第2話

文字数 6,381文字

 もう十年以上も前のことだ。
 拓也は母校の近くの区営体育館で、高校、大学と続けていたバスケットボールに興じていた。練習や競技ではなく、ただ汗を流すだけで仕事の疲れを忘れることができた。
 アリーナの端ではよく、指導者のもとで車椅子の人々が卓球の練習をしていた。
ある日、拓也の、サイドから放ったロングシュートが勢いよくリングを跳ね、卓球台まで転がっていった。その時、笑顔で拾ってくれた指導者の女性が妻の香織だ。
 端正な顔立ちに光る白い歯と、きらきらと輝く悪戯っぽい目に、一瞬で拓也は運命を感じた。
 何回か顔を合わせ、拓也は、駄目でもともとの心境で声をかけた。
「今度ご一緒にバスケもやってみませんか」
 意外な言葉が返ってきた。
「実は、私もバスケのほうが好きなんです」
 それから二人は、香織の卓球の指導が終わった後、バスケのパスやシュートを楽しむようになった。見た目が華奢なわりには、香織のパスは鋭く、シュートは正確だった。
 練習後に、会話が弾む食事を重ね、婚約まで進んだのはごく自然の流れだった。

 両親への結婚の承諾と挨拶に、北海道K市の香織の実家を訪ねた時のことだった。
 東京では残暑も終わり、秋に差しかかろうとしていた。
 香織はいつになく嬉しそうに、旅の準備にかかっている。
「拓也、私のところは特に寒いから、何か一枚多く持って行ってね」
 香織は、東京では着たことのない、紺色のカーディガンをどこからか出してきて、バッグに詰めている。
「ああ、俺はこれ一着あればどこでも平気さ」
 拓也は、愛用の、くすんだ茶色の皮ジャンを無造作にバッグに押し込んだ。
 羽田からの直行便で約二時間、寒々とした風景の中にも北海道特有の温もりを感じながら、女満別空港に降り立つ。すでにK市行きのバスが待機しており、十人前後の客が乗り込むと、定時にバスは発車した。
「ほら、拓也、あれを見て!」
 香織が車窓から、どこまでも広がる緩やかな大地に感激している。
「ああ、あれが機内の窓から見えた不思議な光か――」
 飛行機が空港に近づいた時だった。黒い大地にサファイアのかけらを一面に撒き散らしたような光景が目に入った。香織もそれが何かは分からないという。二人を歓迎するように、真っ青な光りが、キラキラと輝いていた。
 飛行機から見下ろす大地の不思議な光は意外な物だった。バスの窓から見るとそれが、この地方の特産物である収穫された玉ねぎの保管箱だということがわかる。香織も、生まれ育った地にも記憶にないものがあるのか、目を見開き感動していた。

 バスの終点となるK市の駅に、父母と姉が出迎えに来ていた。
 香織はバッグを路面に投げ出し、姉と抱き合って再会を喜び合っている。姉は香織より五歳上だと聞いていたから自分と同じ年代だ。年の離れた妹は、特に可愛いに違いない。家族の温もりを知らないまま家を出た拓也は、この絆を断ち切るための訪問に、ふと罪の意識がよぎった。その分、香織を大切にしなければという覚悟が、心の奥に刻まれた。
 香織の実家はK市郊外で酒屋を営んでいた。姉も店を手伝い、行く行くはコンビニエンスストアを開店する計画だという。
 父は、拓也の仕事の状況や海外の様子などに耳を傾けるだけで、なぜか結婚のことには何も触れなかった。自分の父を見ても、男は歳を取ると肝心なことは何も話さないものなのかもしれない。母は終始、拓也を気遣ってくれ、まるで自分が遠く嫁ぐような不安を、目じりに滲ませていた。
 姉と二人切りになった時だった。遠くを見るような眼差しで口を開いた。
「香織は、少し変わっているのよ……」
「と、言いますと――」
 姉が、意外なことを話し始めた。
「小学校の時、特別支援学級に自分から出向いて、皆の話し相手になったり――」
「ああ、それで、パラ卓球指導のボランティアなんかも」
「え、東京でそんなこともしてるんですか――」
「はい、それが縁で香織さんとお付き合いが始まったというか」
「そうなんですか……。気持ちが優しすぎて、心配なこともあるのですが、拓也さんのような方なら安心しました。どうか妹をよろしくお願いします」
 夕食は、母親が、香織のリクエストだという手巻き寿司を用意してくれた。
 大皿には、エビ、マグロ、ハマチ、ホタテ、サーモン、それに取り立てだというウニまで並んでいる。オホーツクの海の幸が、形を変えようとする家族の不安を、穏やかに和みへと変えていった。
 香織は、家族に気遣いながらも時おり拓也に笑顔を向け、母親の心づくしをほお張っていた。
 三人は、再びK市の駅に見送りに来てくれた。香織は、バスに乗る直前まで、母親と無言で抱き合っていた。母親の目に光るものが見えた。父親は、涙を堪えているのか、家族ではなく雑踏に目を向けている。
 拓也は、父親に近づいた。
「必ず香織さんを幸せにしますので、ご心配なく」
 人生で、迷いのない言葉を口にしたのは、後にも先にもこの時しか記憶にない。

