第1話

文字数 4,690文字

 玄関のドアを開ける。
 リビングから、SMAPの「世界に一つだけの花」が流れてくる。結婚した当初から、妻の香織が好きだった歌だ。
 今日は会社から香織にメールを送り、めずらしく定時で退社してきた。
「あなた、よかったわね、おめでとー。今日はお祝いに、すき焼き準備してたのよ」
 エプロンで手を拭きながら、香織がホールに出てきた。
 こんな笑顔を見るのは、何年ぶりだろう。いや、自分が見ていなかっただけのことかもしれない。
 香織は、上品な淡いブルーのブラウスを着ていた。
 先月だったか、残業が続き、拓也が遅くに帰宅した時だった。
 声がしないので寝室をのぞく。仄かな照明に香織の後姿が浮かび上がった。姿見に自分を映し、一人ほくそ笑んでいるようだ。
「どお、これ、とても気に入ったのよ」
 鏡を通して覗き込んだ悪戯っぽい瞳が、拓也をドキッとさせた。
 今、目の前にあるブラウスが、あの時のものだったと気づく。もう何回も見ていたはずなのに。 
 香織は、きちっと化粧をしていた。まるでこれからイタリアンレストランに出かけるかのように。元々端正な顔立ちで薄化粧のほうが自然な美しさを見せるのだが、今日はいつもと違う色っぽさを感じさせ、それが拓也にはかえって痛ましさを覚えさせた。
「ああ、ついにやった! という感じだ。でも、まだまだ上がある。これからますます忙しくなりそうだな」
「あなた、あまり無理しないでね、身体が心配だわ――」
 このところよく身体の心配をしてくれる香織にうなずきながら靴を脱ぎ、ホールに上がる。目の前に絵画が迫ってくる。和服姿の横顔に、今日は心なしか温もりを感じる。
 香織の肩にさりげなく手をのせ、リビングへと向う。
「汗くさい――、でも、私は好きよ」
 香織が振り返り、小さな笑顔を作る。
「よせよ、もう爽やかな汗には程遠い」
「ううん、違うの。なぜか安心できるのよ――」
「安心……、な、何が安心なんだ?」
「いいの、これ以上は聞かないほうがお互いのため――」
 香織は、笑顔のまま、わずかに口角を上げた。それをあらわにすると、何もかも壊れてしまうと、香織の目が語っている。
「……」
 拓也は言葉に詰まった。香織は自分の秘密に気づいているのだろうか。まさか、そんなはずはない。もし気づかれていたとしても、汗のにおいとどうつながるのか、見当もつかない。最近は、お互いが疲れすぎている。考えすぎだと、拓也は自分を納得させた。
「さあ、今日は嫌なことは忘れて、楽しくやりましょう!」
 突然湧き出した気まずい雰囲気を打ち消すように、香織がリビングのドアを開けた。
 拓也が大学を卒業し、外資系保険会社に勤めてから二十年になる。
 今日の人事発表で課長昇進を言い渡された。念願のアジア統括マネージャーのポストも任されるという異例の抜擢人事だった。このポストについては、専務派の同期の人間も候補に上がっていたが、社長の岩倉の一声で決まるという際どい人事だった。
 拓也はネクタイを緩めた。仕事の脂汗はスポーツと違い、ねっとりとした汗臭ささがまとわりつく。夕食にはまだ少し時間がある。
「先に風呂に入ろうかな――」 
「そうね、ちょっと湯加減を見てくるわ」
 香織はバスルームに向かった。
 拓也は着替えのため、寝室に足をはこんだ。
 リビングに戻ると、香織の姿がない。マホガニー製の丸テーブルの真ん中に、卓上ガスコンロだけが置かれている。
 テーブルに座った拓也は、新聞を見ながらキッチンの向こうのバスルームのほうを窺った。SMAPの歌声に重なり、わずかに水が流れる音が聞こえてくる。
 だが、香織はなかなか戻ってこない。
「おーい、風呂入っていいかな――」
 拓也はバスルームに向かい、大きな声をかけた。だが、返事がない。相変わらず水の流れる音だけが聞こえてくる……。
 どうしたのだろう? 拓也は急に家中が空っぽになり、一人っきりになったような不安に襲われた。
 新聞をおき、立ち上がった。

