第5話

文字数 6,375文字

 月が変わり約束の第三金曜日が近づいてきた。だが、カレンダーを見た拓也は目が飛び出しそうになるほど驚いた。二週間前に遥がホテルを予約してくれたその日は、あろうことか香織の誕生日に当たっていた。
 拓也は、遥の携帯電話の番号を押した。無理を承知で確かめる。
「来週の予定、もう変えるのは難しいよね……」
「うーん、キャンセルしちゃうと今月は無理だと思う、何か不都合でも?」
 遥からは無理してまで逢わなくてもいいという雰囲気が伝わってくる。拓也は、いやたいしたことではないと言い、予定どおり逢うことを約束した。すでに遥との関係を清算しようと決めていた拓也は、できるだけ早く逢って、意思がぐらつかないうちにすべてを話そうと思ったのだ。
 拓也は苦しんだ。結婚してから十四年、その日は定時で帰り、一度も欠かしたことのない香織の誕生祝い。たった一度、海外出張とぶつかった時は、現地からお祝いの言葉を贈った。今さら残業で遅れたと言い訳するのも現実的ではない。
 別れ話とは言え、妻の誕生祝いの前に愛人と逢うという行いは、ここまで堕ちた自分でも気がとがめる。人間が人間でなくなる最低の行為だ。
 拓也の中の悪魔が囁く。
「寝たきりで無反応の香織が、自分の誕生日など正確に覚えているはずはない」
 だがそれだけに、無辜(むこ)の香織を欺くのは、彼女に残された最後の尊厳を踏みにじることになる。人間として、魂の冒涜以外の何ものでもない。もがけばもがくほど、地獄の血の池が口元に迫って来る。拓也は初めて、嵌まり込んだ己の罪の深さを知った。
 だが、いくら考えても、この窮地を逃れる妙案は浮かばなかった。
 最後の最後に、拓也は苦渋の決断をした。やはり、一日ずらしかない――。

 ついにその日がやってきた。
 拓也は、たそがれの街を約束のホテルへと向かった。
 やっと心の迷いを断ち切ることができるという安堵と共に、何も知らずに来る遥がどう反応するだろうかという、一抹の不安をかかえながら。
 だが、部屋に現れた遥を見て、拓也の心配は嘘のように払拭された。いつもはセンスのいいカジュアルな服装で来る遥が、今日はおとなしい香りとシックな装いで現われた。
 気後れを感じた拓也は、正面から目を合わせることができないまま、夕食をルームサービスで食べようかと提案した。
 二人は、お互いに見つめ合うことは控えながら、カットステーキと野菜がきれいに盛りつけられた料理を囲んだ。拓也が話そうとしていたことは何一つ言えないまま、時が穏やかに流れた。
 控え目なフォークとナイフの音だけが、BGMが運ぶ静かなジャズのなかに解けていく。遥は拓也の心をすべて読み取っていたのだろう。
 遥は二人分のコーヒーを淹れ、拓也には砂糖も用意した。二人はこれが最後になるのだろうと、その温もりを静かに味わった。
「これまでありがとう」
 拓也はやっとそれだけを遥に伝えた。
 ドアを開け、出て行く遥が振り返った。
「植村さんもお身体を大切に――」
 ぎこちない笑顔で言いかけた遥を、無機質なドアが静かに切り取っていった。
 遥は、最後に拓也ではなく植村さんと言った。これで本当に二人の仲は終わったのだと思った。
 拓也は送り出した後、移り香というよりも、これまでのすべてを洗い流そうとシャワーを浴びた。九時の面会時間に間に合うように、香織の病院へと急いだ。
 拓也が病院に着いたのは九時少し前だった。
「奥様、日中はとても機嫌が良かったのですが、夕食後に急変しまして、しばらく泣いていたようです。今は落ち着いておりますので、そっとしておいた方がいいかもしれませんね」
 ナースセンターの窓口で、年配の看護師が心配そうに言った。
 拓也は、一瞬もしやと思ったが、これまでもあるケースだと自分を納得させた。
 静かにドアを引く。この日はいつもなら、満面に笑みを浮かべ、バラの花の香りと一緒に香織のベッドに向かうのだが、今日はその薔薇の花がない。
 拓也は、後ろめたい気持ちを押し殺し、静かに歩を進めた。
 ベッドから、規則正しい寝息が聞こえてくる。香織は深い眠りの中にいるようだ。
 拓也は、いつものように額に口づけようと顔を近づけた。その時だった。偶然なのか、香織の呼吸が乱れた。眉間にしわが寄り、口元に全てを拒否するような歪みが現れている。まるで悪夢にうなされているように。
「どうした?」と、声をかけようとしたが、すぐに発作は収まり、柔和な寝顔に戻った。
 拓也は、子供に話しかけるように、優しく口を開いた。
「今日は遅くなってごめんね、明日は香織の誕生日だね――」
 一瞬、香織の呼吸が止まったように見えた。だが再び、深い眠りに落ちていった。
 拓也は、目を閉じたままでいる香織の様子を時おり見ながら、サイドテーブルの上を整頓した。小さなフォトフレームの中から、バスケのボールを持った拓也と、キラキラと光る香織が微笑みかけてくる。
 香織の洗濯物を紙袋に入れ、丸椅子にかけた。香織は目を閉じたままだった。拓也は少し苦しそうに見える香織の寝顔に、心の中で今日までのことを詫びた。
「明日は早めにくるからね」と言って、立ちあがった。
 壁にかかる風景画に目をやり、ドキリとした。絵の中から、着物の女性が浮かび上がってくる。目の錯覚かと、拓也は目を閉じ頭を軽く振る。静かに目を開ける。全身から血が引いていく。目の前に迫ってきたのは妻の香織だった。拓也はハッとして、ベッドを振り返る。何もなかったように、能面のような香織の顔が、薄明かりに浮かんでいる。
 拓也は、早まる鼓動を抑えながら、香織の深い寝息を確かめ、踵を返した。背後から、何か得体の知れないものが延びてくるような気配を感じながら、ドアに手をかけた。

