邪魔だから消えてよ」
 語尾を濁すようにしてミサキが呟くと、ジュンヤはほぼ反射的にミサキの胸倉をつかんだ。
「そうだよな。俺が居なくなってもお前は何も困らないよな。俺も同じだよ」
 ジュンヤはそう口にした後、胸倉を掴んでいた手を離す。ミサキが何もなかったと思って油断すると、ジュンヤは胸倉をつかんでいた方の手でミサキの顔を殴った。ミサキの無垢な肌の感触が拳骨に心地よく伝わったが、ジュンヤはその感触とミサキを愛おしいと思う事は出来なかった。
「お前何やっているんだよ!」
 通路を挟んで座っていた男子生徒が叫んだが、ジュンヤは気にしなかった。そして拳を振り下ろした後、周囲の生徒達がジュンヤを取り囲んで彼をミサキから引き離した。殴られたミサキはそれまでの勝ち組としての威厳も、人生で最も楽しい時期を過ごしているという自覚も失って、ただ驚きのあまりむせび泣くしかなかった。
 顔を両手で覆い泣いているミサキを、侮蔑とも憐れみとも言えない気持ちでジュンヤは見つめた。他の生徒達と怒りと罵声が彼を包んでいたが、心に響く言葉は何一つなかった。 
ジュンヤはそのまま視線をアユミの方に移した。彼の視線の先には、胸をえぐられたように呆然としているアユミの姿があった。ジュンヤはアユミが何を考えて自分にどんな印象を持っているのか知りたくなったが、それは許されない環境にあった。


 その後すぐにジュンヤは授業を外された。彼とミサキを一緒にしたままでは授業など行えないという美術教諭の判断によるものだった。ジュンヤは一人教室に返され、自分の席に座させられた。恐らく頭を冷やせという意味なのだが、ジュンヤにはあまり意味のない事だった。さっきミサキを殴ったのは単に「貴様は自分勝手に振る舞う身分の人間でもないし、自分を見下す立場にある人間でもない」という事を理解させるのが目的だったから、迸るような怒りも憎悪も、相手を殺しかねない狂気も持ち合わせては居なかった。
 三時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、その後にリノリウムの廊下を歩く足音が聞こえて来た。暇を持て余し始めたジュンヤがその音に意識を向けると、担任のアイカが扉を開いて教室に入って来た。
「またやらかしたの」
 アイカは少し呆れたような声でジュンヤに行ったが、ジュンヤはその声が以前とは異なる感情を含んでいる事をすぐに見抜いた。トラブルに巻き込まれた嘆きや怒りは無く、むしろ何かの好機と捉えるような奇妙さがあった。
「すいません」
「同じセリフを言い続ける事は、客寄せのスピーカーにも出来るわよ」
 アイカはそこで言葉を止めた。そしてジュンヤの前の席に座り込み、彼の目を探るように顔を近づける。誘惑にも似た行動をとられたジュンヤは驚き、それまでの態度を委縮させるようにして表情をこわばらせた。もしかしたら今回は先生の超えてはいけない一線を超えさせてしまったかもしれない。という不安をジュンヤは抱いた。
「今の環境を、良い物だと思えないんでしょ」
 首筋に舌を這わすような口調でアイカは続けた。そしてジュンヤに息遣いが伝わるほど近づき、蕩けたような眼差しで視線を合わせて来た。ジュンヤにはアユミという仄かな思いを抱く人間が居たが、目の前に現れた色気を放つ一人の女に意識を集中させずにはいられず、戸惑いと驚きに思考を乱されていると、アイカはそっとジュンヤの唇を奪った。甘く柔らかな感触と、洋酒を使った砂糖菓子を食べた後のような感覚が、ジュンヤの中に広がる。この甘い毒を貪りたい。という一筋の邪念がジュンヤの中で芽生えると、後の事はもう考えられなくなっていた。
 何の脈絡もなく、天井に備えられたスピーカーが始業のチャイムを伝える。規則的な電子音と共にアイカはジュンヤから唇を離した。
「放課後、生徒指導室に」
 アイカはそれだけ告げると一人で教室を後にした。残されたジュンヤは唇に残った余韻を味わいながら、何もせずに席に座っていた。
 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、生徒達が美術室から戻って来た。ジュンヤは入り口に注目し、戻って来た生徒の中にアユミが居ないか探す。アユミを見つけて視線が合うと、ジュンヤの異変に気付いたアユミは声を掛けた。
「あんた、大丈夫なの?」
「ああ、気分は落ち着いたよ」
 自分でも気持ちが抜けているのが分かるくらい、ジュンヤは力なく答えた。きっと今までの悪い毒素のような物が吐き出されて放心状態なのだろう。そう思ったアユミはさらに続ける。
「この後、どうしろって言われたの?」
「羽鳥先生が、放課後に生徒指導室へ来いって」
 ジュンヤはそれだけ答えた。アユミは何かが壊れてしまっているジュンヤに向かって、こう呟いた。
「私も何か話せることがあるなら、何か聞くよ」
「ありがとう」
 ジュンヤはそれ以上、何も言わなかった。


