第七日に休まれた。-2
文字数 2,675文字
それが比喩でも、比喩じゃなくとも困る。急に鼻の奥がツンとして目玉が熱くなったと思ったら涙が溢れるものだから、彼は両手で顔を覆って声も出さずに肩を震わせた。
「泣かないで」
と、察したロキが言う。お前のせいだと言いたいのに声は喉に貼り付いたままだ。
「無理やり何かするわけじゃないよ、怖がらせてごめんね」
言葉は悪びれたようなものを選んでいるのに、ロキの声はとても楽しそうに弾んでいた。
「好きなんだよ」
初めてベッドに潜り込んできた日の夜と同じことを言う。こんなぼくの何処がいいんだ、と聞くのは怖い。たった二ヶ月で好きだと思える神経も理解ができない。そもそも、ロキの好意は友人としてのものなのか、異性に抱くのと同じ恋愛感情なのかもわからなかった。どうにかなりたいと言うのだから友人としてではないだろうけれど、恋愛に慣れている人はそんなに簡単に誰かを好きだと思って、繋がりたいと願うのだろうか。
「やさしい君がすきなんだ」
重ねて言うロキの気持ちがわからない。わからないから怖くなる。こんなぼくなのに、と彼は泣きながら思う。身なりに気を遣うこともなければ人と目を合わせて話すこともできず、ドン臭くて真面目なことだけが取り柄のぼくを好きになる人なんかいない。好きになってもらいたいとも思わない。そんなだから友達もいないし、自分の意見を言えないから、騙して都合のいい扱いをするにはちょうどいいんだろう。言い聞かせるように思うだけで、左胸の奥がぎゅっと縮んで痛んだ。
誰か、あの感情の名前を教えて欲しい。
ろくに眠れないまま明け方を迎え、彼はベッドに起き上がった状態で放心する。ロキはいつも通り、ソファで静かに眠っている。静かに泣き続ける彼が泣き止むには離れたほうがいいかと聞かれたので、無言で頷いたらおとなしく従ったのだ。
早く出て行かないかと思うのに、二度と会えないのはつらい。そんな矛盾した感情の名前を、彼は知らない。
遠い昔から知っていたような気がする温もり。ペットを飼ったことなんか一度もないのに、超大型の獣の腹を枕にし、長い毛足に包まれて眠る安堵を覚えている。
あなたはいったい、誰なんですか。どうして、幼馴染に再会したときのように懐かしそうな顔をして笑うんですか。顔も名前も知らない他人だったのに。生きる世界が真逆の人間同士なのに。
好きだと言われても困ってしまうはずなのに、どこかで悦んでいる自分がいる。ぼくもだよ──手放しで言ってしまいたい衝動が沸く。ロキのことなんか一ミリも知らないし、興味もないのに。
「──おきて、起きてショウリくん」
肩を揺さぶられて目が覚める。薄目を開けた視界には、慌てた様子のロキがいる。どうやら座ったまま壁に頭と肩を預けるうちに眠ってしまったようだった。
「たいへん、八時半だよ」
ロキの言葉が頭の中で実を結び、理解した途端、血の気が引いた。
「遅刻だ……!」
慌ててベッドから出ようとした身体は、なぜかロキに抱擁される。
「休んじゃえ」
彼が思いもしなかった言葉を囁いて、ロキが悪戯っぽく笑う。
「今日は俺と一緒にいよ、二人でのんびりダラダラしよ」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、ロキに背を向けた状態で足の間に抱かれながら、観たいと思って溜め込んでいた映画やドラマ、アニメの数々をただただ眺める無為な時間の想像が過ぎった。想像の中にロキがいるのが当たり前になっていて、膝に抱かれるのは子どもみたいだし望んでもいないけれど、ほんのちょっぴり、それもいいなと思う自分に面食らう。
「ふざけないで……!」
ロキの胸に両手を押し当て、どうにか突き放そうと力を込める。全力を出しているのにビクともしないのはさすがに泣きたくなってくる。
「たまには休みなよ」
腕の中で悪足掻きする彼の顎をくいと掬って上向かせ、ロキが目を合わせてくる。頬にかかる前髪の奥の瞳を覗くようにされるのは苦手だ。ともすれば唇が触れ合いそうな距離感は、もっと苦手だ。
「倒れそうで心配なんだ」
言葉通りに心配そうなロキを見て、顎を掬う手を乱暴に払った。それだけで手と胸が痛んだけれど、気にしてなんかいられない。
「だったら、早く、出て行けばいいのに」