 翌日拓也は、隔週土曜日に行われる幹部研修会に出席した。会社を定時に退社し、花屋に回る。いつもより上質な深紅の薔薇の花束を買った。香織の病院に着いたのは七時。すでに夕食は終わり、エレベーターの前には食器を回収した配膳ワゴンが並んでいる。
 拓也は、そっと病室に入った。小さな寝息が聞こえてくる。香織の顔が目に入る。一瞬、バラの花束を落としそうになった。なぜか、今日は化粧をしている。白粉に真紅の口紅が痛々しい。もしかしたら、昨晩の言葉が記憶に残っていたのかもしれない。それで誕生日を意識し、看護師にお願いしたに違いない。拓也は胸をなでおろした。
 サイドテーブルの端にリンゴが一つ置かれている。夕食のデザートにつくのは皮がむかれた一切れだ。今日は不思議なことがあると、拓也は首を傾げた。
 花瓶に水を入れ、匂い立つような薔薇の花を差した。ベッドのわきの棚に飾る。部屋に甘い香りが広がっていく。香織の寝顔も、心なしか満足そうに見える。このまま少し寝せておこう。拓也は、窓辺の小さな椅子に掛けた。講義とワークショップの疲れが、吸い込まれるような眠気に変わった。
 どのぐらい経ったのだろうか。急に体が強張り、目を覚ました。いつ起きたのか、香織もこちらを見て微笑んでいる。白い化粧の笑顔が痛々しい。でも良かった、時おり顔を動かし、満足そうに薔薇の花を眺めている。拓也は、己の罪深さを改めて思い知った。込み上げてくるものを押さえた。
 拓也は立ち上がり、ベッドへと近づいた。偽りの笑顔を張りつけ、口を開く。
「香織、誕生日おめでとう!」
 香織は体いっぱいに喜びを表し、無濁な微笑みを浮かべている。
「良かった……」拓也は神に感謝した。
 拓也はいつものように、香織の額に口づけようと顔を近づけた。香織の表情が、少し変化したように見えた。額に唇が触れようとした時だった。香織の細い右腕が、拓也の首にするすると伸びてきた。
「お、おい、今日はどうしたんだ――」
 拓也は、化粧までして今でも自分を愛する香織の仕草に、己の仮面の下にある残酷に戦慄を覚えた。
 香織は優しく拓也の顔を引き寄せる。美しい香織の目が湖面のように揺らいでいる。懐かしい香織の化粧の匂いが鼻孔をくすぐる。拓也は、もう遠い記憶となってしまった香織とのそうした行為を思い出していた。その時だった。

 左の胸に鋭い痛みが走った!