 会計事務所に勤める香織との結婚生活は、多忙ではあったが、快適に、順調に過ぎていったように見えた。
 拓也が働く保険会社は、東京駅八重洲口を見下ろす高層ビルディングにオフィスを構える、米国に本社をおく多国籍企業だ。広大なフロアに、三百を超えるパソコンとその主がひしめいている。
 入社以来拓也は、その現代の戦場とも思える組織の中を無我夢中で駆け抜けていた。
 香織と出逢ったことも拓也の強い上層志向に拍車をかけた。二人のより快適な生活を夢見て、仕事に没頭した。

 拓也が外資系企業を目指したのには理由があった。
 拓也の父は、東京近郊都市にある大学の夜間の工学部を卒業した。地元では優良企業と言われていた航空機部品の加工工場で働いていた。拓也も一度見学に行ったことがある。父は油が滲みた作業服を着て、コンピュータと機械が合体したような大きな装置を、真剣な目で動かしていた。様々な機械や構造物の中で、父も一緒に輝いていた。
 だが家は貧しく、拓也の記憶では、母はいつも不機嫌な顔をしていた。「お父さんは人が良すぎるのよ」というのが母の口癖だった。父は確かに頑張ってはいたが、それは組織の上を目指す努力ではなかったのだろう。ただ、一度だけ、父が口にした言葉があった。
「上に行けば、失われるものもある」
 その時拓也には、その意味が分からなかった。
 拓也は、家族の笑顔さえも、金で買えると信じた。父の生き方を尊敬する一方で、「自分はかならず成功する」という観念的ともいえる動機付けが、心の奥深くに刻み込まれていった。大学経済学部を卒業すると、迷わず選んだ道が外資系保険会社だった。
 主任、係長と昇進するにつれ、帰宅も遅くなった。

