夏バテあんど人間関係バテ

文字数 2,250文字

 夏休みも本番。今年の夏は稼ぐぞーと私は意気込んでいた。初めてのお給料は少しだけ財布に足して、貯金した。物欲はあるけど、それよりも貯金の方が好きだった。カナダの高校では皆夏になると働いていた。北米では学力も大事だが、即戦力が大事。つまり、大学を出ていても働いた経験がなければ、雇ってもらえない、なんてこともあるのだ。私はそれまで、なんとなく働くことへの憧れはあったけど、一歩勇気がなかった。でも今年、四年目のの夏は違う。一年目はサマースクールに行って足りない単位を取得した。二年目は日本へ一時帰国した。三年目は家族、恋人、友達と出かけたり、二日に一回のペースでジムに通ったりした。慣れは本当に怖いもので、日本では夏休みが一カ月以下しかないなんて、今では信じられないし、四カ月あっても夏休みはあっという間だ。そして、四年目の夏。私は町の唐揚げ屋さんでバイトしている!
 ダイエットと運動不足を兼ねて、私は少ししてからストリートカーではなく歩きで通勤し始めた。音楽を聴きながら歩けば、四十分の道のりもすぐだった。カナダに来てからも洋楽はそこまで常にチェックするほどではなく、もっぱらKPOPか邦楽ばかり聴いていた。  
 私の親が夜のシフトに渋い顔をしたので、私は午前十一時半から午後四時までのシフトだった。そのあとから閉店までは入れ替わりで、私と同時期に入った男の子が担当していた。お店に到着すると、たいてい女の先輩か、たまにオーナーが開店準備をしていた。入って数カ月で知らない作業や仕事もまだまだあったので、お客さんがいないときにはぼーっとしていることも多かった。しかし、コロナ禍の不況で飲食店が悲鳴を上げているというニュースはどこへやら、お客さんは途切れることなく来る日がほとんど。私は新人ということで、ひたすらアセンブルステーションでトッピングとソースで盛り付けていた。当時は一生懸命だったし、自分でもいい仕事をしていると思い込んでいたが、実はこの作業は実際必要な仕事の十分の一程度などではないか、と思う。
 開店から一時間ほどすると、男の先輩が出勤してくる。物腰の柔らかい男の先輩は三重県の方言が印象的で、最年長だけれど皆に対して下手に話しているイメージだった。当時私は他の人のことなど気にする余裕はなかったが、男の先輩がシフトの時間より少し早めに到着するとほぼ百パーセントの確率で私と女の先輩はお昼のラッシュを迎えており、男の先輩は十分から十五分早めに急かされてフライヤーの前に立っていた。面接の時も聞いて驚いたが、基本的にお店は二人でまわしていかなければならない。接客も、キッチンも、補充も、掃除もお店のことは何もかも二人で、だ。でもランチとディナーのラッシュ時はとてもじゃないが二人だときつくなる時もある。やっぱり人件費削減かな、と私はぼんやり考えていた。
 夏のキッチンは暑い。日本ほど蒸し暑くないはずのカナダであるが、やはり暑いものは暑かった。新人の私はフライヤーの前に立つことはあまりなかったが、主にフライヤーを担当していた男の先輩が夏バテでダウンしてしまった。髪も伸びていたし、ぽっちゃり体型の先輩はいつも汗をかいていて全身から暑さが伝わってきた。私も暇さえあれば座っていたほど、その年の夏、というかキッチンで迎える初めての夏はくらくらするほど、厳しかった。
 女の先輩もそうだが、特に私は男の先輩とすぐ打ち解けた。同じKPOPアイドルを好きという共通点があったからだ。いろいろな話をする中で生卵の話をしたことがある。日本人にとって卵かけご飯は国民愛され飯だが、実は北米ではそれが不可能。なぜなら卵が洗浄されていないので、熱を通さないとお腹を壊す、と言われているからだ。
「本当に危ないらしいですよ」
「せやんな。僕もそれ聞いたで。」
と、確かに話したはずなのだ。しかし翌日、男の先輩は心底具合が悪そうに店に入ってきた。
「どうしたんですか?」
「昨日、生卵食べちゃって」
えー!と心の中で私は叫ぶ。つい昨日その話をしていて、男の先輩も知ってる知ってる、みたいなノリで話していたのに。何をやっているんだ、この人は。と少し呆れていたのは表に出さず、私は作業を続けた。しかし、本気で体調が悪くなったらしい先輩はしばらく奥でオーナーと話していると、その日は早退してしまった。
 結局、先輩はそのまま一週間ほど休みを取った。その間、女の先輩も連絡を取って、体調を確認していた。バテてしまった当日も、女の先輩は夏バテに効く食べ物を調べたり、運動不足解消に週末に散歩に誘ったり、と献身的な印象だった。
「優しいですね、色々調べてあげて。」
私が横からそう声をかけると、女の先輩は
「まあ、人数欠けるとこっちが困るから。」
とドライな返答。でも笑っていたし、先輩の性格を考えると照れ隠しなんだろうな、と思った。
 復帰した初日、男の先輩は女の先輩やオーナーにはもちろん、私にまで、お騒がせしました、ご迷惑おかけしました、と謝ってまわっていた。私がいつも通り仕事をしているとき、私は女の先輩がいる店の奥の方からピリピリとした空気を感じた。
「新人ちゃんたちじゃあるまいし、あんたにそんな優しい言葉でいちいち注意できないから」
女の先輩が男の先輩に何か言っているようだった。しかし、女の先輩がサバサバした対応なのはいつもの事だったし、私は私で注文をこなすのに忙しく、まるで気にしていなかった。男の先輩も別にいつも通りに見えた、その時は。
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