ネズミ処理

文字数 3,433文字

 ある時期、唐揚げ屋さんにネズミが大量発生するという事件があった。初めに見つけたのは女の先輩だった。炊飯器を載せていた移動式台を動かそうとしたとき、裏からネズミの死骸が出てきたのだ。
「うわっ!」
こんな時でも可愛らしい悲鳴が出ない女の先輩がやっぱり好きである。私は怖いというより気持ち悪くて見られなかった。女の先輩はすぐさまオーナーに連絡した。オーナーは普段どおり驚いた様子も見せず、割とすぐにお店にやってくると、新しいネズミトラップを店のあちこちに仕掛けた。地下から戻ってくると
「二匹も捕まってたよ、ははっ」
とまた愉快そうに袋に入れてゴミ箱に捨てた。オーナーの脳と心臓は緩衝材で覆われているんじゃないだろうか。その間、私はネズミってレストランで出たら結構衛生的にまずいことだよね、と思っていたけれど、とりあえず黙ってその日はなるべくゴミ箱に近づかないようにやり過ごした。
 しかし、ネズミ事件はそこで終わらなかった。私が一人で開店作業をしていた時のこと。その日はオイル交換をしなくてはならない日だった。オイル交換をする時はオイルを蛇口から取り出しながら、下の方に溜まった揚げカスたちもきれいに取り除かなくてはならない。その為に、L字型の鉄棒を使うことがあるのだが、その日はそれをフライヤーと壁の間に落としてしまった。慌てて拾おうとしたときのこと。
「ひっ」
なにか紐のように細いものが見えてしまった。そう、ネズミの尻尾だったのだ!色素が抜け落ちたように干からびたそれは私の目に焼き付いてしまった。私は急いでそこから離れて携帯を探した。お店のグループメッセージでネズミが再び発見されたことを伝えた。メッセージを高速で打ち終えてようやく息を吸い込む。自分を落ち着けるように薄暗い店内を見回した。吊るされた電球、エアコン、冷蔵庫、テーブル、椅子、食洗器、先輩のノート。誰か早く何か言ってくれないだろうかと思いながら携帯を握りしめていると、ぴこんと通知音が空虚な店内に響く。
「捨てておいてくれるかな」
オーナーからだった。笑いながら困っている絵文字と一緒に。
私は自分の顔が強張っているのがわかった。衝撃と少し怒りも混ざって。こんなバイト始めて数カ月の一番若い女の子にネズミ捨てさせるか普通!?汗がじわじわと湧いてきて何故だか緊張感と焦りが全身を駆け巡っていた。もう一度、フライヤーのところへ戻ると、そこには変わらず横たえたネズミがいる。全身を凝視することはできないにしろ、どうにか捨てなければならない。刻一刻と開店時間が迫っている。私は一度落ち着こう、と他の準備を先に始めた。すると、カランとドアに付いているベルが鳴って、そこには男の先輩がイヤホンを外しながら入ってくるところだった。私が固まったまま先輩を見つめていると、ふっと私の視線に気づいた先輩は無言で目を見開き、なに?と聞いてくる。
「メッセージ、見ました?」
「いや、見てないけど」
私はネズミの死骸がフライヤーの後ろにいることを伝えた。男の先輩は「まじで」と言いながら私とオーナーのメッセージを確認する。そして荷物を置くと、迷いもせずフライヤーのところへ向かった。そして私がオーナーの発言に衝撃を受けた話をしている内に、男の先輩は使い捨てゴム手袋と紙袋を二重に使ってあっという間にネズミを捨ててしまった。
「ありがとうございます」
私が間抜けみたいに口を半開きにしていると
「いいえ」
男の先輩は安堵が混じった満足気な笑顔で何ともないように「じゃあ、準備してくる」と奥のスペースに消えていった。こう言っては偉そうかもしれないが、私はこの時男の先輩を初めて見直した。
 しかし、これで終わりではないのだ、私とネズミの遭遇物語は。
 また違う日の開店準備をしていると、炊飯器の裏から再びそいつは現れた。今度はしっかりと、私の視界はそいつの全体を捉えてしまった。痩せ細ったそいつはトラップに挟まれて体がぺしゃんこになっていた。私は思わずぎゅっと目をつぶった。覚悟を決めなければいけない。とりあえず、ネズミの死体が触れた空気の届かない場所まで言ってから深く呼吸をする。
