聖別-4

文字数 2,669文字

「ショウリくん」
 名前を呼ばれて顔を上げると、
「手、貸して」
 ロキの大きな左手がそっと差し出されるから、裾を掴む手をおずおずと伸ばし、触れた。筋張った男らしい手が、彼の華奢な右手を握る。ここは往来で、周囲に人目もあって、ごった返す人混みだというのに、二度と逢えなくなってしまわぬよう、ぎゅっと力強く繋がれるから。出逢えて良かったと噛み締めながらそろりと指を這わせ、気づいたロキが僅かに力を緩めた隙に、指を絡めて貝殻合わせに繋ぎ直した。
「……ふふ」
 ロキが嬉しいときの声で笑う。この笑い方がとてつもなく好きで、思わず強く手を握った。
「ショウリくんの手、ちょっと汗ばんでる」
 囁くように言われて、彼が慌てて手を離そうとするのを阻止するように握られる。あぁ、そうやって握り返す口実を作るのかと気づき、顔から火が出そうだと思って俯く。
「年明けまでなにしようか」
 ロキがさり気なく話を変えた。外気で冷えた指先同士が互いの体温で温もっていくのを感じながら、彼はそっとロキを見上げて、
「観たい映画があるから、その……抱っこ……されて、観てみたい」
 甘えてみる。
「それはいいけど、あんまり長くくっついてると、我慢できなくなるかもよ」
 それはロキの冗談半分の言葉だと知っているから頷いた。少し驚いたような顔をして、ロキが彼を見る。
「そのときは、殴る」
 人を殴ったことなどない手で、ぎゅっとロキの手を握る。程なくロキが握り返して呼応する。
「ちょっと殴られてみたいかも」
 その呟きには少し引いた。露骨に顔に出たらしく、ロキが楽しそうに笑っている。
「じゃあ、行き先変更」
 歩行者用信号が青に変わったタイミングでロキが言った。
「えっ」
「俺んち行こう」
 それは完全にアウェイに連れ去られるわけで、状況はロキの有利になってしまう。慌てる彼の反応を見るまでもなく、
「嫌なことはしないから大丈夫」
 ロキに言い聞かせるように言われる。
「約束、破ったら、殴っても蹴ってもいいから」
 先ほどの殴られたい発言が冗談であれ、それは少し笑えなかった。彼の必死の抵抗すら悦んで受け流し、キスの先へ進もうとするロキをありありと想像できるからだ。
 いくらか青ざめたのだろう。ロキが気づいて、
「ごめん、絶対に変なことしないよ、約束する」
 懇願する。少しだけ考えたあと、微かに頷いた。
 一週間ぶりに訪れるロキの部屋は、留守がちなのに綺麗だった。大掃除の必要なんかなさそうなのに、「昨日からこっちにして片付けちゃえば良かった」なんて言いながら食材を冷蔵庫に移している。
 家事の中で炊事はやらず、洗濯や掃除は最低限だった彼からすれば、ロキは充分にマメだ。ロキと結婚する人は幸せだろうな、と何気なく考えて、心臓に冷たい風が当たったような心地になる。いつか、そんな日が来るのかと思うと、悲しいでは済まないほど泣きたくなってしまう。
「どうしたの?」
 勝手に深く絶望したまま立ち尽くしていると、買い出しした荷物を一通り片付けたロキから声が掛かった。遠い未来の可能性を考えていたのだとは言えず、
「なにか、手伝うこと、ありますか」
 短く言葉を区切ることで、声が震えないように努めた。
 ふっ、とロキが笑う。
「敬語なんていいのに」
 先日、寝る前に少し話し込んだ際、ロキのほうが一歳だけ下だとわかった。だからこそ、敬語を使うと他人行儀に感じると言われたし、付き合っているのだからと使わないようにしていたものの、動揺すると出てしまう。
「じゃあ、お風呂の掃除、お願いしようかな」
 ロキは急に他人行儀になった彼の態度を問い詰めることなく、さらっと頼んできた。夜には浸かるのだから掃除は必須だとしても、お風呂、という単語は改めて、彼にいろいろ想像させてしまう。
 一週間前、ほろ酔いの勢いでそういうことになって、初めて二人で一緒に入り、互いの無垢な姿を見た。それ以来、同じベッドで添い寝することはあっても、一緒にシャワーを浴びることはなかったし、キスより先を求められたこともない。
 ロキのホームに来て、買い込んだ惣菜なんかを温め直し、つまみにしながら軽く飲んで、映画やテレビを見て年を越したあと。また酔った勢いで一緒に入って、キスをして、それから──。
 変なことはしないよと言った通り、ロキからは先に進もうとしないだろう。我慢できないなんて言いながら、彼が頷かない限りは触れてこないのだ。そこはしっかり守られている。だから安心してくっついていられるし、同じベッドで眠ることもできるようになったけれど。初めてキスをした夜以来、下肢がずんと重くなって張り詰める日があることを、彼はまだロキに言っていない。寝起きの生理現象ではない反応に戸惑いながら、それに触れるのはロキの指がいいと思うことがあることを、言えていない。
「……わかった」
「洗剤とスポンジは見ればわかるところにあるからね、寒いからお湯で流していいよ」
 ロキの言葉に頷いて、一週間ぶりの浴室に入る。黴や湯垢なんて見当たらない──ロキが暮らすようになる前の彼の部屋のユニットバスは少しだけ汚れていた──清潔な浴室を見渡して、今夜も一緒に入るのかしらと思う。きっとロキからは提案しないはずだ。キスしたい、と言われることは日に何度もあるけれど、ロキもまだ、その先を望んでいない。
 本当は想像している。実際にそうなることは怖いけれど、ロキの指が彼の下肢に伸び、カタチをなぞる瞬間を思って触れてみたことがある。ビリビリと背筋を駆け抜けた電流の強さに痺れて怯え、すぐにやめてしまったけれど、いつかは触れてもらいたいし先に進んでみたいと思うことがある。そうして彼が予行演習を終えて、人を好きになることを怖がらず、躊躇わなくなったら、ロキから離れて行ってしまいそうで怖くなる。離れたくないにも関わらず離れてしまった感覚を、経験していないはずの切ない痛みを、彼は確かに知っている。
「……終わったよ」
 二十分ばかりかけて掃除を終えた彼がキッチンのロキに声を掛けると、何やら調理中だった。
「ありがと」
 にっこり笑うロキの手元の鍋からは、すごくいい匂いがしている。
「蕎麦つゆだよ」
 彼の興味を察したかのようにロキが言った。
 年越し蕎麦を食べる風習は実家を出て以来ご無沙汰だった彼はカップ麺でも充分だと思うのに、ロキはせっかくだからと生麺を買ったのだ。さっと湯掻く手間も、つゆを用意する手間も惜しまずに。
「一人だったらたぶん食べないし、食べてもインスタントにするけどね、ショウリくんとだから特別に」
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