まだどうにか遅刻せずに済むところを邪魔されて、彼は非常に苛立っていた。だから思わず本音が零れてしまってハッとする。いい気味だ、とは思えなかった。きょとんと瞬きするロキを傷つけてしまったと舌の付け根が苦くなる。
「……うん」
ロキが苦笑いする。そんな顔をさせたいわけじゃないのだ。いつか、もっと平和的に、ロキを傷つけない言い方で遠回しに退去を願おうとは思っていたけれど、彼のコミュニケーション能力は決して高くない。たぶん、どれだけ気を使ったとしても、同じことになっていただろう。
「それはわかってる、ごめんね」
彼は深く俯いた。苦い顔で謝るロキを見ているのはつらかった。
ロキは仕事を探しているけれど上手くいっていないのかも知れないし、だからこそ新しい住まいが見つからないのかも知れないのに、居座るつもりだと決めつけてしまうのはどうなんだろうと思う。出て行けと舌に載せてしまった以上、今更なことだけれど。
他人とはどうしても馴染めない。誰かと一緒にいるということは、相手の気持ちを考えなければならないし、集団においてはその場の空気をひたすら読んで行動しなければならない。意に沿わないと嫌われる。けれど、彼にとってこの国の社会や人付き合いというものはどうしても苦手で、どれだけ頑張ったところで得られないスキルだった。こんなに必死に生きているのに、と、何度、泣きながら思ったかわからない。だから一人で生きていこうと決めていたし、誰とも混じり合わないようにしていた。
初めてロキに話しかけられたとき、やっと逢えた、と誰かが叫んだ。身体の奥から震えるほどの悦びが湧き上がって、ぼくに気づいて、と全身の細胞が訴えかけていた。気のせいだと言い聞かせて流した気持ちを思い出す。二度と会えなくなるのは死ぬよりつらいことなんだと、誰かが頭の中で懇願している。
ロキは今日、出て行くかも知れない。
ふと過ぎった直感に、彼の体温は二度ばかり下がった気がした。心が震えて、心臓に冷たい風が当たる。
彼が仕事に出掛けたら、さよならも書き置きもなく、居なくなってしまうかも知れない。帰って来たら部屋は真っ暗で、彼が望んだ通りの孤独が待っていて、ロキの姿も気配もなく、聖域を奪還できるのだ。
気づいたら、ロキが着ているスウェットをぎゅっと握りしめる自分がいた。
「泣かないで」
と、察したロキが言う。お前のせいだと言いたいのに声は喉に貼り付いたままだ。
「無理やり何かするわけじゃないよ、怖がらせてごめんね」
言葉は悪びれたようなものを選んでいるのに、ロキの声はとても楽しそうに弾んでいた。
「好きなんだよ」
初めてベッドに潜り込んできた日の夜と同じことを言う。こんなぼくの何処がいいんだ、と聞くのは怖い。たった二ヶ月で好きだと思える神経も理解ができない。そもそも、ロキの好意は友人としてのものなのか、異性に抱くのと同じ恋愛感情なのかもわからなかった。どうにかなりたいと言うのだから友人としてではないだろうけれど、恋愛に慣れている人はそんなに簡単に誰かを好きだと思って、繋がりたいと願うのだろうか。
「やさしい君がすきなんだ」
重ねて言うロキの気持ちがわからない。わからないから怖くなる。こんなぼくなのに、と彼は泣きながら思う。身なりに気を遣うこともなければ人と目を合わせて話すこともできず、ドン臭くて真面目なことだけが取り柄のぼくを好きになる人なんかいない。好きになってもらいたいとも思わない。そんなだから友達もいないし、自分の意見を言えないから、騙して都合のいい扱いをするにはちょうどいいんだろう。言い聞かせるように思うだけで、左胸の奥がぎゅっと縮んで痛んだ。
誰か、あの感情の名前を教えて欲しい。
ろくに眠れないまま明け方を迎え、彼はベッドに起き上がった状態で放心する。ロキはいつも通り、ソファで静かに眠っている。静かに泣き続ける彼が泣き止むには離れたほうがいいかと聞かれたので、無言で頷いたらおとなしく従ったのだ。
早く出て行かないかと思うのに、二度と会えないのはつらい。そんな矛盾した感情の名前を、彼は知らない。
遠い昔から知っていたような気がする温もり。ペットを飼ったことなんか一度もないのに、超大型の獣の腹を枕にし、長い毛足に包まれて眠る安堵を覚えている。
あなたはいったい、誰なんですか。どうして、幼馴染に再会したときのように懐かしそうな顔をして笑うんですか。顔も名前も知らない他人だったのに。生きる世界が真逆の人間同士なのに。
