第3話
文字数 5,656文字
歳を取ると月日の流れが早くなるという言葉がある。忙しいだけで単調な日々。いつの間にか、結婚してから十年が経っていた。
久々に二人で遊園地に散歩に出かけた時だった。若い夫婦が、子供を挟んで笑顔を交わしている。
「香織、もうそろそろ帰ろうか――」
拓也は、小さな子供から目が離せなくなっている香織の姿を見て、優しく肩を抱いた。
にぎやかなショッピングモールに行った時も、香織の目は商品よりも、走り回る子供のほうに向いている。
拓也は、そんな不憫な香織の姿を見る哀しみや、家庭の綻びから目を逸らすために、ますます仕事にのめり込んでいった。
子供がいないことさえ抜きにすれば、周りからみれば何不自由のない幸せな夫婦に見えたに違いない。
香織は、心の空洞を埋めるように、絵画に没頭していった。だが、描く風景から、徐々に明るさが消えていった。それをごく自然に受け入れる自分も、同じ心境だったに違いない。
仕事は相変わらず忙しい。蓄積された疲れで首から上が自分のものではないような錯覚にとらわれる。
ある日、地下鉄のホームに立っていた時だった。生死の境界線が、すぐ足元に迫っている。働き続けた鉄の道が、ひっそりと鈍い光を放っている。向こうから車両が近づく気配がした。ふらりと引き込まれる寸前、通りかかった子供たちのはしゃぐ声で、我に返った。
多くの飛び込み自殺には、確信的な理由などないのかもしれない。思考回路の限界で生きていると、生と死を隔てる溝は意外と曖昧なものだと、拓也はこのとき悟った。
島津遥(はるか)が拓也の前に現れたのはそんな時だった。
魔が差すというのはこういうことなのだろうと、後になって思うのだった。
それは、無機質なコピー機のトラブルから始まった。
午後から自分が主催するマーケッティング会議が始まる。お昼近くに拓也は、総務部のコピーコーナーへと急いだ。
資料のコピーを人数分セットしスターとボタンを押す。マシンは勢いよく動き出し、次々と用紙の重なりを吐き出していた。
突然コピー機が停止した。トラブルを知らせる電子音が鳴り響く。どこかに用紙が詰まったようだ。
困った! 時間がない。
拓也は床に膝をつき、マシンの内部を覗きながら四苦八苦していた。
その時、排出用トレーの上に置いていた右手に、さらりとしたものが触れた。かすかな心地よい香りが拓也の鼻孔をくすぐる。ふと見上げると、総務部の島津遥が微笑んでいる。少し顔を傾けながら、「だいじょうぶですか?」と話しかけてきた。
流れ落ちる栗色の髪の先端が拓也の手の甲で揺れている。拓也はそっと手を引いた。
「用紙が詰まっちゃったみたいだけど、わかりますか?」
拓也は、素直に助けを求めた。
ネイビーのパンツスーツに身を包んだ遥が、拓也の脇にしゃがみ込んできた。慣れた手つきでレバーを操作し始める。何かの花の匂いだろうか――甘く優しい香りが拓也を包み込む。触れ合いそうな距離。遥の強いオーラに呑み込まれそうな不安を覚える。少し離れ、細い指の動きを見ていた。
機械はあっというまに復帰して、動き始めた。お礼をいう間もなく遥は立ち去って行った。
手の甲に生き物のようにまとわりついた遥の髪の感触が、しばらくは消えなかった。
拓也が所属する営業戦略部門は大部屋の奥にあり、受付カウンター席にいる遥とはほとんど話をしたことがない。美人を受付に配置するという文化はアメリカにはない。彼女は、そういう整った美人とは、なにかが違った。誰とでも気さくに話すタイプではなく、切れ長の目に、どこか不思議な憂いを漂わせていた。
新卒で入社してきたのが五年ほど前と記憶している。三十歳に近いはずだが、これといった男の噂がなく、不思議に思う社員も多かった。
社長秘書でもある遥は、社長の海外出張にアシスタントとしてよく同行していた。外資系とはいえ、管理職でなければ海外渡航の機会はなく、社員に羨ましがられていた。
