カレーソースの呪い

文字数 2,260文字

 バイトを始めて数カ月経ったころ、基本的な注文にはすっかり慣れ、ラッシュ時でなければ一人で回せるほどになった。苦手な電話対応も少しずつ慣れてきた。オーダーの際のお客の名前が聞き取れないのは日常茶飯事で、カタカナで聞いたままメモすることも多々あった。しかし、そんなことは大した問題ではない。本当のトラブルは、聞き取ったメニューが違ったり、商品を入れ忘れたり。基本的なメニューは間違えることはほぼなかったが、北米特有のカスタマイズをされると複雑になっていくのだ。
 この唐揚げ屋さんはまずメインの中からチキン、たこ焼き、コロッケのどれかを選ぶ。その次にボックスのベースとなる、ごはん、キヌア、サラダの中から一つ選ぶ。最後にソースの味を、オリジナル、南蛮ソース、カレーの中から選ぶ。それに加えてサイズもレギュラーとラージのどちらかを選んでもらう。しかし、選ぶことに慣れている北米人たちはここだけに収まらず、ソースを倍にする、とか紅ショウガ多め、とか半分ライス半分サラダ、とかとにかくありとあらゆる方法で自分好みにカスタマイズする。しかも、メニューには大きく書かれていないけど、ヴィーガンの人用にヴィーガンナゲットと呼ばれる大豆でできたナゲットがメインとして選べたり、ベースをフライドポテトにしたりすることも可能だ。そうなってくると、カスタマイズの幅はまさに某大手チェーンのカフェ並み。日本にいたとき、そこのバイトだけは絶対にメニューを覚えられないから無理、と思っていたのに。
 唐揚げ屋さんの気遣いは自由奔放なカスタマイズを笑顔でこなすことだけではない。Everyday a little bit better 、お店のTシャツに書かれている言葉だ。この店舗は開いて1年。他の店舗を合わせれば8年。創業から様々な苦情をいただいてはその度に改良を重ねてきたのがこの唐揚げ屋さんだ。苦情をもらわなくとも、オーナーは私たちが働きやすいように、私が働き始めた夏から私が辞めることになるギリギリまでお店の模様替えを繰り返した。それに、唐揚げハンバーガーのバンズをグリルしよう、とか、フライドポテトを市販のものからお店でカットするものに変えよう、とか。メニューの作り方や物の置き場所など、正直新人には目まぐるしいほどすぐに変わってしまうことが多かった。しかし、オーナーはノリで起業することを思いつき実行する行動力の持ち主。良くなるとわかっていて、それをしない手はなかったのだろう。
 話が逸れたが、唐揚げ屋さんの気遣いとしてカレーソースをデリバリーは別カップに分ける、という作業がある。それについて苦情がきたからなのかは知らないが、まあ長時間経てばカレーに浸されたチキンはふやけてしまうし、納得はいく。しかし、これが私を苦しめることになったのだ。
 単なる言い訳ではあるのだが、カレーと書かれたボックスを閉じて袋に入れてしまうと、別カップに入れたソースの存在を忘れ、カレーの注文が完了したかのように思ってしまったのである。それも、注文が一つの場合はさほど間違えないが、たくさんの注文があるとき、カウンターに置いてある別個のカレーソースがいったいどの注文のカレーソースなのかはスタッフ同士わざわざ聞かないとわからないので、自分が担当しているものだと思わなかった、なんてケースもある。とにかく、ここから二週間ほど、私が何度も何度もカレーソースを入れ忘れる、という事件が起きるのである。
 ラッシュ時にてんやわんやしていると私は一つの注文をこなすので精一杯だった。はあ、ようやく終わった。なんて思っていると女の先輩のするどい声。
「あれ!このカレーソースは!」
はっと思い、あたりを見回してもお客さんは既にお店を出た後。自分のうっかり具合に開いた口がふさがらないし、ずどーん、と肩に重りを乗せられたぐらい、本当に落ち込む。同じ間違いを何度もしてしまった時は特に、だ。
「うわー、やっちゃいました」
顔が変な感じにへらへらしてしまう。内心、もういっそカレーの注文、二度と来るな、と思う。一時経つと、さっきまで緩んでいた顔に錘を吊るされたように頬が下がる。こういう時、先輩二人は特に優しいフォローとかはしない。何も言わないか、女の先輩が
「まあ、大丈夫やろ。」
というくらい。そのあと、レシートを取っておいたり、オーナーにチクったり、じゃなくて報告したり。先輩たちはミスをしても、しれっと自分がいるうちにカバーしてしまうことが多いが、私のミスはオーナーに全部筒抜けだ。社会人はミスなんて山ほど見てきているから、さっさと処理するものくらいにしか思っていないのかもしれない。社会人は冷たい世界で生きてるなあ。
「連絡したら、大丈夫!次来た時、謝ってこれ渡してね!」
「まあ、慣れてきたらミスもなくなるから、とにかく落ち着いてやればいいよ」
そう言ってくれたら、
「はい!ありがとうございます、次気を付けます!」
って元気よく返事できるのになあ。社会人は自分のミスを自分で飲み込んで、消化して、頑張るぞって言いきかせて。全部単独作業なんだ。社会人はどんどん自由になるけど、孤独にもなるって、思っていたことが少し現実味を帯びてきた。
 ピロリリーン。オーダーが入った音がする。切り替えなくっちゃ、とアセンブルステーションに飛んでいくと、注文票を見た女の先輩がぎょっとした声で
「うわ、新人ちゃん、またカレーやん!呪われてるな。」
顔を見ると、うっすら笑っている。少し、心が軽くなった気がした。
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