オイルと空き巣

文字数 2,255文字

 一人での開店作業を任されてから程なくして、オイル交換というものを教わった。フライヤーの中にある油を抜いて、フライヤーを掃除して新しい油を注ぐというものなのだが、これがまた大変。私が一番嫌いな作業だ。古い油は臭いし、重い。あまりにも耐えられない臭さなのでなるべく息を止めながら行う。それに、普段一時間弱で済ましている開店準備の半分をこのオイル交換に取られてしまうのも難点。古い油は地下にあるタンクへ戻し、業者が回収するのを待つ。でもこの地下の階段が意外と急で、重いオイルをもって運ぶのはなかなかキツい。最初の一回、二回は頑張ったが、ふらふらしている私を危険とみたオーナーが次回から男の先輩に頼むよう言ってくれた。こんなバイト始めて数カ月の学生に開店作業もオイル交換も一人で任せちゃうなんて、結構大胆な店だなここは、なんて考えていた。
 なんとか二回目のオイル交換を終えた日。開店時間になると女の先輩がやってくる。しかし、この時私は不慣れだったせいで、準備時間のほとんどをオイル交換に費やしてしまい、他の準備が中途半端なままだった。それを見た女の先輩は
「次回、うちも一緒に来て早くやる練習しよう」
と言ってくれた。
 事件は次の日起きた。家を出るのが遅くなり、数分いつもより遅めにお店に到着すると女の先輩がまだ私服のまま携帯を片手に立っていた。
「どうしたんですか?」
「空き巣に入られてん。」
女の先輩は淡々とそう言った。連れられて入口まで戻ると、入口脇のガラスが割られている。
「パソコン取られた」
女の先輩が少し楽しそうに見えたのは気のせいだろうか。確かに、いつもテーブルにどっしり構えているデスクトップパソコンが忽然と姿を消していた。
「まあ、あのパソコンには大した情報入ってないんやけど」
と言いながら女の先輩はオーナーに電話した。先輩の言う通り、あのパソコンは音楽を流すか、食材の注文をするときにしか触らず、大事な用事は全てオーナーのラップトップパソコンで行っているはずだ。準備時間が刻々と減っていく中、私たちはどうすることもできずオーナーの到着を待つしかなかった。
「開店できるかもわからへん」
「そうですか」
私は深刻な面持ちを保ちつつ、ちょっと非日常な状況をこっそり楽しんでもいた。
 オーナーはなかなか到着しなかった。女の先輩はしきりに窓の外を見ながら、全然来うへんな、とずっと言っていた。そして三十分ほど待っただろうか。ようやく見慣れた車がお店に到着した。もっと焦った表情を期待していた私が拍子抜けしたほど平和な家族三人が出てきた。
「ヘーイ」
満面の笑顔の奥さんと寝ている赤ちゃん。どうやらオーナーが色々ガラスの修理だとかもろもろやる間、奥さんがお店で警察との対応をするらしかった。ちなみに奥さんは、オーナーとこのお店を立ち上げた仲間の一人で、妊娠する前はがっつりお店で働いていた、いわば私の大先輩にあたる。だから、お店のことはちゃんとわかっているし、むしろ英語対応は任せろ、といった立ち位置だった。
 それからその日は結構楽しかった思い出がある。オーナーの奥さんが皆にドリンクを奢ってくれて、男の先輩も到着してから一時間遅れで開店した。警察にはどこも触るな、と言われていたけど女の先輩はガラスのところさえ触らなければいい、と独自の判断を下し、結局いつも通りの営業を行った。オイル交換も特に急がず、普通にこなした。お客さんに窓のことを心配され、空き巣が入ったことを説明しては毎回一盛り上がりした。
 オーナーが帰ってきて、携帯に映る防犯カメラの映像を見せてくれた。白人っぽい帽子を被った男性の若者が金槌でガラスを叩いて割るところがきっちり収まっていた。あちこちレジの周りを探すけれど、私たちはいつもレジの中身をちゃんと隠してあるので見つけられずに焦ったのだろう、とりあえず大きなパソコン一つを抱えて一分も経たない間にお店を出て行った。オーナーもまた、楽しそうな表情で
「このパソコンいくらしたと思う?」
と私に聞く。デスクトップパソコンの相場を知らない私が考えていると、
「百ドル(約八千円)くらい」
とオーナーは言って、いたずらした子供のようにニヤッと笑う。
「中古品で激安だったんだよねえ」
まるでお買い得商品を買ったかのようなご機嫌っぷりだ。
 というわけで、この空き巣事件は唐揚げ屋さんとしては窓の修理費くらいの損害で、修理もすぐ行われて、数日後にはみんな事件があったことすら忘れていた。犯人の行方もわからないけれど、皆警察が犯人捜しも何もしないことは最初から承知の上だったので特に気にしてもいなかった。ただ一人、男の先輩は自分のビザや大切な書類なり個人情報なりがあのパソコンに入っていたらしく心配していたが、まさかあのパソコンから先輩の情報を使って悪事を働く奴はいない、と判断したのだろう、すぐ何も言わなくなった。
 何かと発砲事件や物騒な事件が増えてきたこの街だが、私は事件というものを初めて身近に感じた。大した規模ではないのだろうけど、悪事を働こうとする人が実際にいること、そして悪事を働かなければならないほどお金に飢えている人がいるという事実を改めて実感する事件だった。
 強盗ではないので大して困りはしなかったかもしれないが、あの日女の先輩が偶然一緒に開店準備をしてくれる日で、偶然私が遅れた日の朝に空き巣は来た。落ち着きがなく、すぐパニックを起こしそうな私を、なんだか過保護なご先祖様か何かが守ってくれたような気分だった。
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