第6話

文字数 1,831文字

 拓也は、新たな気持で出社した。
 オフィスに異質な雰囲気を覚える。何かが変だ……。受付が、遥から別な女性に変わっている。見かけない顔だ。ガラスの向こう――、社長の姿が見えない。
 その女性が、声をかけてきた。
「植村さんですね、重役会議室で皆さまお待ちです」
 拓也は急かされ、そのまま会議室に向かった。       
 専務取締役を筆頭に、三人の役員が並んでいた。倫理委員会のメンバーだ。嫌な予感がした。
「植村君、ちょっとまずいことになったね。もう言わなくてもわかるだろ」
「えっ、いったい何のことでしょうか?」
 拓也は一瞬、遥のことが脳裏を過ぎった。まさかそのことが――、もしそうだとしてもなぜ倫理委員会がそれを? という両方の動揺を仮面の中に隠し、専務の目を見返した。
「あんたも往生際が悪いな。島津の婚約者から会社に直訴があったんだよ。へたすると訴訟問題だ」
「――婚約者! 島津さんに婚約者が……」
 拓也は全身の血液が逆流し、頭の中が真っ白になった。
 専務の説明が、無機質な響きとなって脳裏を突き抜けていく。
 新潟の林業財閥の一人娘だった遥には、親同士が決めた政治家の婚約者がいた。どことなく遥の様子がおかしいと気づいたその政治家が、私立探偵を雇い調査していたところ、婚約者と寄り添いホテルに入る拓也を突き止めたという。遥は先週末で退職したということだ。
 人事担当の役員が口を開いた。
「給与と退職金は期間計算して支払う。パソコンはすでにサーバーから切り離している。メール情報やすべての業務データは会社で預かる。プライバシーだけは守るがね。後継者への引継ぎは不要だ。最後になるが、このことは君の家庭には一切話さないことを約束する。次の職探しのため、自主退社としておこう。これがせめてもの武士の情けだ」
 拓也は今、この会社の役員に「武士の情け」という言葉をかけられ、人生のすべての敗北を認めざるを得なかった。この時拓也は、本当の哀しみは涙も出ないことを知った。
 それでも、最後のけじめだけはつけようと思い直した。岩倉には目をかけてもらった恩義がある。
「今日、社長はどちらに? お詫びと、ご挨拶だけでも――」
「あんたはどこまでもおめでたい人だ。岩倉さんはハワイに雲隠れさ。婚約者が突き出した写真の男があんただった時は、役員が皆胸を撫で下ろした」
「えッ――」
 他の役員が、恵比寿大黒のような笑みを浮かべ拓也を見ている。
 役員の一人が、ため息を漏らした。
「今度ばかりは、ヘッドクオーターのボードが見逃すかどうか――」
 目まいを覚えながら、デスクに戻る。同僚は皆、出払っていなかった。輝きを失ったパソコンが、役目を終えたように置かれている。まるで今の自分の姿のように。
 再び絶望が襲ってきた。香織との人生の終焉が、脳裏を覆い始めた時だった。

 パソコンの下から、見慣れない付箋紙の端がのぞいている。

 そっと抜き取り、目を落とす。
「お元気で」という言葉の横に、アンパンマンの絵が描かれている。拓也は、思わず苦笑した。
 一巻の終わりと閉ざされようとしていた重い扉が、再び開かれ始めた。
 思えば遥には、人生の窮地を救われたことも確かだ。彼女は若い。それだけで立派な武器だ。このキャラクターを忘れない限り、強く生きていくことができるだろう。遥が、魔法のマントを翻し、自由に飛び立っていくことを祈った。
 フロアの端に、〈植村様〉と書かれた紙袋が一つ置かれている。その端に、ロッカーに入れていたブルーのネクタイがのぞいている。今となれば、たった一つの遥の思い出だ。
 拓也は、二十二年間の財産を手に取り、歩き始めた。オフィスの人間は皆、ディスプレイから目を離すことはなく、キーボードだけが乾いた連続音を立てていた。

 帰りの電車、車窓を灰色の光景が飛び去っていく。
 まるで葛藤の日々を振り返る早送りのビデオのように。

 拓也は取り憑かれたように電車を乗り継ぎ、香織と知り合った体育館の前に立った。
 忘れていた懐かしい光景が蘇る。
 自分はまだ生きている。香織にもらった命だ。今度は自分が助ける番だ。もう一度やり直してみよう。例え車椅子でも、また一緒にバスケのコートに立てるように。
 どこからか、忘れ去られていた「世界に一つだけの花」が聴こえてくる。
 ふと見上げると、ビルの谷間を一羽の鳥が飛び去っていった。
 拓也は、紙袋をそっと、ダストボックスに入れた。
                    (了)
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