 多国籍企業はどこでも、年に一度、ヘッドクオーターCEO(本社会長)が出席する会議がある。この会議にはすべての上級マネージャーが出席し、プレゼンを行なう。各国の社長はこの会議に最大のエネルギーを使う。唯一社長の首がかかる重要な会議だからだ。
 会長は、三十ヶ所ほどある世界の拠点を年に一度訪問し、P&Gと呼ばれる各国の業務計画の進捗を確認する。それが一般的な多国籍企業の会長の仕事だ。
 日本を代表する社長のプレゼンが始まった。岩倉は、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した秀才だ。五十歳を過ぎたばかりだが、頭髪がかなり後退している。係長としては、戦略部門に籍を置く拓也一人だけが出席を許されていた。
 会長は満足そうにうなずきながら、大型ディスプレイを眺めていた。
 会議は成功裏のうちに終了した。会長がコーヒーブレイクに案内された後、部屋の隅で眼鏡を外し、額の汗を拭う岩倉の姿が目に入った。
 翌日、会長が成田に立った午後のことだった。岩倉が拓也に声をかけてきた。
「今日の夜、ちょっとつきあってもらえないか? 新宿がいいかな」
 岩倉の顔には、会議が成功した安堵の色がうかがえる。社長の立場は華々しく見えてはいるが、意外と孤独なのかもしれない。拓也はこれまでも、何回かお供をしてきた。
「わかりました。それでは東口の交番の横で七時ということで――」
 新宿に出て、小奇麗な割烹で腹ごしらえをした。よほど会議が成功してほっとしたのか、岩倉は立て続けに日本酒を胃に流し込んでいた。
 そこを出たときはすでに、足がもつれていた。
「植村さん、今日はどこか若い女性がいるところ案内してよ。男は外で遊ばなくちゃ厚みがでない。君もたまにはいいだろ」
 会長との会議で当面の地位が保証された岩倉は、拓也をドーベルマン代わりにして、徹底的に遊ぶつもりなのかもしれない。
 拓也は、歌舞伎町へと足を向けた。ネオンの海と化したメイン通りからわきの道に入る。キャバクラの客引きが引きも切らず寄ってくる。それを無視して、さらにわきの路地へと歩を進める。奥の方から「クラブ深海」という看板が目に入ってきた。黒服が見えないところをみると、常連客で成り立っている店のようだ。重厚な木製のドアと、薄紫に灯るネオン看板が高級感と怪しげな雰囲気を醸し出している。
「植村さん、ここいいんじゃない」
 岩倉が、吸い込まれるようにドアの取っ手に手をかけた。拓也はふと、嫌な予感がしたが、ふらつく岩倉を支えるようにして、店の中へと入っていった。
 フロアを見渡し、拓也は一瞬、気後れを感じた。ここは一見の客を相手にする大衆クラブとは違う――。長く広いカウンター、整然と高級酒が並ぶバックバー、ライトに浮き上がるダンスフロアを囲むように、豪華なボックス席が並んでいる。
 無表情の黒服が近づいてきた。入り口近くのボックスに案内し、ご指名は? と尋ねてくる。拓也は、「特に――」と答え、顔を横に振った。岩倉は、酔いに体を揺らしている。
 すぐに別な黒服が現われ、うやうやしく絨毯に立て膝を着く。熱々のお絞りが載ったトレーを、両手で岩倉から先に渡した。プロの目がうかがえる。
 岩倉が眼鏡を外し、お絞りで顔を拭おうとした時だった。きらびやかなドレスを纏った三人の女性が、同じような笑みを浮かべボックスに滑り込んできた。岩倉が慌てて眼鏡をかけると、目を輝かせて彼女たちを見回す。岩倉はすぐに、一番若く見える細身のホステスに釘付けになった。それを見抜いたのか、お姐さん格のホステスが、「サキちゃんその間に入れてもらったら」と、その初々しいホステスを岩倉と拓也の間に座らせた。あとのホステスが客の両側を挟むかっこうで落ち着いた。
 岩倉は、まだ女子大生かと見まがうようなサキの華奢な肩に、はやくも腕を回している。脇のホステスに勧められるまま、水割りをぐいぐいと咽に流し込む。
 間もなく岩倉は、別人のようにテンションが上がり始めた。
「さあ、面白いゲームをしようか! ゲットコースターとでも呼ぼう」
 突然岩倉が、訳の分からない言葉を吐き出した。
 にやにやしながら三人のホステスを交互に覗き込む。
「誰かこれを飲み干したら、グラスの下のコースターはその人のものだ」
 グラスに、ストレートのウイスキーが半分以上注がれている。岩倉は、店が用意したレザーコースターの代わりに、厚い札の重なりを敷いた。グラスの底で歪んでいるのは福沢諭吉だ。拓也は、岩倉の隠された素顔を見たような気がした。
 狙いは、岩倉の左腕にしなだれかかっているサキであることは明らかだ。
「どう、サキちゃんやってみる? つぶれたときはぼくが責任を持つよ」
 岩倉が、小さなピアスが光るサキの白い耳元にささやいた。
 サキはグラスの下の、誘惑の重なりに釘付けになっている。ホステスたちの笑みが固まった。サキは、まるでゼンマイ仕掛けのように手を伸ばし、それをグビ、グビっと、飲み始めた。岩倉は半開きの口で、その細い咽の動きを見ている。
 サキが、頭を揺らしながら空のグラスを置いた。端正な顔が焼けるような痛みで歪んでいる。岩倉は、札束をサキの手に握らせると、首に回した左手を胸へと滑らせた。
 拓也は、この惨いゲームに吐き気を催してきた。だが、それだけでは終わらなかった。
 最初の倍の厚さの札束の上に、なみなみと注がれたグラスが置かれた。
「よーし、もう一回いってみようか、サキちゃん!」
 すでに目が泳いでいるサキが、再び琥珀色の液体に口をつけようとした時だった。
 いつの間に後ろに立ったのか、支配人の風格を漂わせる男が、無言でサキのグラスを手で払った。ホステスたちの悲鳴が上がる。テーブルは直下型地震に襲われたように散乱した。岩倉の高級スーツが、一瞬で無残な色に染め抜かれた。
 音もなく最初の黒服が出てきた。慣れた手つきでテーブルを片づける。
「申し訳ありません、お客様。今日はこれでお引きとりください。お代はけっこうです」
 黒服が、客を見ようともせずに、事務的な言葉を投げた。
「不愉快だ! もう二度と来ない」
 岩倉が札束を懐にしまうと、ウイスキーの雫で曇った眼鏡の奥から叫んだ。
「はーい、お二人様お帰りー! 塩を丁寧に撒いておくれ」
 黒服が表情を変えることもなく、カウンターの中に無機質な声をかけた。
 拓也は足をふらつかせる岩倉をなだめながら、入り口へと向った。
 メイン通りに出る。岩倉はほとんど酩酊状態だ。
 ほどなくしてタクシーが寄ってきた。
「岩倉さん、世田谷のどこまで?」
 拓也は、岩倉の耳元に尋ねる。
「ああ、俺は家に帰っても待つ人はいない。どこでもいい、ビジネスホテルに行ってくれ」
 不思議だった。岩倉の目に、クラブを追い出された屈辱の色はなかった。今のポストは、比較にならない汚辱の世界で勝ち取った、オリーブの冠なのかもしれない。
 岩倉は、ホテルまで送るという拓也を断わり、タクシーは動き出した。
 ハーバード時代に知り合った岩倉の妻は、アジアで高級ファッションビジネスを展開し、香港で暮らしているという。グローバル社会は、夫婦の形も変えるのかもしれない。
 拓也の仕事の裏で、このようなことは珍しいことではなかった。外人接待では、酔いつぶれた巨体を担ぎ、ホテルのベッドまで運ぶこともある。これも立派な仕事だった。

