文字数 2,387文字

「そんなことがあったんですか」
 膝にのせた僕の背中をなぜながら、夕海ちゃんは呆れたように溜息をついた。
「ごめんなさい、なんか、嫌な思いさせちゃいましたよね」
「いいの? 夕海ちゃん」
 彩子先生の方が憤懣遣る方ない、と言った表情である。
「なんていうか、本当に失礼な人だったの。忍ちゃんの気持ち、すごくよくわかったわ。あれじゃあ、田舎に帰れないわよ」
「いきなりおじいちゃんとか言われてもぴんとこないし、他人よりも遠い他人って感じ。多分、私が不倫の子だって知ってるからそうなったんですよね。関わりたくない。ハンコでもなんでも押しますよ」
 鼻で笑う。
「母から聞いてます。私が生まれてすぐに、一度だけ越後湯沢に帰ったんですって。それで祖父にも会ったんだけれど、その時『お前が現れると、せっかくの穏やかな生活に波風が立つから関わらないでくれ。もう一人でやっていけるだろう』って言われたそうですよ」
「あの人なら言いそう」
 彩子先生は肩をすくめた。
「忍ちゃんはこの教会に来た時からそうだったんだけど、本当に愛に飢えていたの。人間が信じられなくて、でも信じたくて。もしもあの子がイエス様に出会わなかったらどうなってただろう、って想像するだけでゾッとするわよ」
「母が好きになった人って、不倫だったけれど、でもいい人だったんでしょ?」
 僕は夕海ちゃんの膝から飛び降りた。彼女の表情を見たかったからだ。代わりに本田先生の隣りに移った。
「私、詳しいことは聞いてないんです」
「実は私もお父様もそうなのよ」
 彩子先生が言った。
「ただ、忍ちゃんとは昔からの知り合いだったみたいよ。それに、忍ちゃんのお母さんのことも知ってたみたい」
「母が高校生の時に、祖母が亡くなったらしいんですけれど、死に目に間に合ったのはその人のお陰だったって聞いたことがあります」
「遠くの病院に入院してたけれど、車に乗せて連れて行ってくれたって、私も聞いたわ」
 彩子先生は、ね、お父様、と本田先生に同意を求めた。
「母は、祖母のことが許せなかったって言ってました。離婚する時に、どうして自分を連れていってくれなかったのか、って。どうせ苦労するなら、お母さんとしたかったってこぼしていたことあります」
「当時の離婚は今とは違うからね。きっと、忍ちゃんのお母様は疲れ果てていたんだろうと思うんだ。母親としても、女性としても。また人間としても。忍ちゃんを手放すことは、断腸の思いだったはずだよね」
「私もそんな気がします」 
 夕海ちゃんは呟いた。
「だから死に目に会えてよかったなと思ったし、母もそう言ってました。母、いつものろけて言うんだけど彼がいなかったら、絶対に行くことはなかったんですって。『誰かを憎んで生きるなんて人生、君に歩んで欲しくない』って言われたって。『そんなの不幸じゃないか、とっても』って。その言葉が嬉しくて、その思いに答えたくて母親の病院に向かったって言ってました」
「不倫云々はともかく、忍ちゃんのことを思ってくれた気持ちにウソはなかったんでしょうね」
 彩子先生が呟いた。
「私も母と同じようなこと考えたから、凄い、不思議だなって思ったんです」
 夕海ちゃんは本田先生を見た。
「あの時、彩子先生は行かなくていいって言ってくれたけれど、先生は絶対反対すると思ってました。叱られるかもしれないって。でも、二人とも私の気持ちを尊重してくれたでしょ。私、びっくりしてたの。だって、心の中で母のことを考えていたから。『あなたは結局、母親の死に目に間に合ったけれど、私は違う』って。なんていうか、ひねくれちゃったんです」
「忍ちゃんのこと、嫌いだったわけじゃないんでしょ」
「大好きでした」
 夕海ちゃんの目に涙が浮かんだ。
「不倫のことも、超クリスチャンなことも、鬱陶しかったけれど、大好きでした。ただなんていうか、死ぬことと向き合う母が怖かった」
「そうだね。忍ちゃんは、しっかり向き合ったよね」
 本田先生が言った。
「私、母が本当に最期までクリスチャンでいられるのか、試そうと思いました。こういうのって、キリスト教的には『サタン』って言うんですよね」
 夕海ちゃんは聖書を指さすと
「母がよく言ってました。『悪に負けてはいけません。返って善をもって悪に打ち勝ちなさい』って。私が悪いことすると必ずこの聖書。私の中にサタンがいる、って」
「そんなに大それたことじゃないよ」
 本田先生はにっこりした。
「忍ちゃんには忍ちゃんの、夕海ちゃんには夕海ちゃんの導きがある。忍ちゃんはお母様の死に目に会えたことで救われたんだよ。彼女言ってたよ。お母さんの手が自分の手の中で冷たくなっていって、節くれ立った指とかガタガタの爪とか、色んな物が、自分に彼女のこれまでを教えてくれたって。あの人の娘に生まれて良かったと心から思えたって、恨みも疑いも全部水に流せたって。夕海ちゃんもそうだろう? 忍ちゃんを知りたいと思えたのは、無理矢理知った振りをしないって決めたからかもしれない」
 僕は話を聞きながらイメージしていた。
 いわゆる「愛」ってやつについてだ。多分、かけがえないっていうのが「愛」ってことなんだろう。
 しかし人間ていうのは、まどろっこしいね。
「私、とにかくサインしますから」
 夕海ちゃんはさっぱりとした顔で言った。
「遺留分だか相続分だか知らないけど、一銭もいりません。ハンコ代とかもいりません。私と縁を切りたいって言ってるんだから、それでいい。もともと家族だなんて思ってないし。気持ちよく『こんにちは』をして、気持ちよく『さようなら』をして、金輪際永遠に再会はしません」

―― それがいいよ。

 心からそう思った。
 夕海ちゃんにはちゃんと家族がいる。僕が、いる。
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