第4話

文字数 4,394文字

 拓也は香織が脳梗塞で倒れたとき、遥とはもう逢わないようにしようと心に決めた。遥も快く同意した。
 拓也は、毎日仕事の帰りに病室に回り、献身的に香織の看病に専念した。
 香織の入院生活で、最初に突きつけられた課題は、パジャマをどうするかだった。
 大半は、病院側が洗濯までしてくれるレンタルパジャマを利用するという。最初、拓也も三種類のサンプルを試してみた。どれも、健全なころの香織が喜ぶようなものではなかった。それに、素材がてろてろとして温もりがない。もちろん、香織にはどうしたいという意思表示はないが、それだけになぜか、可哀そうだった。拓也は、着替えの準備から洗濯まで、すべて自分でやることにした。
 最初は、ほとんど植物人間に近い状態だった。ひと月、ふた月と経つうちに、驚くほどの回復を見せた。だが、半年ほど経つと、大きな変化は見られなくなった。身体の左側全体に重度の麻痺が残った。
 いつも、幾分動くようになった右手で、胸の上で握ったまま動かなくなった左腕をさすっている。涙なしには見ることができない、痛ましい姿だった。
 香織は、拓也の話すことはほぼ理解できるようだった。知り合ったころの思い出などを語りかけると、表情に輝きが現れ、目に涙を浮かべた。バスケを一緒に楽しんだことを話した時は、不自由な体全体で喜びを表し、拓也の目にも涙が溢れた。
 だが、話す機能は回復しなかった。気分がいい時は筆談もできたが、精神的に相当疲れるらしく、あまり勧めなかった。
 時おり何かを話そうとするのだが、聞こえるのは、呻くように漏らす、あ、い、う、え、お、の母音だけだ。拓也だけが、何とか紡ぎ出し、意味を推測することができた。
 かろうじて筆談で伝えられた香織の要望により、香織が最後に描いた絵を個室の壁に飾ることになった。それはマンションのホールに掛けられていたもので、灰色の風景の中に、着物をまとった女性が描かれている。看護師たちは一様に褒めていたが、拓也には、絵に隠された香織の哀しみが分かった。
 香織と同世代に見える担当の看護師の話では、拓也が出張で見舞うことができなかった日は、香織は声を上げて泣いているという。親類や知人に会っても何の反応もない香織は、記憶の機能が失われていく過程で、辛うじて拓也の記憶だけを脳裏に刻み込んだのかもしれない。
 拓也は、課長昇進に伴う多忙な仕事と、自ら家事をこなさなければならない毎日に、重い疲労が蓄積されていった。
 朝の洗面台、鏡に映る自分。日に日に痩せていき、顔からも光が失せた。
 回復を望むことができない香織の見舞い。唯一の楽しみとなった食事も血の通わない外食となり、心の安らぎを覚える時がなくなっていった。

 一年が経ち、遥かのことは過去の記憶になろうとしている時だった。
 ある日、コピーコーナーで、見るに見かねてと言う表情で、遥が声をかけてきた。拓也のやつれていく姿を遠くで見ていたのかもしれない。
「ご一緒に夕食だけでも、たいしたものは作れませんが……」
 拓也は一瞬、拒否反応を示したが、温かい手料理の想いに、いっときの安らぎを求めた。
 これまでも一度だけ、遥のマンションに行ったことがある。だが別れて一年も経つと、記憶にあるのは窓辺に飾られた小さな花や、意外な趣味だと驚いたアンパンマンのぬいぐるみなど、ほっこりとする思い出だけだ。
 その日遥は、飾り気のない顔と、おとなしい色の部屋着で迎えてくれた。シューズボックスの上のアンパンマンも、あの日と同じように、オレンジ色の鼻で歓迎している。
 テーブルには意外と、和食が並んでいた。東北地方の名物だという煮物の小鉢に、拓也はほのぼのとした感動を覚えた。
 しばらくぶりの手料理が並ぶ食卓を、一時は気持ちを通わせた人と一緒に囲むという幸せに浸った。
 和食のマナーがそうさせるのか、遥はいつになく口数が少なかった。
 遥は、遠慮がちに妻の容態をたずねてきた。だが、お互いが感じ合う罪の意識に支配されるのか、会話が弾むことはなかった。
「コーヒー、飲んでいくでしょ」
 目を合わせないまま、遥がキッチンに立った。
 間もなく、サイホンから立ち昇るコーヒーの心地よい香りが漂ってきた。拓也は無意識に、遥の後姿に目をやった。ハッとして目を逸らす。細い肩に、これまで見たことのない愁いが滲んでいた。
 二人は、静かにコーヒーを飲んだ。
 会話のない男女が行着く先は、拒絶かまたはその逆か、二つに一つなのかもしれない。
 もし、あのころのような化粧で迎えてくれたなら――。
 もし、キラキラと輝く衣装で迎えてくれたなら――。
 もし、明るいイタリアンで迎えてくれたなら――。
 しかしそれらは、病床の妻への、ささやかな遥の気遣いだったのかもしれない。もしそうだとしたら、あまりにも惨い運命の悪戯だ。やはり、来るべきではなかったのだ。
 再び会うようになった二人は、お互いに悪魔の所業と知りつつも、そこから逃れることができなかった。