「ああ、なんてことだ! 香織、香織、香織―」
 
 半開きのバスルームのドアを全開すると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
 うつ伏せになった香織の上半身がバスタブに浮いている。黒髪が放射状に水面を覆っている。身体に張りついたずぶ濡れのブラウスとベージュのパンツが痛々しい。
 開けっ放しの蛇口からお湯が溢れている。バスタブから垂れ下がる左腕を伝い、湯気を上げながら排水溝へと吸い込まれている。
 拓也はすぐに香織を抱き上げた。擦ったり叩いたりしたが蝋人形のようになった香織の顔が蘇ることはなかった。
 拓也は香織を抱きかかえ、リビングに運び込んだ。ドアのロックを外し、消防に緊急連絡を入れる。毛布で体を包み、人工呼吸と心臓マッサージを始めた。拓也の会社では、管理職全員が、毎年、都の消防職員が行う救急救命講習を受けていた。
「香織、香織、生き返ってくれ! 目を開けてくれー」
 拓也は必死に、規則的な心臓の圧迫と、口移しで肺に空気を送り込む。三分、四分、五分と、時は転がるように過ぎていった。化粧が剥げ落ちた香織の顔は土気色へと変化していく。もうだめか――、拓也はこれが最後と神に祈りながら、香織の胸の中央に重ねた両手に力を込めた。突然、香織がむせ返るように水を吐き出し、苦しそうにもがき出した。吐き出した水と涙でぐしゃぐしゃになった顔を自分のシャツで拭う。目が反転し、黒目が浮いている。まるで見えない手で首を絞められているように。今にも呼吸が止まりそうだ。拓也は夢中で香りを抱きしめ、背中をさする。
 その時、救急車のサイレン音が聞こえてきた。
「良かった、間に合った――」
 香織が危機一髪で助かった感動と安堵に、拓也は嗚咽を漏らした。
 玄関のドアが勢いよく開く音と、救急隊員の声が同時に聞こえてきた。
 拓也も同乗した救急車は、新宿区にある脳神経外科で有名な総合病院に向かった。拓也は冷たくなりつつある香織の手を握り続けた。酸素吸入器で顔が覆われ、表情は見えない。握り返す香織の手の感触だけが、わずかに生命の証を伝えていた。
 手術室にストレッチャーで運び込まれてから、二時間が経った時だった。
 細身ではあるが、精悍な顔つきの若い医者が手術室から出てきた。
「患者さんのご主人、植村さんですね?」
「あ、はい。状況は――」
「カテーテルによる緊急手術で一命は取り留めました。ただ、お気の毒ですが、脳梗塞の影響が広い範囲に及んでおります。突然の目まいで、バスタブの中に倒れ込んだのでしょう。肺に水が入った可能性があります。急性肺炎を起こす可能性がありますので、抗生物質を投与しながら様子を見てみましょう。ご主人がすぐ人口呼吸を施したことが奥様の命を救ったことは間違いありません。九死に一生を得た尊い命です。大切にして上げてください。すぐ入院の手続きをしますのでご準備お願いします」 
 医者は、誠意のある態度で拓也に告げた。
 拓也は突然の出来事に、頭からバケツで泥水を掛けられたようなショックを受けた。やっと「ありがとうございました」と医者に礼を言うのが精一杯だった。
 間もなく、顔が酸素マスクで覆われた香織が、ストレッチャーで運ばれてきた。
「香織、だいじょうぶか――」
 拓也は夢中で駆け寄った。
「大丈夫です。今は薬で眠っておりますので、今日はそっとしてあげてくださいね」
 看護師になだめられ、拓也も外来用エレベーターで四階の集中治療室へと向かった。
 集中治療室は、ナースセンターのすぐ隣にあった。垣間見えた内部は、様々な医療機械のランプが点滅し、点滴の装備が痛々しい。閉められたドアに表示された面会謝絶の赤い文字が、まるで香織の怨念のように拓也の胸に突き刺さってきた。
 入院の手続きが終わった。拓也は、北海道の香織の実家に電話を入れた。電話の向こうで絶句する母親の姿が脳裏に浮かび上がる。最後の、「よろしく、お願いします」という悲壮な声音の裏には、「なぜこんなことに」という叫びが押し込められていた。
 拓也は、茫然としたまま、待合室に重い足を向けた。
 照明が抑えられたひっそりとした部屋。隅の方で、パジャマを着た自分と同世代に見える男がベンチにかけ、やつれた顔で目を落としている。その周りに、家族が心配そうに寄り添っている。地味な服装で髪のほつれた女は、二人の子供をあやしながら、力強い目で夫を励ましている。テレビが消えた、ひんやりとした空間。そこだけが人間の温もりに包まれているように見えた。
 家庭が、わずか三十分の間に想像もできない世界へと暗転した。自分の行ってきたことに天罰が下ったのだろうと、拓也は思った。どん底で励ましあう夫婦の姿に、これまで自分が忘れてきたものを見たような気がした。せめて、叶わなかった最後の夕食で、何か一つでも香織の話を聞いてやることができたらと、唇を噛んだ。