拓也は忙しい日々の中で、山間の虹がいつの間にか消えていくように、島津遥のことは忘れ去ろうとしていた。
だが、信じられないようなことが起こった。
拓也が、総務部に社名入りメモ用紙を取りに行った時だった。
壁際に総ガラス張りの社長室がある。拓也に気がついたのか、遥が出てきた。
メモ用紙を差し出しながら、恥ずかしそうな笑顔を向けた。
「お誕生日おめでとうございます」
周りを気にするような小さな声が、確かにそう言った。
「え、私ですか、それはどうもありがとうございます。誕生日など、自分も忘れておりました」
突然の言葉は、無防備な拓也の心を一挙に鷲掴みにした。
なぜか社長の視線を背後に感じながら、うろたえる自分を隠し、その場を後にした。
なぜ自分の誕生日などを覚えているのだろうという疑問もかすかに脳裏をよぎったが、心が異質な色に塗り替えられていくことに抗うことはできなかった。
最強と信じていた心の牙城は、脆くも崩れていった。
解放された笑顔でにぎわう社員食堂。人知れず交差する視線。拓也は遥の、幽谷の湖のような澄んだ瞳に、吸い込まれるような官能の光を見た。それは、痛みがないほど鋭利な刃物から、熱い血が止め処なく流れる恐怖と、逃れられない法悦が融け合う、誘惑の世界だった。これは幻想だという戒めも虚しく、蟻地獄の砂に心を奪われていった。
ただ、この魅惑の泉は、仕事のストレスをまるで魔法のように溶かし込んでくれた。嫌なことのすべてを、忘れることができた。
拓也は、足元の綻びを繕うように香織に尽くした。
拓也が香織と出会った日がたまたま香織の誕生日だったことから、拓也は香織の誕生日を特に大切な日として祝ってきた。
この日だけは定時に退社し、毎年必ず香織の好きな真っ赤な薔薇をプレゼントした。香織は、拓也の大好きなフィレステーキを焼き、少し贅沢なワインの栓を抜いた。
その年の香織の誕生日も、拓也は、心の葛藤を忘れ、笑顔で香織の話に耳を傾けた。二人だけの楽しい時に、変わらぬ夫婦の絆を確かめ合った。
だが、どこかでボタンをかけ違ってしまった夫婦の姿は、引き返して掛けなおすことは不可能だ。拓也の心に入り込んだ魔性の面影は、黒いユリとなり、日に日に心の空洞を埋め尽くしていった。
寝室のベッド、香織が心配そうに覗き込む。
「あなた、だいじょうぶ? 最近うなされているようだけど」
「ああ、なんでもない、このところ仕事が忙しくて……」
夢の内容を、香織に話すことはできなかった。
心の砦を失った拓也は、毎晩のように悪夢に襲われた。
木漏れ日が樹林の大地に落ちている。栗色の髪に誘われるまま、霧の中をさまよう。目の前に純白の美しい扉が現れる。扉の向こうにある世界が拓也を誘う。取っ手に手をかけた瞬間、扉は見る見る不気味な色に変化した。天国と地獄の扉が同時に開く。真っ逆さまに落ちていくのは阿鼻叫喚の地獄。自分の行きつくところを察知していたのかもしれない。
拓也の中で二つの人格は闘い続けた。だが、運命に任せてみればと囁(ささや)くもう一人の自分に抗うことはできなかった。
そしてほどなく、運命を決定づけるできごとがやってきた。
会社の忘年会のパーティで飲んだ帰りだった。遥と中央線の同じ車両で偶然一緒になった。それは本当に偶然だったのかどうかは、今でも分からない……。二人は新宿で一緒に降りると、繁華街から少し入った静かなバーで飲み直した。
会社の話題もつきたころだった。
「島津さんの故郷はどこなんですか?」
拓也はふと、思い出したように尋ねた。
遥の表情が、一瞬強張ったように見えた。
「どこだと思います? けっこう田舎の方なのよ」
直ぐに笑顔を作ると、遥はその場を濁した。横顔に、暗い陰りがよぎったように見えた。
それから話題を変えるように、無邪気に笑った。
