羊飼いのゆめ-3

文字数 2,548文字

「どっちでもいいよ、ロキはそもそもあだ名みたいなものだったし」
 それは本名を思い出すヒントだろうかと思いつつ、
「……好き。」
 溢れる想いを口にした。
「知ってる」
 笑いながら答えたロキがアイスを掬ったスプーンを差し出してくる。何を意味するか、言われるまでもない。甘い味のするスプーンを口に入れた。バニラの柔らかな香りが鼻に抜ける。
「俺もお腹空いた、ご飯にしよう」
 促されて頷いた。新年が穏やかに始まった。
 一月四日、仕事始め。勤め先のビルの前で彼は大いに緊張していた。何せ、いつも目元を隠していた前髪を上げ、眼鏡を新調してからの初の出社なのだ。ロキは彼を見ると「かわいい」か「好き」しか言わないので慣れてしまったけれど、同僚たちの反応を思うとカチコチになってしまう。
 朝、自宅を出るとき、ロキに何度も変じゃないか確認した。いろいろ補正が掛かっているであろうロキの目にはおかしいところなど見つからないようで、「大丈夫、今日もかわいいよ、変じゃないから行っておいで」と五回は言われた。
 最寄り駅から通勤の電車に乗るまで、ひしひしと視線を感じた。通勤の電車内でも会社に向かう道すがらも、いつもの三倍増しで視線が刺さっていた気がする。途中、居た堪れなくてコンビニのトイレに駆け込み、化粧台の鏡に映る自分を確認した。
 昨日、ロキがわくわくした様子で「やってあげる」と整えてくれた眉の形がおかしいのだろうか。それとも、年齢より幼く見える童顔のせいで会社員だと思われていないのだろうか。
 とりあえずペットボトルのジュースをそそくさと買って会社に着いた次第だが、もう帰りたいのが本音である。昼までは家に居るから何かあったら連絡して、とロキは言ってくれたものの、さっそく泣き言を言ったら呆れられてしまうだろう。
 大きく息を吸って、深く吐いた。何度か繰り返すうちに気持ちが落ち着いてくる。今日は定時で終わるだろうから、真っ直ぐ帰ったらロキに頑張ったねと褒めてもらいたい。
 よし、と腹を括った。ご褒美はロキからのハグにしよう。
 社内ですれ違う人々の視線を感じながら、不審者だと思われていやしないかと冷や冷やしながら、部署まで歩く。蚊の鳴くような声で挨拶して入室したものの、彼に気づいて挨拶を返す誰かは居ない。みんな、仲のいい同僚と新年の挨拶やら休暇の過ごし方を話すのに忙しいのだ。
 自席について仕事の準備を進める。このまま、なるべく目立たないよう、一日を始めてしまいたい。そう思うから顔を伏せがちになるし、身体を縮こめるようにしていたけれども。
「えっ、鈴木さん?」
 不意に近くで苗字を呼ばれた。びくっと肩が震えた。
 声の主は隣に座る同期の女性で、目隠しのパーテーションは机周りにしかないから彼の変化に目ざとく気づいてしまったらしい。彼女の意外そうな声の響きに、何があったんだと付近の視線が集まる。こうなるから目立ちたくなかったのに、と思いながらそっと顔を上げると、
「すごく似合ってます」
 隣席の彼女がにっこり笑う。彼女と親しい同僚が呼応して口々に褒めるのを聞きながら、こういうときにどう振る舞えばいいのかわからず、ひたすら俯いた。
「恋人でもできたんですか?」
 昼休み、同僚と外食に出ようとしていた同性の同期に声を掛けられる。
「えっ、」
「完全にノーマークだったって、女性陣が騒いでましたよ」
 恋人という単語に反応したからか、同期はしたり顔で頷きながら部署を出ていく。彼がぽかんと立ち尽くしていると、
「鈴木さん」
 急に後ろから声を掛けられて、ひゃっ、と変な声が出た。
「驚かせてごめんなさい、お昼、お弁当ですか?」
 同期が言っていた女性陣の面々が、にこにこと笑いかけていた。
 目まぐるしい一日だった。これまで存在しないかのように過ごしていたはずが、突然、あちこちから話しかけられるようになった。同期も先輩も後輩も、仕事を押し付けるときしか声を掛けなかったにも関わらず、である。仕事の相談を始めとして、ちょっとした雑談、息抜きのティータイムの誘い、はたまた新年会の参加の有無まで多岐にわたった。
「……ただいま」
 定時で退社したのに、遅くまで残業したかのような疲労感が両肩に載っていた。
「おかえり、疲れた?」
 ちょうどキッチンで炒め物をしていたロキが声を掛けてくる。背負っていたリュックを床に置いて、彼がらしくなくソファにごろ寝すると、
「そんなに疲れたの?」
 ロキの苦笑が聞こえた。
「もう、明日から、これやめる」
 そう言って、彼が前髪を留めていたヘアピンを外して投げると、
「かわいいし似合ってるのに、なんで」
 火を止めたロキが慌てて拾いに来る。
「だって、急に、みんな話しかけるから……」
 げんなりしきった彼の言葉に、ロキがきょとんと瞬きをした。そして、何かを企むかのような笑みに口角を持ち上げる。
「うん、やめよう、そのほうがいい」
 さっきはやめるなんて勿体ないと言わんばかりだったのに、ロキの意見が変わる。怪訝な目を向けると、
「俺のショウリくんが盗られちゃうかも知れないからね」
 癖づいた前髪を撫で下ろされて、わしゃわしゃと乱された。
 その発言はなんだか犯罪臭がする。そのうち外出禁止なんて言い出すんではなかろうか。うっとりするような笑顔を浮かべて「閉じ込めておきたい」と言われたらどうしよう。現実味のある想像に身震いする。
「でも、髪は上げたほうがいいんだよ」
 ロキの手がさらりと前髪を掻き上げて、彼の額と目元を顕わにする。
「俺だけがショウリくんの素顔を知ってるのも悪くないけど、君のためにはならないし」
 そのまま髪を撫でる手に心地良さを覚えながら、ずっと好きになれずにいた自分の容姿を好きだと言ってもらえることに贅沢を感じる。こんなぼくを、と言いかけるたびに怒られて、いろんな感情を見せるたびに「かわいい」と「好き」が繰り返されてきた。被害者だったぼくでいいんだ、と思えるようになった。それでも愛してもらえるんだと実感するたび、彼の奥で凍りついていた何かが溶けだして、誰かと共に生きてみたいと思えるようになった。
 彼を変えてくれたロキよりも好きな人ができるなんて、今は思わない。例え、佐々木さんのような美人に好きだと言われても。
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