 反射的に上体を起こそうとするが、細い右腕は樫の木のように動かない。拓也は香織の額に唇を触れたまま凍りついた。香織の喘ぐような熱い息が首筋にまとわりつく。
 拓也は、今何が起こっているのか、少しずつ分かり始めた。
 拓也の心臓の真下には、香織の不自由な左手にしっかりと握られた果物ナイフが突き立てられていた。
「ああ、おお、う、あ、ああ……」
 拓也の耳に、香織が涙声で何かを囁いている。
 それは確かに、「さようなら……」と言っている。
 だが香織は、それ以上拓也を引きつけようとはしなかった。
 拓也は胸部を抉る激痛の中で、香織が耐えてきた地獄の日々を想った。
 両目から止めどなく流れる涙が、香織の髪を濡らしていった。
 拓也は香織の顔を優しく抱きしめ、上体を密着させていった。自分の意志で死を受け入れた拓也に、すでに痛みは感じなかった。香織もそれを願っているに違いない。ナイフは、ゆっくりと、確実に、心臓を貫いていった。噴出した拓也の命が純白のシーツを朱に染めていく。真紅の大輪の中に浮かび上がる真っ白な化粧は、秘められた苦悩をすべて吞み込み、この世のものとは思えない妖艶な光を放っていた。
 拓也は死の世界に吸い込まれていく中で、やっと仮面に潜む己の欲望から解き放された。これで、香織の魂に寄り添うことができる。香織もそれを望んでいるに違いない。拓也はわずかに残る意識の中で、香織の左手に握られたナイフを抜き取り、柄を拭った。
 香織が耳元に何かを囁いている。
「ああ、い、ああ、おお……」それは「ありがとう」といっているように聞こえた。
 拓也は最後の力を振り絞り、香織の酸素吸入器を外した。
 意識が遠くなってきた。香織の不自由な手を握る。その手に香織の右手が重なる。そのまま拓也は、ベッドの下へと崩れ落ちていった。床が見る見る血の海となり、拓也はその中に沈んでいった。

 ハッとして目が覚めた。恐ろしい夢だった。

 全身がじっとりと汗ばんでいる。いつかはこうなるということを、夢はまざまざと見せつけていた。香織は何もなかったように、静かな寝息を立てている。
 拓也はふらふらと立ち上がった。今日は、そっとして帰ろう。
 ドアへと向かう。香織の風景画が気になった。その下に、カレンダーが下げてあることに、初めて気づいた。よく見ると、丸印がついている。それは昨日の日付、香織の本当の誕生日だ。香織が付けることはできない。それでは誰が? 鼓動が徐々に速くなる。拓也は思いなおす。香織が看護師に頼んだのかもしれない。ということは、やはり香織は知っていたのか――。背後に暗い視線を感じる。ゆっくりと振り返る。香織は相変わらず、安らかな寝息を立てている。
 その時、何かが変だと気づく。真っ赤なバラの花が、すべて漆黒に変わっている。それは黒い怨念となって、拓也に迫ってくる。
 拓也は得体のしれない混乱を覚え、よろよろと病室を出た。ドアを閉め、壁に背を預ける。頭を整理しようとするが、混乱は収まらない。
「どうされました?」
 担当の看護師が声をかけてきた。
「ああ、ちょっとめまいが。でも大丈夫です」
「香織さん、今日は安定しておりますが、昨晩遅く大変だったそうよ。せっかくのお誕生日だったのに。忘れないようにと、私が丸印を付けておきましたから。それは楽しみにしておりました」
 拓也は、全身の血が逆流するのを覚えた。
「それで、あの化粧は――」
「ああ、あれは夕食前、筆談で化粧をしてくださいと頼まれました。疲れた顔を夫に見られたくないとも。ああ、これ、遅くなりましたが、頼まれた者が忘れていて――」
 看護師が、ケースに入った果物ナイフを差し出した。
「こ、これは?」
「今日、理事長から、患者さん全員に、実家の青森りんごが配られたんです。ご主人に皮をむいてもらい、一緒に食べたかったのでしょう」
 看護師は、そろそろ消灯の時間になりますと言い残し、去っていった。拓也は再び、目まいを覚えた。もしかしたら、あの夢は現実になっていたのかもしれない。いや、そうに違いない。あれは死化粧――。香織は、そこまで覚悟していたのだ。
 拓也は、断崖絶壁の際に立ち、逡巡した。越えなくてはならない本当の一線が、目の前にある。このまま再び部屋に戻り、二人で死んでしまったほうがいいのか……。今となっては、あの夢が現実だったほうが良かったような気がする。
 決断がつかないまま、拓也の思考は限界を超えていた。その時、チャイムが鳴り、廊下の明かりが落ちた。拓也は朦朧としたままナイフをバッグに仕舞い、病院を後にした。

