邪神の悪戯-4

文字数 2,628文字

「……ちなみに、」
 しゅんとしたロキの様子を隅々まで観察しながら、彼はおもむろに聞いてみる。失礼かも知れない、面倒なことになるかも知れないと踏み込まずに居たからこんなことになっているのだ。
「ロキさんの、お仕事は?」
 問うた瞬間、ロキの顔が強ばった。とうとうそのときが来てしまったと言わんばかりの表情で、飼い主の顔色を伺う忠犬のように彼を見る。
「うん、えっと、あの、その……」
 急に歯切れが悪くなり、視線を泳がせて何かを考えながら、
「出張ホスト、って言って、その……男も女も相手にするタイプの店で、フーゾク、やってる」
 ロキにしては小声で答える。
「ロキ、ていうのは源氏名で──」
 と説明し始めたロキの声は彼に届かなかった。
 ガツン、と頭を後ろから石で殴られたような衝撃を受けた。実際に殴られてはいないから痛みはないが、ロキの言葉が頭に入っていかない。
 つまり、彼は金で性的本能を発散したがる客の相手──セックスすることを金で割り切るタイプの人間で、それはまぁ見た目通りではあったのだけど、そういう話も行為も苦手な彼にしてみたら接し方からわからなくなる。
 思春期を迎えて以降、童貞を捨てたとかどうとか、性欲に溢れた会話はあちこちから聞こえるようになってくるものの、そんなものは彼とは縁遠く、そして、ひたすら穢らわしくて忌まわしいことなんだと思ってしまう。
 足の先から冷えて凍っていく気がした。
「本当は話すの嫌だったんだよ」
 と、ロキもうんざりしたように頭を搔いて、
「ショウリくん、そういうの潔癖でしょう?」
 確信を持って尋ねてから、ロキが慌てたように立ち上がった。
 ふらっとよろめいた身体を咄嗟に抱き止められて、竦む。
「顔色、真っ青だけどだいじょうぶ?」
 心臓がばくばくと鼓動していた。酸っぱいものが上がってきて、喉がチリチリと痛い。吐く、と思った瞬間にはもう駄目で、反射的に両手で口元を覆った。ごぷ、と汚い音が身体の奥から聞こえた。
 突き刺すような七十二の瞳、汚いものでも見てしまったような視線、ずっと後ろ指を差されながらひそひそ話がついて回る感覚と幻聴。
「ほら、吐くと楽になるよ」
 ロキの行動は的確だった。堪える彼に気づいた瞬間にユニットバスへ誘導し、申し訳程度のバスタブを示して背中をさする。きっと、酔客を相手していた頃に身に付いた動きなのだろう。胃がひっくり返ったように、食べたばかりのブランチを吐き出す彼に寄り添って、鼻を突く胃酸や吐瀉物の異臭も気にせず、収まるまで背中をさすり続けてくれた。
 二ヶ月も一緒にいれば、気づかれて当然だろうとは思っていた。
 人並みに性欲のある二十代男性なら人によっては毎日のようにマスターベーションをするはずが、彼の場合は一切しない。どちらかと言えば朝の生理現象にすら嫌悪感を抱くほうで、起きたあとの三十分、ぼんやり横になっているのは、寝起きが悪いということの他にそういう意味も含んでいた。
「君のせいにするつもりはないけど、だから言えなかったんだよ」
 全てを吐いたあと、空っぽになった胃がしくしく痛む中、冷たい水で口をすすぐ。ぐったりとソファで横になる彼にロキが使っている毛布をかけながら、
「嫌な話ししちゃって、ごめんね」
 これ以上はないほどの悪びれた顔をして、詫びた。
「胃薬、買ってこようか」
 ロキの申し出に力なく首を振る。
「でも……」
 言い差すロキに、彼は頑なに首を振る。
 沈黙が下りた。温風を吐き出すエアコンの音だけが低く響いている。身体の奥が寒い。寒くて、凍え死んでしまうかも知れない。
「……やっぱり、出て行こうか」
 彼が震えを堪えながら横になっていると、ふとしたようにロキが言った。ぽつりと呟かれた台詞に、彼の全身が更に凍りつく。
「俺なんかが望んじゃいけないものなんだってわかってたよ」
 俺なんか──ロキには似合わない言葉だ。常に自信に溢れていて、どうしたら自分の見た目や魅力を活かせるか知り尽くしているだろうに。
「俺みたいなのには、君みたいな純粋な子は高望みがすぎる」
 そう言って、
「たくさん傷つけてごめんね」
 哀しげな微笑みを浮かべた。
 終わりが来たんだと思った。直感が繋ぎ合わせた関係は、今まさに、音も立てずに瓦解しようとしている。身分、立場、血筋。そういったしがらみのない時代に生まれついたのに、生きてきた環境も性格も違いすぎて、結局、結ばれない運命だったんだと破綻してゆく。なにひとつ、始まってなどいないのに。
「……ちがう、の」
 毛布の中からそろそろと、冷えきった手を伸ばす。心臓を四方八方から突き刺されたように、鋭い痛みが左胸を支配している。
「ちがうの、ロキさんは、悪くない」
 言葉を振り絞る彼の手が、ロキの温もる手を掠めた。触れようとした彼の手に、ロキからは触れようとしなかった。それが答えなんだと突きつけられて、どうしようもなく呼吸がつらくなる。彼だけが世界から爪弾きにされてしまったような、例えようもない孤立感で、全身がガタガタと震え出す。
「わるくない……」
 お前のせいだと責める瞳の群れが、そんな子に育てた覚えはないと語る最も身近な視線が、彼を世界から追い出そうとしてきた。こんなのでごめんなさい、と、彼は何度、宛てもなく詫びたかわからない。消えてしまいたいのに消えられなくて、元から馴染めないと思っていた場所から逃げ出して孤独を選ぶことで、ようやく、バランスが取れたと思っていた。そうしなければ生きて来られなかった。
 初めてロキに話しかけられたとき、やっと見つけたと思った。この人となら一緒に生きていけるかも知れない──淡い期待が、夢で終わろうとしている。
「──泣かないで」
 離れかけた彼の人差し指を、ロキの温かい指が摘んで引き止めた。
「触ってもいい?」
 ロキの優しい声が何かを察したかのように確かめてくれるから、
「……うん」
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を伏せることで、頷いた。
 本当によく泣くやつだと呆れられはしていないだろうか。
 ロキは自分の部屋着が汚れることも構わず、彼が泣き止むまで頭を抱き寄せてくれていた。宥めるように、時折、頭をぽんぽんと撫ぜながら。
「……小学生のときに、」
 ロキが作ってくれた蜂蜜入りのホットミルクをちびちび飲みながら、毛布に包まってソファで体育座りし、彼はぽつぽつと、奥底にしまってきた記憶を話す。
「一年くらい、担任の先生と、二人きりで会ってて──」
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