「学生時代、これでもテニスをやっていたのよ」
職場では見せたことのない、楽しそうな笑顔だった。
酔いが回ってきたのだろうか……、遥がふと静かになった。
拓也が時計を見ようとした時だった。
遥がグラスに目を落としながら、意外なことを口にした。
「上司との人間関係に疲れて、なにもかも嫌になった……」
拓也に向けた目の奥に、助けを求めるような光が揺れている。遥の直属の上司は総務部長、役職に沿う温厚な人物だ。拓也とは良好な人間関係にある。
「私でも、何か役に立つことがあれば――」
「ううん、いいの、本社の友達にも相談しているんだけど……」
本社といえば、ヘッドクオーター。話は重大だ。もう一人の上司を忘れていた。秘書として仕える社長だ。拓也は、岩倉に引き立てられたお陰で今がある。これ以上は触れるべきではない……。
「今日は飲みましょう!」
遥が、何かを振り払うように、寂しそうな笑顔を向けた。
「もう一軒行ってみようか――」
つい、引き返せなくなる言葉が口を衝いて出た。自分も酔っていたのかもしれない。
二人は、路地の奥へと歩を進めた。原色で彩られたラブホテルのネオンが目立ち始めた。左右を、男女が一つの影となって行き交っている。ふらつきながらも離れて歩いていた遥が、いつの間にか拓也の腕に触れるところにいた。鼓動が早まってくる。拓也はそっと、遥の肩に手を沿わせた。
だが、遥の無言の意思は、ホテル街とは逆の方向へと向かった。
拓也は、己の妄想を恥じるとともに、内心はホッとした。
ところが、遥の足の向くまま路地を抜け、行き着いたところに現れたのはシティホテルのエントランスだった。それはさりげない遥の提案だったのかもしれない。ふと、なぜこんな所を知っているのかという疑問がよぎったが、どことなく後ろめたい宿泊手続きの中で消えていった。
拓也は、部屋に入り、さらに遥の別な姿に驚かされる。
セミダブルの明るいベッドを前にして、拓也の動きが止まった。部屋は、上質なビジネスホテルと変わらない。シンプルで清潔な調度が並び、壁には優しい花の絵までかけられている。
このとき拓也は初めて、遥とベッドを共にするための気の利いたアプローチをなにも持ち合わせていないことに気づく。遥と同じ世代でもあれば、じゃれあってベッドに倒れ込むこともできるだろう。だが四十歳になる拓也に、ピエロを装うことは無理だ。かといって酔った勢いというのもわざとらしい。鏡張りの怪しいラブホテルなら、それなりに事は進んだのかもしれない。ビジネスの出張を思い出させるこの部屋の雰囲気に、すでに拓也の酔いは醒めていた。
遥は、そんな拓也の心境を読んでいたのかもしれない。酔っているわりにはすべてに冷静で、その場に固まった拓也を、さりげなくそして自然に、ベッドへとリードした。
言葉を交わすことのない情事は、ざらついた虚しさが過ぎった。だが、あの時の甘く優しい香りに包まれ、やがて拓也は、日常の裏側に隠された危うくも甘美な世界に落ちていった。
どのぐらい経ったのだろう。拓也はそっと起き上がった。目の前に無防備にまどろむ遥がいる。たまらなく愛おしく思うとともに、これがあれほど焦がれ苦しんだ一線の向こうにあったものなのかと、シーツに流れる栗色の髪を見つめた。現実を越えたもう一つの現実。遥の安らかな寝息が聴こえてくる。確かに拓也は、一線を越えた別な世界にいた。すでに引き返せなくなった我が身に、拓也は呆然となった。
それから二人は、コーヒーを飲んだ。
不思議だった。自分にとっては鏡の裏のような世界で、遥は普段と変わりない仕草を見せていた。ただ、悩んでいる上司とのことは、何一つ話さなかった。
遥が部屋を出た後、拓也はシャワー室に向かった。遥のにおいは香織の使う香水とはまるで違う。異質なにおいを悟られまいと、念入りに洗い流した。
その後も二人は、月に一度の逢瀬を重ねた。
