第七日に休まれた。-3

文字数 2,808文字

「どうして泣くの」
 と、ロキの手が頬を撫でてくれる。ほんのり冷たい指先が頬を拭って、拭われた場所がじんわり熱を帯びた気がして、懐かしい、と思った。そんな感覚は初めてなのに。
「……ちが、」
「ね、休もう」
 泣いている事実を否定しかけた彼の言葉を遮って、ロキが言った。
「今日は一日、出かけるから、ゆっくり休んだらいいよ」
 顔を伏せて首を振った。握りしめたスウェットの生地はもう、しわくちゃだ。
「……いかないで」
 自然と溢れた言葉を口にした途端、鼻の奥にツンと突き抜ける痛みがあった。息がしづらくて溺れそうだと思いながら、両目から滴り落ちる雫はなんだろうと、ぼんやり眺めている。
「──帰って来るよ」
 と、ロキが彼の髪を撫でながら答えた。
「君が俺を嫌いでも、俺は君が大好きだから帰って来る」
 グチャグチャになった気持ちでは、何を言われても信じることができない。どうしてこんなに、一緒に居たいと思ってしまうのだろう。血の繋がった家族とさえ、同じ空間を共有するのは苦手だったはずなのに。眠れなくて、休まらなくて、どんどん痩せる日々を過ごしているというのに。
「ごめんね」
 ロキが何について謝ったのか、彼にはわからなかった。
 この忙しい時期に休むなんて非常識だ、というようなことを、電話口の向こうの上司がぶつぶつ言っていたけれど、日頃の顔色が良くなかったからか体調不良の言い分は聞き届けてもらえて、有給扱いということになった。
 平日の昼間からベッドに横たわってぐっすり眠る背徳は、彼を落ち着かない気持ちにさせていたけれど、添い寝するロキがとんとんと優しく背中をたたいてあやしてくれたから、いつの間にか意識を手放していた。
 空腹で目が覚める、という贅沢を経験した。どんなに疲れていても起床時間だけは折り目正しかったし、二度寝することなんてほとんどなかったからか、身体は重だるく感じたけれど。
 仰向けのままでぼんやりしていると、
「おはよ」
 ロキが視界に現れて、にっこり笑った。芸術品のような笑みだった。
 デリバリーでピザとコーラを頼むことにした。ロキが好きな味と彼が食べたい味でハーフハーフにして、コーラは贅沢に大ボトルを選び、サイドメニューはサラダとナゲットとポテトにした。支払いの段になって彼のスマホをロキが華麗に奪い、何やら入力して操作したあとで返してもらうと、デリバリーは既に注文されていた。言葉も浮かばなかった。
 パジャマ姿のまま、届いたピザを齧る。マルゲリータのトマトソースの酸味が舌に届いて、
「……美味しい」
 思わず呟くと、
「かわいい」
 並んで座るロキが嬉しそうに、屈託なく笑った。すきだ、と、何となく思った。
 空腹は満たされたし、仕事のことは忘れて、久しぶりに──本当にいつぶりなのかも覚えていない──いつか観たいと思っていた海外ドラマを一気に観た。さすがにロキの膝に抱かれて、というわけではなかったけれど、二人で同じ画面を見つめて、ドラマの脚本やキャラクターに関するロキの品評を聞きながら、襲い来る睡魔に負けるまでのんびりした時間を過ごしていた。
「よく寝たね」
 次に彼の目が覚めたのは夜だった。ロキの感想は尤もで、寝すぎたせいか頭痛がするほどだ。身体はいくらか軽くなった気はするけれど、こんなに寝たのも久しぶりだから、ベッドから出て何をするのも億劫に感じる。
「……お腹空いた」
 ふとしたように呟くと、
「何かあったっけ」
 ロキがすかさず冷蔵庫を開けてくれたけれど、溜息をついたから空っぽだったのだろう。まとまった休みはなかったし、仕事帰りにコンビニに寄るのが習慣なのだから仕方ない。
「適当に買って来る」
 冷蔵庫の扉を閉めたロキが部屋着から着替えようとする裾を咄嗟に掴んでいた。
「ふふ」
 ロキがくすぐったそうに笑う。心から嬉しそうな顔で、蕩けるような甘い笑みで。
「一緒に行く?」
 小首を傾げながら尋ねられて、彼はコクンと頷いた。小さい子どもになった気分だった。
 深夜まで営業しているスーパーの買い物客は疎らだった。自宅から徒歩十分ほどの距離にあるけれど、彼がここに訪れたのは引っ越してきてから実に三回目である。普段から自炊しないし、最寄り駅とは反対の場所に位置しているから通りかかることもない。
 数少ない買い物客の、それも主に女性の視線を一身に集めても動じないロキに少しだけ距離を置いてついて行く。高身長でモデルのようなスタイル、派手な髪色に負けない整った顔立ち。そんなロキと一緒にいるのはもっさりして垢抜けない印象の連れ合いだと思われたくなくて、陰で笑われるのは申し訳なくて、なるべく俯きがちにしていたのに。
「食べられないもの、ある?」
 彼の意図など気にした様子もなく、ロキが自然と歩み寄って声なんか掛けたものだから、周囲の空気がざわついた気がした。他人のフリをするのも不自然なので、咄嗟に首を振って意思表示する。
「そんなに離れてると聞けないから困るんだよ」
 と、ロキが少しだけ苛立ったように言うから、スーパーに来るならついて来なければ良かったと更に俯いて、消えてしまいたくなる。
「君が気にするほど、周りは気にしてなんかないよ」
 深く俯く彼の心情を察したのか、ロキがなんでもないことのように言った。けれど、前髪の隙間からざっと見渡しただけで周囲の買い物客──主に女性ばかり──は他と比べて多いようだったし、彼女らがちらちらとロキを見ているのは明らかだった。注目を浴びるのが当たり前になっているから、ロキは気にしていないだけなのだ。居るだけで眉をひそめられてきた彼にとっては異常事態である。
「せっかくかわいい顔してるんだから、もう少し自信持てばいいのに」
 それは褒め言葉なのだろうか。
 針のむしろに晒されたような買い物をようやく終えて帰路に着く。大きくて重いほうの荷物をさり気なく持ったロキより遅れること一メートル後方を、彼は小さな買い物袋を持ってとぼとぼ歩く。
 休みなく仕事をするより疲れ果てていた。法的にブラックな勤務実態をこなしても、ここまでぐったりすることなどなかった。
「帰ったら髪、洗ってあげる」
 ゆっくり歩く彼が追いつくのを待って、ロキが言った。
「えっ、」
 咄嗟に声が出た。
「君を見てるとなんでもしてあげたくなるんだよなぁ」
 トロ臭い、と言われた気になって俯く。
「かわいいってことだよ」
 傷ついた顔でもしたのだろう。ロキの声が窘めるように聞こえた。
 そうなのだ。この男は彼のことをすぐに「かわいい」と言う。カッコよくない自覚はあるのでカッコイイと言われたいとは思わないが、それはそれでどうなんだろうと眉を寄せる。
「褒めてるつもりなんだけど、やっぱり嫌だよね」
 そこは同性同士、ロキは彼の心情を汲んでくれるからありがたい。だったら言わなければいいとは思うものの、他に褒めるところがないときには便利な言葉なんだろう。
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