 ある日拓也は、カウンセリング室に案内された。担当医から香織の容態と、心がける点についての説明があった。
「現在奥様は、体の半分の機能を失っている状態です。回復には、周りの人の協力が大切です。それは、物理的なものではなく、むしろ精神的なもの。助かった神経や感覚は普通の人の数倍、いやそれ以上に敏感になっております」
「と、言いますと?」
「例えば、音、足音などは御主人のものを聞き分けているはずです。それと臭覚、目をつぶっていても、担当看護師を見分けることは珍しくありません。長引きますと、そういった五感を超える第六感、そう、心の目が働くようになります。どこかにまやかしがあると、私たち医療従事者もすぐ見破られます」
 穏やかな医者の目は、拓也の心を見透かしているようでドキリとした。
 最後に医者は、「一緒に頑張りましょう」と言って、席を立った。
 医者の言う通りだった。香織は自分の心の動きを読み取っているに違いない。献身的な介護とは裏腹に、香織の体は徐々に弱っていく。それは、自分の心が香織から離れてきたことの映し鏡のようなもの。
 最近は元気がなく、食事も半分ぐらい残すのだと担当の看護師が心配していた。さらに気になることを続けた。香織が月に一度、深夜に命にかかわるような発作に襲われるという。何かに苦しめられるように呼吸が乱れ、ナースセンターに緊張が走るらしい。
 この現象は決まって月の半ばぐらいに起きるので、介護担当者の虐待が疑われた。勤務ローテーションにより調査が行われたが、担当者はみな優良なベテランばかりで、原因究明は宙に浮いているという。
 この頃から香織は常時酸素チューブを取り付けるようになり、大部屋に移る計画は延期された。
「香織、聞こえるかい、食事をとらないとだめだよ。体が弱るからね……」 
 拓也は毎日決まって、同じことを香織に語りかけた。
 以前は、拓也が声をかけると、顔を動かし何らかの反応を示していたが、最近はそのまま眠り続けることが多くなった。元々小顔だが、いっそう細くなったようで痛々しい。胸の上で固まった冷たい左手にそっと触れてみる。拓也は驚くほど細くなった香織の腕を見て、胸が締め付けられる思いに駆られた。大粒の涙が止めどもなく流れ落ちる。香織への憐憫の想いに交錯する、己の不徳の慙愧に、おえつを漏らした。
 そのころから、遥と逢った時の拓也の意識にも異変が現われ始めた。それはお盆が近い夏の日のことだった。
「ああ、気持ちよかった、拓也もシャワー浴びてきたら」
 ホテルの部屋、先にシャワーを使った遥が、化粧台の前で生まれつきだという美しい栗色の髪をブローしながら拓也に声をかけた。
「ああ、そうしよう」
 拓也は、両肩にそっと手を置く。鏡の中で微笑む遥と、軽く視線を交差させた。
 拓也は、ネクタイまで貫通するような一日の汗を脱ぎ捨て、シャワー室に向かった。首筋から流す熱いシャワーは気持ちがいい。延々と続く紛糾する会議、引っ切りなしに着信する英文メール、食い下がるクライアントの苦情、全身にこびりついた疲れの残滓が、熱い湯に溶け込み、足元を流れていった。
 拓也もバスローブに身を包み、部屋に戻った。遥は椅子にかけたまま、白いバスローブの背を見せてテレビを見ている。
 拓也はふと、壁に掲げられた浮世絵風美人画に目を留めた。ハッとして目を戻す。
 この女は誰なんだ? 白いバスローブの両肩に流れる髪は、しっとりとした艶のある黒髪だ。拓也は背筋に何かが這い上がるのを覚えた。女はゆっくりと首を後ろに回し始めた。横顔が拓也の視界に入る。美しい鼻梁をもつ細い顔、赤く小さな唇、それは香織だった。拓也は口を半開きにしたまま凍りついた。
「どうしたの? 拓也、そんな怖い顔をして」
 振り返った遥は、茫然と佇む拓也の顔を見て、心配そうに覗き込んだ。
「あ、いや、何でもない、貧血かな、少し疲れているみたいだ……」
 拓也は、脳裏に焼きついた香織の幻影に打ちのめされた。寒気で震える体を隠すように、よろよろとベッドにもぐり込んだ。

 それから二カ月ほどが過ぎた。
 香織は、大脳の働きが停止しつつあるように見えた。看護師の話しでも、いつも静かに目を閉じているという。雛人形のように整った顔立ちも、今はそのまま小さくなり、きらきらとした輝きは濁りのない少女のような透明感に変わっていた。ただ、決まって月の半ばあたりに起きる発作は収まらず、その度に衰弱していく状況は変わらなかった。
 香織の幻覚に怯えながらも、遥に逢いたいという気持ちが萎えることはなかった。拓也は、容赦なく襲ってくる仕事のストレスから逃げるように、背徳の逢瀬に救いを求めた。
 仄かな明かりにベッドが浮かび上がる。拓也は安らかに目を閉じている遥の横顔を見下ろしていた。滑らかなうなじに流れる髪が愛おしい。その時、遥が、わずかに口角を上げながら、ゆっくりと拓也に顔を向けた。ガラス玉のような目が、悪戯っぽくささやきかける。拓也は、全身に稲妻が走るような衝撃を覚えた。
 その目は紛れもなく香織の目だった。拓也はその視線から逃れようと、意味不明な言葉を発し続けた。
「拓也、どうしたの急に? やっぱりへんよ、何が見えるの?」
 拓也の尋常ではない様子に遥も身を起こし、両手で拓也の肩を揺すった。
「だいじょうぶだ、何でもない……」
 拓也は震える体を、交差した自分の両手で抱きながら、同じ言葉を繰り返した。
 何が起きたかを遥に話すことはどうしてもできなかった。あまりにも香織が惨めに思えたからだ。
 ホテルを出て、一人雑踏を歩いた。舗道の向こうが闇に呑まれている。拓也は、すべての限界を悟った。
これ以上遥と逢うことは止めよう。次の月に逢った時、すべてを話し別れようと、拓也は決心した。 
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