あのとき、原色のネオンに彩られたラブホテルで、酔った勢いでできた関係であれば、あるいは深みに嵌ることはなかったのかもしれない。
閉鎖された空間で、無限に紡ぎ出される悦楽から逃れることができず、関係は続いていった。
最近は和食が多くなった夕食のテーブル。箸を進める音しか聞こえないまま終わる。
お茶の用意を始めた香織に、珍しく何かを言いたそうな笑顔が浮かんでいる。
「来週の土曜日、一緒に映画にいかない? 拓也の好きそうなのがきてるのよ」
香織が、新聞を読み始めた拓也に、お茶を注ぎながら声をかけてきた。
「最近目が疲れてね、よしておくよ――」
拓也は、新聞から目を離すことなく答えた。視界の端に、笑顔が固まる香織の横顔が見えた。
以前の拓也なら、何が上映されているかぐらいは尋ねたはずだ。心がすでに家庭にはない拓也は、映画の題名に行き着く前に、会話は途切れてしまった。
香織は何も言わずに立ち上がった。拓也は、香織の後姿を盗み見て、妻の好意をゴミのように捨てるようになった自分を、暗い目で見つめていた。
このころから香織は、あきらめたように口を開かなくなった。香織の心境は痛いほどわかったが、どうすることもできなかった。
香織は、心の空洞を埋めるかのように、日本画に打ち込んでいった。風景画を描き上げる度に、絵の中に、彩りが失われていった。
ある時、荒涼とした風景画の中に、まるでコラージュのように和服姿の女性を描いている。横顔だけで、表情はわからない。拓也は思わず、それは誰? と尋ねた。香織は、振り向くことはなく、「さあ、誰でしょう」と、小さな笑みを作った。横顔に滲んでいたのは、冷たい笑みだった。それが、香織の最後の絵画になるとは、その時は思いもしなかった。
虚構の階段を登るだけの拓也から、家庭を照らす灯火(ともしび)は徐々に消えていった。ざらついた魂は背徳の匂いに癒しを求め、闇の中をさまよった。
そして、課長昇進という念願のポストを得た日、同時に掛け替えのないものを失った。
久々に二人で遊園地に散歩に出かけた時だった。若い夫婦が、子供を挟んで笑顔を交わしている。
「香織、もうそろそろ帰ろうか――」
拓也は、小さな子供から目が離せなくなっている香織の姿を見て、優しく肩を抱いた。
にぎやかなショッピングモールに行った時も、香織の目は商品よりも、走り回る子供のほうに向いている。
拓也は、そんな不憫な香織の姿を見る哀しみや、家庭の綻びから目を逸らすために、ますます仕事にのめり込んでいった。
子供がいないことさえ抜きにすれば、周りからみれば何不自由のない幸せな夫婦に見えたに違いない。
香織は、心の空洞を埋めるように、絵画に没頭していった。だが、描く風景から、徐々に明るさが消えていった。それをごく自然に受け入れる自分も、同じ心境だったに違いない。
仕事は相変わらず忙しい。蓄積された疲れで首から上が自分のものではないような錯覚にとらわれる。
ある日、地下鉄のホームに立っていた時だった。生死の境界線が、すぐ足元に迫っている。働き続けた鉄の道が、ひっそりと鈍い光を放っている。向こうから車両が近づく気配がした。ふらりと引き込まれる寸前、通りかかった子供たちのはしゃぐ声で、我に返った。
多くの飛び込み自殺には、確信的な理由などないのかもしれない。思考回路の限界で生きていると、生と死を隔てる溝は意外と曖昧なものだと、拓也はこのとき悟った。
島津遥(はるか)が拓也の前に現れたのはそんな時だった。
魔が差すというのはこういうことなのだろうと、後になって思うのだった。
それは、無機質なコピー機のトラブルから始まった。
午後から自分が主催するマーケッティング会議が始まる。お昼近くに拓也は、総務部のコピーコーナーへと急いだ。
資料のコピーを人数分セットしスターとボタンを押す。マシンは勢いよく動き出し、次々と用紙の重なりを吐き出していた。