 いつまでも男の人に頼るような女でいたくないのだ、私は。今度は自分でこのネズミの処理をしてみせる。変な場面で私の負けず嫌いが滾り、私は震えそうな手でゴム手袋に手を伸ばした。さらっとした素材のゴム手袋の中で自分の指の隙間だけが手汗で湿っていた。そして紙袋を掴む。ネズミを感じなければいいのだ。袋に入れてしまえばこちらの勝ちだ。私は唇の裏側を口の中で甘噛みしながら、じりじりと炊飯器に近づく。ゆっくりとしゃがみこんで、台の下を覗く。
「いぎやあぁぁぁー!!!」
瞬発的に台から逃げるように飛びのける。実際によく見てしまった。動物であれ、死体は死体だ。生理的に何かが拒否反応を起こしている。
「いいいいい、無理無理無理」
独り言は多い方だが、こんなに大きな独り言は初めてだ。
 しかし、叫んだとて誰にも聞こえないし、誰もいないのだ。私は拳を握りしめて再び炊飯器の台へ向かう。そう、見なければいいのだ。大体の位置は把握している。あとは、見ないように、そしてネズミ本体を触らないように、トラップ板を引き寄せればいいのだ。いや、よく見ないで薄いトラップ板を確実につまみだすなんて可能なのだろうか。1センチずれればネズミをしっかりタッチしてしまうことになる。私は慎重も慎重、石橋を1ミリずつ叩きながら手を伸ばす。
 カラン。
「うわあああああ!!!」
静寂に突然音が飛び込んできたので私はまた反射的に立ち上がる。
しかし、驚いた私に驚いているのは出勤してきた男の先輩だ。
「また、ネズミ?」
察しの良い先輩は静かにキッチンへ入ってくる。特に抵抗も見せず、炊飯器台の下を覗きこむ。「うわ」
男の先輩はそう言いながらねずみの死骸を確認した。素早く行動しそうな先輩が動き出す前に私は、今日は自分で処理しようと頑張っているところだということを説明した。
「そうなん?」
男の先輩は明らかに不安そうだったが、少し離れたところで私が騒ぎながら格闘する様子を見守った。しばらくして、時間がかかると見た先輩は「使い捨てのお箸使っちゃえば」と結局トラップ板を引き寄せるのを手伝ってくれたり、すぐそばで紙袋を抑えていてくれたりした。まるで自分でやりたがる子供とそれをあやす親みたいだ。
 どうにかこうにか紙袋に死骸を収めた私は一息つく。
「はあああ」
自分で全部やりきったわけではないので微妙にスッキリしていないのと、未だにネズミが出てきてしまうお店にもムカついていた。今後しばらくは地下に行くときも緊張してしまうだろう。死骸に出くわすのも嫌だが、ちょろちょろ動き回る生きたネズミに遭遇してしまうのも嫌だ。
 それにしても炊飯器の裏やフライヤーの裏から出てくるということは、一匹ではないネズミたちが夜中の誰もいない店内を駆け回っているということだ。背中がぞわっとしてしまう。ネズミだけではない。地下は特に薄暗いし、運び込まれた段ボールの山がある。虫がたくさん出てきそうだ。人間も動物も虫も生きるのに必死なのだから仕方ないけれど、怖がらせないでほしいというのが女子大生の正直な意見だ。原始人は動物を殺しながら生き延びていたのだし、動物の死骸なんかでビビることはないのだろうな。それとも、その時代でも若い女の子や赤ん坊には見せないようにしていたのかしら。いくら私が強がっても、結局のところ私は甘ったれた時代に生まれ落ちた弱い生き物だ。こんなに自分より小さい、しかも死んでいる動物に怖がっている。いつから若い女子の大半は虫やネズミが嫌いというイメージが出来上がったのだろう。そして、いつから実際に大勢がそのイメージに当てはまるようになったんだろう。はあ、情けない。原始人と比べても仕方ないんだけれど。
 大急ぎで開店準備を終えると、開店時間前にフードデリバリーの配達員がお店にもう来ている。注文はまだ来ていないはずなのに、と一瞬焦ると男の先輩がすぐに駆け寄る。どうやら男の先輩が頼んだ品が届いただけのようだ。
「はい。」
と手渡されたのは私のお気に入りの抹茶ドリンクのホイップクリーム増し。
「頑張ったからご褒美やな」
そういいながら男の先輩は腰を下ろして自分の同じくらいの甘党ドリンクにストローを指す。
お礼を言い終わった時には、もう原始人との比較なぞ忘れていた。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み