 それから二週間が経った。
 カウンセリング室で、手術を担当してくれた医者との面談が始まった。
「やっと安定状態に入りました。奥様は若年性脳梗塞でした。心臓の一部を成す左心房から分離した大きな血栓が、一挙に頸動脈分岐点を塞いだものと思われます。呼吸中枢の障害で、稀に患者さんは舌を噛み切るほどの苦しさに襲われます。浴槽で意識を失い、ご主人の人工呼吸で蘇ると同時に酸素マスクが施されたことは、極めて稀な幸運です」
「本当に、ありがとうございました」
 拓也は、聞き慣れない「若年性脳梗塞」という言葉に、何か不吉なものを感じた。医者はそれを読み取るように続けた。
「失礼ですが、奥様、何か強い心配事でも持たれておりませんでしたか?」
 拓也は、ドキリとした。
「いえ、特にそんなことは……」
 拓也は、まさか、と思ったが、悟られないよう目に力を入れた。
「それならいいんですが、最近は、血圧、血液検査ともに正常な若い女性に多くなっております。若年性脳梗塞は、多くは強いストレスが起因します」
「ああ、ストレスなら、私が持ち帰る仕事の緊張が、妻に影響したのかもしれません」
 拓也には、確かにそのたぐいの記憶もある。
「なるほど……」
 若い医者が、拓也の目をじっと見つめ、続けた。
「それと、心療内科で受けた言葉の反応テストの結果ですが、『におい』という言葉に脳波の乱れが生じることがわかりました。何か心当たりは?」
「はあ、――全く思いつきません」
 拓也は「におい」について、本当に心当たりは無かった。ただなぜか、自分へと向かう包囲網が、じわりと狭まるのを覚えた。
 医者は、容態が落ち着くまでこのまま個室で様子を見ましょうと言い、席を立った。

 その日は、遠く北海道の香織の実家から、父母と香織の姉が見舞いに駆けつけていた。変わり果てた香織の姿を見下ろし、ただただ、涙を流している。母親は、拓也に尋ねたいことが多々あるはずなのに、なぜか口をつぐんでいる。時おり交差する姉の、涙の中から射るような視線が、家族全員の訴えとなって拓也の胸に突き刺さってきた。もしかしたら香織は、何らかの危険信号を、家族に伝えていたのかもしれない。
 父親は、固く閉ざした横顔に、無念の思いを滲ませている。拓也は、父親との約束を守れなかったことを、心の中で詫びた。
 香織は、あの故郷の美しい光景を、二度と見ることができなくなった。記憶にあるサファイアのような光が、火玉のようになり、次から次へと胸を突き上げてきた。

 帰りの電車の中、拓也は疲れた体で、車窓を流れる風景を眺めていた。様々な想いの向こうに、香織との楽しかった日々が蘇ってきた。
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