突然コピー機が停止した。トラブルを知らせる電子音が鳴り響く。どこかに用紙が詰まったようだ。
困った! 時間がない。
拓也は床に膝をつき、マシンの内部を覗きながら四苦八苦していた。
その時、排出用トレーの上に置いていた右手に、さらりとしたものが触れた。かすかな心地よい香りが拓也の鼻孔をくすぐる。ふと見上げると、総務部の島津遥が微笑んでいる。少し顔を傾けながら、「だいじょうぶですか?」と話しかけてきた。
流れ落ちる栗色の髪の先端が拓也の手の甲で揺れている。拓也はそっと手を引いた。
「用紙が詰まっちゃったみたいだけど、わかりますか?」
拓也は、素直に助けを求めた。
ネイビーのパンツスーツに身を包んだ遥が、拓也の脇にしゃがみ込んできた。慣れた手つきでレバーを操作し始める。何かの花の匂いだろうか――甘く優しい香りが拓也を包み込む。触れ合いそうな距離。遥の強いオーラに呑み込まれそうな不安を覚える。少し離れ、細い指の動きを見ていた。
機械はあっというまに復帰して、動き始めた。お礼をいう間もなく遥は立ち去って行った。
手の甲に生き物のようにまとわりついた遥の髪の感触が、しばらくは消えなかった。
拓也が所属する営業戦略部門は大部屋の奥にあり、受付カウンター席にいる遥とはほとんど話をしたことがない。美人を受付に配置するという文化はアメリカにはない。彼女は、そういう整った美人とは、なにかが違った。誰とでも気さくに話すタイプではなく、切れ長の目に、どこか不思議な憂いを漂わせていた。
新卒で入社してきたのが五年ほど前と記憶している。三十歳に近いはずだが、これといった男の噂がなく、不思議に思う社員も多かった。
社長秘書でもある遥は、社長の海外出張にアシスタントとしてよく同行していた。外資系とはいえ、管理職でなければ海外渡航の機会はなく、社員に羨ましがられていた。
拓也は忙しい日々の中で、山間の虹がいつの間にか消えていくように、島津遥のことは忘れ去ろうとしていた。
だが、信じられないようなことが起こった。
拓也が、総務部に社名入りメモ用紙を取りに行った時だった。
壁際に総ガラス張りの社長室がある。拓也に気がついたのか、遥が出てきた。
メモ用紙を差し出しながら、恥ずかしそうな笑顔を向けた。
「お誕生日おめでとうございます」
周りを気にするような小さな声が、確かにそう言った。
「え、私ですか、それはどうもありがとうございます。誕生日など、自分も忘れておりました」
突然の言葉は、無防備な拓也の心を一挙に鷲掴みにした。
なぜか社長の視線を背後に感じながら、うろたえる自分を隠し、その場を後にした。
なぜ自分の誕生日などを覚えているのだろうという疑問もかすかに脳裏をよぎったが、心が異質な色に塗り替えられていくことに抗うことはできなかった。
最強と信じていた心の牙城は、脆くも崩れていった。
解放された笑顔でにぎわう社員食堂。人知れず交差する視線。拓也は遥の、幽谷の湖のような澄んだ瞳に、吸い込まれるような官能の光を見た。それは、痛みがないほど鋭利な刃物から、熱い血が止め処なく流れる恐怖と、逃れられない法悦が融け合う、誘惑の世界だった。これは幻想だという戒めも虚しく、蟻地獄の砂に心を奪われていった。
ただ、この魅惑の泉は、仕事のストレスをまるで魔法のように溶かし込んでくれた。嫌なことのすべてを、忘れることができた。
拓也は、足元の綻びを繕うように香織に尽くした。
拓也が香織と出会った日がたまたま香織の誕生日だったことから、拓也は香織の誕生日を特に大切な日として祝ってきた。
この日だけは定時に退社し、毎年必ず香織の好きな真っ赤な薔薇をプレゼントした。香織は、拓也の大好きなフィレステーキを焼き、少し贅沢なワインの栓を抜いた。