 翌日、出社はしたものの、まるで仕事が手につかなかった。昼食もとらず、ただ時が過ぎていた時だった。会社に病院から電話があった。香織の様子がおかしいので、すぐに来てくださいという緊急連絡だった。ついに来るものが来た、と思った。拓也は、「自分が行くまで生きていてくれ!」と祈りながら、病院に向かった。
 香織は生きていた。だが、食事を拒否し、一切の治療も拒否しているという。目を離すと酸素吸入器を外す恐れもあり、このままでは死んでしまうという状況だった。
 誰もいなくなった部屋。香織は、いくら声をかけても反応はなかった。ただ石のように目を閉じている。だが、拓也は分かった。能面のような顔の下には般若がいるということを。無言を貫くことしかできない香織が、最後に見せた自分への刃(やいば)だった。
 拓也はすでに覚悟を決めていた。監視カメラを遮るように、カーテンを引く。
 果物ナイフを香織の左手に握らせる。香織の指が、それをゆっくりと握り締めるのが分かった。やはり、夢は本当だったのだ。香織が静かに目を開けた。拓也をじっと見つめている。湖面のような目に、さざ波が走っている。拓也の涙が、香織の髪を濡らして行く。香織の目じりからも、一筋の涙が流れている。香織の顔を抱くようにして、ゆっくりと体を重ねていった。香織の細い右腕が、拓也の首に延びてくることはなかった。切っ先が胸の肉に喰い込み始めた。拓也は、ナイフを握る香織の左手に手を添え、さらに上体を密着させていった。温かいものが左手を濡らし始めた。切っ先が、確実に心臓へと向かっていく。拓也は両手で妻を抱きしめ、声を絞り出した。
「悪かった、香織、本当に悪かった。許してくれ」その時だった。

 急に激痛が和らいだ――。

 拓也は上体を起こした。ナイフが香織の手からこぼれ落ちている。
 香織の目を見た。何かを訴えるように、両目から涙が溢れている。
「い、い、え、う、あ、あ、い」香織が確かに、「生きてください」と言っている。
 拓也は今、香織の本当の哀しみに触れたような気がした。愛おしさが突き上げてくる。枯れ木のようになった体を、優しく抱きしめる。冷たい体に、香織の心の温もりが、徐々に蘇ってくるのがわかった。
 拓也は、転んで怪我をしたと、ナースセンターに連絡した。
 切っ先は、胸部大動脈一歩手前で止まっていた。
 その後二週間、会社を休み、自分の傷の治療と香織の看病に当たった。
 香織は、徐々に食事もとるようになり、顔に血の気が差すようになった。
 カウンセリング室で担当医との面談が始まった。
「ご主人の事故の後、奇跡的に回復に向かっております。夜間も安定しております。このままいけば、大部屋に移れる日もそう遠くないでしょう」
 医者は、晴れ晴れとした顔で拓也を見ている。胸の傷については、不思議と何も尋ねなかった。有難いことだった。拓也は、深々と頭を下げた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み