 虚構の階段は、上るにつれて不条理なこともまとわりつく。ふと拓也は思った。父は仕事で上を目指したくなかったのではなく、重みが増して行く人間の業に、嫌気がさしたのかもしれない。
 成功の道へと突き進む拓也は、身を切り売りするような報酬で荻窪に瀟洒なマンションを購入した。虚しさがつきまとう日々で、せめて幸せを形に残そうとしたのかもしれない。だが、無機質な「もの」が増えるたびに、これが自分の本当の目的だったのだろうかという疑問もよぎった。もう少し話してみたかったと、他界した父を思い浮かべた。
 連日の残業に加え、接待のスケジュールがビジネスダイアリーを埋める。
 ぼろ布のような身をスーツで隠し、家路につく。拓也は、灯りが消えているマンションの部屋の、寒々とするテラスを見上げる。今は身体を休めるためだけのカプセルホテルのようになってしまった。エントランスのガラスドアをくぐり、無機質な音を響かせ部屋に向かう。その向こうにある我が家も、やはりガラスの館だった。
 香織との休日も口数が少なくなり、やがて一緒に旅行に出かけることもなくなった。

 係長に昇進した時は、結婚してから五年が経っていた。仕事は順調だが、家庭の温もりは失われつつあった。せめて子供に恵まれていれば、別な方向もあったかもしれない。
 これではまずいと、拓也は香織に専業主婦となることを提案した。笑顔が失せた夫婦の日々に、香織だけでも穏やかに暮らしたほうがいいと判断したのだ。
 香織は快く同意した。時間に余裕が出た香織は、学生時代からの趣味だという日本画に打ち込むようになった。
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