その年の香織の誕生日も、拓也は、心の葛藤を忘れ、笑顔で香織の話に耳を傾けた。二人だけの楽しい時に、変わらぬ夫婦の絆を確かめ合った。
だが、どこかでボタンをかけ違ってしまった夫婦の姿は、引き返して掛けなおすことは不可能だ。拓也の心に入り込んだ魔性の面影は、黒いユリとなり、日に日に心の空洞を埋め尽くしていった。
寝室のベッド、香織が心配そうに覗き込む。
「あなた、だいじょうぶ? 最近うなされているようだけど」
「ああ、なんでもない、このところ仕事が忙しくて……」
夢の内容を、香織に話すことはできなかった。
心の砦を失った拓也は、毎晩のように悪夢に襲われた。
木漏れ日が樹林の大地に落ちている。栗色の髪に誘われるまま、霧の中をさまよう。目の前に純白の美しい扉が現れる。扉の向こうにある世界が拓也を誘う。取っ手に手をかけた瞬間、扉は見る見る不気味な色に変化した。天国と地獄の扉が同時に開く。真っ逆さまに落ちていくのは阿鼻叫喚の地獄。自分の行きつくところを察知していたのかもしれない。
拓也の中で二つの人格は闘い続けた。だが、運命に任せてみればと囁(ささや)くもう一人の自分に抗うことはできなかった。
そしてほどなく、運命を決定づけるできごとがやってきた。
会社の忘年会のパーティで飲んだ帰りだった。遥と中央線の同じ車両で偶然一緒になった。それは本当に偶然だったのかどうかは、今でも分からない……。二人は新宿で一緒に降りると、繁華街から少し入った静かなバーで飲み直した。
会社の話題もつきたころだった。
「島津さんの故郷はどこなんですか?」
拓也はふと、思い出したように尋ねた。
遥の表情が、一瞬強張ったように見えた。
「どこだと思います? けっこう田舎の方なのよ」
直ぐに笑顔を作ると、遥はその場を濁した。横顔に、暗い陰りがよぎったように見えた。
それから話題を変えるように、無邪気に笑った。
「学生時代、これでもテニスをやっていたのよ」
職場では見せたことのない、楽しそうな笑顔だった。
酔いが回ってきたのだろうか……、遥がふと静かになった。
拓也が時計を見ようとした時だった。
遥がグラスに目を落としながら、意外なことを口にした。
「上司との人間関係に疲れて、なにもかも嫌になった……」
拓也に向けた目の奥に、助けを求めるような光が揺れている。遥の直属の上司は総務部長、役職に沿う温厚な人物だ。拓也とは良好な人間関係にある。
「私でも、何か役に立つことがあれば――」
「ううん、いいの、本社の友達にも相談しているんだけど……」
本社といえば、ヘッドクオーター。話は重大だ。もう一人の上司を忘れていた。秘書として仕える社長だ。拓也は、岩倉に引き立てられたお陰で今がある。これ以上は触れるべきではない……。
「今日は飲みましょう!」
遥が、何かを振り払うように、寂しそうな笑顔を向けた。
「もう一軒行ってみようか――」
つい、引き返せなくなる言葉が口を衝いて出た。自分も酔っていたのかもしれない。
二人は、路地の奥へと歩を進めた。原色で彩られたラブホテルのネオンが目立ち始めた。左右を、男女が一つの影となって行き交っている。ふらつきながらも離れて歩いていた遥が、いつの間にか拓也の腕に触れるところにいた。鼓動が早まってくる。拓也はそっと、遥の肩に手を沿わせた。
だが、遥の無言の意思は、ホテル街とは逆の方向へと向かった。
拓也は、己の妄想を恥じるとともに、内心はホッとした。
ところが、遥の足の向くまま路地を抜け、行き着いたところに現れたのはシティホテルのエントランスだった。それはさりげない遥の提案だったのかもしれない。ふと、なぜこんな所を知っているのかという疑問がよぎったが、どことなく後ろめたい宿泊手続きの中で消えていった。
拓也は、部屋に入り、さらに遥の別な姿に驚かされる。
セミダブルの明るいベッドを前にして、拓也の動きが止まった。部屋は、上質なビジネスホテルと変わらない。シンプルで清潔な調度が並び、壁には優しい花の絵までかけられている。