好きだと言われても困ってしまうはずなのに、どこかで悦んでいる自分がいる。ぼくもだよ──手放しで言ってしまいたい衝動が沸く。ロキのことなんか一ミリも知らないし、興味もないのに。
「──おきて、起きてショウリくん」
肩を揺さぶられて目が覚める。薄目を開けた視界には、慌てた様子のロキがいる。どうやら座ったまま壁に頭と肩を預けるうちに眠ってしまったようだった。
「たいへん、八時半だよ」
ロキの言葉が頭の中で実を結び、理解した途端、血の気が引いた。
「遅刻だ……!」
慌ててベッドから出ようとした身体は、なぜかロキに抱擁される。
「休んじゃえ」
彼が思いもしなかった言葉を囁いて、ロキが悪戯っぽく笑う。
「今日は俺と一緒にいよ、二人でのんびりダラダラしよ」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、ロキに背を向けた状態で足の間に抱かれながら、観たいと思って溜め込んでいた映画やドラマ、アニメの数々をただただ眺める無為な時間の想像が過ぎった。想像の中にロキがいるのが当たり前になっていて、膝に抱かれるのは子どもみたいだし望んでもいないけれど、ほんのちょっぴり、それもいいなと思う自分に面食らう。
「ふざけないで……!」
ロキの胸に両手を押し当て、どうにか突き放そうと力を込める。全力を出しているのにビクともしないのはさすがに泣きたくなってくる。
「たまには休みなよ」
腕の中で悪足掻きする彼の顎をくいと掬って上向かせ、ロキが目を合わせてくる。頬にかかる前髪の奥の瞳を覗くようにされるのは苦手だ。ともすれば唇が触れ合いそうな距離感は、もっと苦手だ。
「倒れそうで心配なんだ」
言葉通りに心配そうなロキを見て、顎を掬う手を乱暴に払った。それだけで手と胸が痛んだけれど、気にしてなんかいられない。
「だったら、早く、出て行けばいいのに」
まだどうにか遅刻せずに済むところを邪魔されて、彼は非常に苛立っていた。だから思わず本音が零れてしまってハッとする。いい気味だ、とは思えなかった。きょとんと瞬きするロキを傷つけてしまったと舌の付け根が苦くなる。
「……うん」
ロキが苦笑いする。そんな顔をさせたいわけじゃないのだ。いつか、もっと平和的に、ロキを傷つけない言い方で遠回しに退去を願おうとは思っていたけれど、彼のコミュニケーション能力は決して高くない。たぶん、どれだけ気を使ったとしても、同じことになっていただろう。
「それはわかってる、ごめんね」
彼は深く俯いた。苦い顔で謝るロキを見ているのはつらかった。
ロキは仕事を探しているけれど上手くいっていないのかも知れないし、だからこそ新しい住まいが見つからないのかも知れないのに、居座るつもりだと決めつけてしまうのはどうなんだろうと思う。出て行けと舌に載せてしまった以上、今更なことだけれど。
他人とはどうしても馴染めない。誰かと一緒にいるということは、相手の気持ちを考えなければならないし、集団においてはその場の空気をひたすら読んで行動しなければならない。意に沿わないと嫌われる。けれど、彼にとってこの国の社会や人付き合いというものはどうしても苦手で、どれだけ頑張ったところで得られないスキルだった。こんなに必死に生きているのに、と、何度、泣きながら思ったかわからない。だから一人で生きていこうと決めていたし、誰とも混じり合わないようにしていた。
初めてロキに話しかけられたとき、やっと逢えた、と誰かが叫んだ。身体の奥から震えるほどの悦びが湧き上がって、ぼくに気づいて、と全身の細胞が訴えかけていた。気のせいだと言い聞かせて流した気持ちを思い出す。二度と会えなくなるのは死ぬよりつらいことなんだと、誰かが頭の中で懇願している。
ロキは今日、出て行くかも知れない。
ふと過ぎった直感に、彼の体温は二度ばかり下がった気がした。心が震えて、心臓に冷たい風が当たる。
彼が仕事に出掛けたら、さよならも書き置きもなく、居なくなってしまうかも知れない。帰って来たら部屋は真っ暗で、彼が望んだ通りの孤独が待っていて、ロキの姿も気配もなく、聖域を奪還できるのだ。
気づいたら、ロキが着ているスウェットをぎゅっと握りしめる自分がいた。
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