羊飼いのゆめ-5

文字数 2,569文字

 好きなのにどうしようもない。好きだからもっと深く繋がりたいのに、できない。もどかしさが喉に詰まって胸を焼く。込み上げる感情を押し殺すことができなくて、嗚咽する。
 やっぱり、ロキは違う誰かと結ばれたほうがいい。トラウマで身動きが取れないような彼じゃなく。キスも、ハグも、セックスも、全てが順調に受け入れられる誰かと。
 いかないで、と誰かの声が悲痛に叫んでいた。もう二度とその手を掴めないと知っているからこそ、その声は切に願っていた。
 おねがい、いかないで、──!
 不意にスマホが着信を告げてびくりと震える。涙に濡れた顔を上げてテーブルの端末を見ると、ロキの名前が表示されていた。
「……はい、」
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら出る。
「ちょっと、ショウリくん、今どこ」
 ロキが怒っていた。
「具合悪いって言うから予約分で切り上げて帰って来たら居ないし、どこで何してんの」
 いつもは軽やかなロキの声が、怒りを滲ませて低くなっている。怖い、と思う前に、
「……ぼく、もうだめかも知れない」
 絶望に触れた声で答えていた。
「……えっ?」
「もう、ロキさんに会えない……」
 怒りと戸惑いと困惑に揺れる声がしたけれど、何を言っているのかは聞き取れなかった。スマホを持つ手が落ちていく。
 だって、このままじゃいけない。ロキの手で触ってもらって達することはできたけれども、それだけじゃ不公平だ。なのに、先には進めない。拭いきれない嫌悪が彼の中に横たわり、深く根を張っているために、繋がりたいと願うロキには応えられない。だからこそ、違う道を選んだほうがいい。様々な思い出と記憶が鮮やかに脳裏を駆け抜ける中、彼は子どものように泣いた。幸せになりたいのになれないジレンマは、彼を本物の孤独の底に突き落とした。
 ひとりで生きていこうと決めても、彼は孤独を知らなすぎた。誰とも繋がれないし報われないことこそが本当の孤独なのだと、あまりに知らなすぎたのだ。
「……ここに居た」
 どれだけ泣いただろう。頭が痛いし瞼は重いし、なのに次から次に溢れる感情で涙は枯れないし。延々と流され続け、ようやくしゃくり上げるだけになった頃、心から安堵した声が聞こえた。
「なにかあったのかと思うじゃん、うちにいるって何で言ってくれないの」
 ソファで膝を抱える彼の傍に来て、責めるでなく、ひたすら心配してくれる誰か。掴み返してはいけない手が触れて、枯れたはずの涙が溢れる。
「どうしたの、誰かに変なこと言われたの?」
 背中をさすってくれる大きな手は温かくて、こんなにも優しいのに。いつだって彼を最優先してくれるのに。永い時間を漂いながら探し続けていたのだろうに、ここでもまた、一緒にはなれない。
「……わかれる」
 彼が顔を伏せたまま、どうにか絞り出した言葉に、ロキの手が止まった。
「……もう、一緒にいたくない」
 初めて、人を傷つける嘘をついた。そんな初めては必要ないのに、ロキを遠ざけるためだった。
「──そっか」
 ロキの声は穏やかだった。予想していたより呆気なく、ロキは別れを受け入れた。
「無理させてごめんね、いっぱい傷つけちゃったね、ごめんね」
 責めてくれれば楽なのに、ロキはどこまでも、彼を気遣う。
 もっと必死に縋るのかと思っていた。そんなこと言わないでとごねるのかと思っていた。犯罪まがいの方法で近づいてきたのに、ロキは最初から、彼の気持ちしか考えていない。
「ごめんね……」
 ロキの手が彼の背中から滑り落ちた。ずっと一緒に生きてきた大事なものが激痛と共に剥がれ落ちて、空っぽになってしまった気がした。
「でも、ずっと、あいしてるよ」
 ロキが静かに言った。離れていこうとする手を、咄嗟に掴んでいた。
 ふふ、とロキが笑う。
「ぐしゃぐしゃ」
 涙と鼻水と、なんだかよくわからないもので汚れた彼の頬を両手で包んで、
「ちゃんと話してごらん」
 下から覗き込むように目を合わせてくる。その瞳はどこまでも甘く、澄み渡る湖のように深く、何よりも真っ直ぐに彼だけを見つめている。
「もう、ひとりで傷つかなくていいんだよ」
 大きな音を立てて、彼の中で何かが壊れた。お前が悪いと責めるクラスの目を、母親の目を見たくなくて、何も話せなくなっていったことを、やっと思い出す。とても怖かった、とても嫌だった、気持ち悪かった、でも言えなかった──溢れ出した当時の気持ちが彼を激流に押し流し、再び涙が溢れてくる。
「ぼく、」
「うん」
「ぼく、本当は、」
「うん」
 彼を見つめるロキが見えなくなった。
「全部、ぜんぶ、つらかった……!」
 彼の慟哭をロキがそっと抱き締める。温もりと感触だけでロキの存在を実感しながら、彼は再び声の限り、子どものように泣き叫んだ。優しい温もりの背中にしがみつきながら、これまでの人生で押しとどめていたぶんを発散するように、溢れるままに声を上げた。
 誰とも混じり合えなかった。友達のいない彼につけ込んだ大人に汚された。みんなに責められた。言葉も思いも封じられたから、日陰に生きる雑草になった。
「……ぼく、はじめてはロキさんがいいって、思って、」
「うん」
 少しだけ落ち着き、ひっくひっくとしゃくり上げるだけになってから、ぽつぽつと経緯を話す。そんな彼の背中をあやすように叩きながら、ロキはずっと相槌を打ってくれている。
「触ってもらうの、平気だったから、だいじょうぶだって思って、えっちの仕方、見てみようって思って、」
「うん」
 とん、とん、と穏やかなリズムが心地いい。それでどうにか冷静になってきたけれど、とんでもないことを告白させれられている気がしなくもない。
「でも、気持ち悪くなっちゃって、ぼくじゃロキさんになにもしてあげられないって、だから、」
「嘘でも別れるって言ったの?」
 彼の言葉の先を読むロキに、コクンと頷く。
「あのね、ショウリくん、前も言ったけど、セックスが全てじゃないんだよ」
「でも、」
「俺はもちろん外でするつもりはないし、ショウリくんとはセックスしなくてもいいと思ってる」
 言われて、少しだけ身体を離し、ロキを見る。泣き腫らした酷い顔が瞳に映る。
「ぼくができないから……?」
 哀しげに歪む自分の顔をロキの瞳に見ていると、
「違うよ、できるできないじゃなくて、それ以外で満たされてる」
 ロキが当たり前のように言う。
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