このとき拓也は初めて、遥とベッドを共にするための気の利いたアプローチをなにも持ち合わせていないことに気づく。遥と同じ世代でもあれば、じゃれあってベッドに倒れ込むこともできるだろう。だが四十歳になる拓也に、ピエロを装うことは無理だ。かといって酔った勢いというのもわざとらしい。鏡張りの怪しいラブホテルなら、それなりに事は進んだのかもしれない。ビジネスの出張を思い出させるこの部屋の雰囲気に、すでに拓也の酔いは醒めていた。
遥は、そんな拓也の心境を読んでいたのかもしれない。酔っているわりにはすべてに冷静で、その場に固まった拓也を、さりげなくそして自然に、ベッドへとリードした。
言葉を交わすことのない情事は、ざらついた虚しさが過ぎった。だが、あの時の甘く優しい香りに包まれ、やがて拓也は、日常の裏側に隠された危うくも甘美な世界に落ちていった。
どのぐらい経ったのだろう。拓也はそっと起き上がった。目の前に無防備にまどろむ遥がいる。たまらなく愛おしく思うとともに、これがあれほど焦がれ苦しんだ一線の向こうにあったものなのかと、シーツに流れる栗色の髪を見つめた。現実を越えたもう一つの現実。遥の安らかな寝息が聴こえてくる。確かに拓也は、一線を越えた別な世界にいた。すでに引き返せなくなった我が身に、拓也は呆然となった。
それから二人は、コーヒーを飲んだ。
不思議だった。自分にとっては鏡の裏のような世界で、遥は普段と変わりない仕草を見せていた。ただ、悩んでいる上司とのことは、何一つ話さなかった。
遥が部屋を出た後、拓也はシャワー室に向かった。遥のにおいは香織の使う香水とはまるで違う。異質なにおいを悟られまいと、念入りに洗い流した。
その後も二人は、月に一度の逢瀬を重ねた。
あのとき、原色のネオンに彩られたラブホテルで、酔った勢いでできた関係であれば、あるいは深みに嵌ることはなかったのかもしれない。
閉鎖された空間で、無限に紡ぎ出される悦楽から逃れることができず、関係は続いていった。
最近は和食が多くなった夕食のテーブル。箸を進める音しか聞こえないまま終わる。
お茶の用意を始めた香織に、珍しく何かを言いたそうな笑顔が浮かんでいる。
「来週の土曜日、一緒に映画にいかない? 拓也の好きそうなのがきてるのよ」
香織が、新聞を読み始めた拓也に、お茶を注ぎながら声をかけてきた。
「最近目が疲れてね、よしておくよ――」
拓也は、新聞から目を離すことなく答えた。視界の端に、笑顔が固まる香織の横顔が見えた。
以前の拓也なら、何が上映されているかぐらいは尋ねたはずだ。心がすでに家庭にはない拓也は、映画の題名に行き着く前に、会話は途切れてしまった。
香織は何も言わずに立ち上がった。拓也は、香織の後姿を盗み見て、妻の好意をゴミのように捨てるようになった自分を、暗い目で見つめていた。
このころから香織は、あきらめたように口を開かなくなった。香織の心境は痛いほどわかったが、どうすることもできなかった。
香織は、心の空洞を埋めるかのように、日本画に打ち込んでいった。風景画を描き上げる度に、絵の中に、彩りが失われていった。
ある時、荒涼とした風景画の中に、まるでコラージュのように和服姿の女性を描いている。横顔だけで、表情はわからない。拓也は思わず、それは誰? と尋ねた。香織は、振り向くことはなく、「さあ、誰でしょう」と、小さな笑みを作った。横顔に滲んでいたのは、冷たい笑みだった。それが、香織の最後の絵画になるとは、その時は思いもしなかった。
虚構の階段を登るだけの拓也から、家庭を照らす灯火(ともしび)は徐々に消えていった。ざらついた魂は背徳の匂いに癒しを求め、闇の中をさまよった。
そして、課長昇進という念願のポストを得た日、同時に掛け替えのないものを失った。