 五、六時間目の授業が終わるとジュンヤは生徒指導室に向かった。いつもならスクールカウンセラーの人間がジュンヤから色々聞きだすのだが、今回は居なかった。
 最初に生徒指導室に入ったのはジュンヤだった。羽鳥先生はまだなのか。とジュンヤはがっかりして小さく鼻でため息を漏らすと、すぐにアイカが入って来た。
「早かったわね」
 アイカは何処か冷めたような口調で言った。ジュンヤは躊躇いと興奮の入り混じった熱情が自分の中に沸き上がり、理性的な判断力を奪ってゆくのが分かった。
「何も言わなくていい。今の環境に馴染めないのは、自信が無くて悲観的になっているからよ」
 アイカの言葉にジュンヤは言葉を返そうと思ったが、アイカは素早く彼の前に移動してジュンヤを抱きしめた。ブラウス越しの乳房の柔らかさと女の匂いが、ジュンヤの身体に伝わる。呆気に取られているとアイカはジュンヤの唇を奪い、柔らかな感触と甘い心地良さを伝えて来た。ジュンヤはその柔らかな感触に自分の魂を奪われるような気分になって、意識が遠のくような感覚を味わった。
 唇を押し付けたままアイカは着ているブラウスの胸元にジュンヤの手を添わせた。そして彼の手つきに合わせてブラウスのボタンを外し、ブラジャーをずらして自らの乳房をジュンヤに差し出した。ジュンヤは温かな乳房の温もりと柔らかさを感じながら甘い蜜に吸い付く蝶の様にアイカの唇を貪った。
 アイカはジュンヤをゆっくりと引き倒し、彼が自分の肉体を貪れるように仰向けになった。そして彼の制服のズボンに手を掛けた。男になったばかりのジュンヤの性器が露わになると、今度は自分のズボンに手を掛けて自分の性器をさらけ出す。アイカは自分の乳房を貪るジュンヤの性器を掴み、自分の性器へと導いた。アイカの中に導かれた瞬間、ジュンヤは何も考えられない人間になっていた。
 ジュンヤは貪っていた乳房から口を離し、アイカの中にある温もりに深く入り込もうとしきりに腰を動かした。アイカは彼が自分から逃げないように彼の上半身を抱きしめた。やがてジュンヤがアイカの奥にたどり着き、乱れた息を止めて、彼女の中で迸りを出して果てる。アイカはよくやったわね。という気持ちを込めてジュンヤに口づけし、自らもジュンヤの中に『しあわせのつぶ』を植え付けた。全身が紅潮して火照っていたジュンヤはそれをすんなりと受け入れた。
「えらいわ。それでいいのよ」
 アイカはジュンヤの後頭部をぽんぽんと優しく叩き、自分を受け入れた事を褒めた。ジュンヤは息を荒くしていたが、アイカの豊かな乳房をもっと貪りたいのか、身体をくねらせて、口元を動かし、薄紅色の乳輪と乳頭に吸い付いた。
「先生、江本!」
 生徒指導室の入り口で、女子生徒の悲鳴にも似た叫び声が響く。アイカが入り口の方を向くと、そこにはジュンヤの狂気を目にした時よりも、恐ろしいものを見て驚くアユミの姿があった。
 異変に気付いたジュンヤはアイカの乳房から離れて、入り口に立つアユミを見た。そこに立つアユミの表情は彼の知っているアユミの表情ではなかったし、また仄かな思いを寄せる人間でもなかった。
「あら、三村さん」
 他人事の様にアイカはアユミの名字を口にして、上に乗っていたジュンヤをどけて起き上がった。
「嫌な事ばかりで、不安ばっかり抱えている江本君に自信をつけさせてあげたの。あなたも今の自分に満足していないなら、『しあわせのつぶ』を分けてあげるわ。よかったら来なさいよ」
 アイカはアユミをそう誘ったが、アユミは驚愕したまま答えなかった。
「怯えなくても良いのよ。ほら」
 アイカは立ち上がり、ブラウスを破って背中から植物の根のような触手を数本出した。アユミは逃げ出そうとしたが、それよりも先にアイカの触手がアユミを掴んだ。アイカに引き寄せられながらアユミは「助けて!」と大声で叫んだ。その言葉がアイカの琴線に触れた。
「あなたは幸せになるのが嫌なのね」
 アイカはそう冷たく漏らし、アユミの手足を触手で引きちぎり残った頭を触手で握りつぶした。小粒のミカンを潰すようにしてアユミの身体から鮮血が飛び散り、無残になった肉体が床に鈍い音を立てて落ちる。ジュンヤはかつての想い人が無残な姿で死んでゆくのを呆然と見ていたが、外側からもたらされた快楽と自分の中に広がる心地よい熱に酔いしれていたので、悲しみや驚きの感情は無かった。


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