文字数 2,599文字

話が前後したが、シオンの丘教会は僕達の家だ。礼拝堂の二階に住んでいる。本田先生、彩子先生、そして僕の三人家族。
 これ以上ないほどの日常ではあるけれど、唯一難があるとすれば本田先生が「家庭開放」というのを実行している点にある。
 教会という所は、疲れた人にとっての休息場、もしくは避難場なのだそうだ。曜日・時間は関係ない。その人が辛くてたまらない時、本田先生も彩子先生も、何をおいても寄り添い「お祈りしましょう」と呼びかける。
 そしてまた驚く程たくさんの信徒が、駆け込んでくるのである。それはもう朝でも晩でも、電話でも、手紙でも。僕に言わせれば、うんざりするぐらいの量だ。二人の時間なんて木端微塵になるくらいに。
 例えば息子さん夫妻が遊びに来た時なども(結婚して子供もいる。サラリーマンというのをしている)それは変わらない。
 お孫さんの姿を見ると、先生達はなんともいえない表情をする。フワッとしたような、ホッとしたような。そんな時僕は、そっと部屋を出てベッドにもぐったり、押入れの奥で丸まったりする。なのになぜ「信徒」という人達はそういうことができないのだろう。
 酷い時にはインターホンすら押さずに入ってくる。奥から子供の歓声が聞こえてくるならば、それはお孫さんと楽しい時間を過ごしてるって合図なのに、
「今すぐお話を聞いて下さい」
「今すぐアドバイスをください」
「私、神様が必要なんです!」
「お祈りして下さい!」
 シャーッて威嚇してみようか。尻尾を太くして追っ払ってみようか。押入れから躍り出てくるぶしに噛みついてやろうか……と色々考えてみるけれど、実行には移していない。

 そろそろ失礼しよう。
 お茶をいれてあげた方がいいかな。
 あとでお弁当でも買って届けてあげようか。

 息子さんもお嫁さんも優しいんだ。
 せめて僕も……と、ソファーの上や窓際に居座って(それが最善なのかは分からないけれど)、一緒にいようと決意しているのである。
 腹、たつけどね。

 この集団を支える為に、教会にはいくつものグループがある。「エプロンさん」は、一人暮らしのお年寄りにごはんを作って届けるグループだ。イースターやクリスマス、教会学校の行事などではお菓子を焼いたり、料理を作ったりもする。
 「はげまし会」というのもある。五十代以降のおじさん世代が中心になっていて、出張で力仕事や日曜大工を行ったりする。弱った人を励ますという意味と、禿げが増すという意味の二つをかけたネーミングらしい。
 他にも聖歌隊や婦人会、教会学校。祈り会に聖書勉強会、イースター、クリスマス、ペンテコステなどの三大節委員会、執事会に長老会などなど、たくさんだ。
 毎週日曜日、礼拝の後には何かしらの定例会が持たれている。僕はご挨拶がてら各部屋を巡回するわけだが、有り難いことに、つまみだそうとする人は誰もいない。
「トラちゃん、いいこだね」
 なんて、褒められるようなこと何もしてないのに言ってくれて、時々はコーヒーのミルクを飲ませてくれたりもする。

 それにしても、神様がいるかどうかなんてことをどうして人間は考え悩むのだろう。
 猫に神様など関係ない。僕らは今日を生きている。食事にありつければ幸せ、温かい寝床があれば幸せ。敵から身を守る場所を手に入れて、できることならばあまり移動もなくその場で暮らしたい。痛いところがあればじっとうずくまって凌ぐ。やがていつかは「死ぬ」ということもあるのだろうけれど、それが眠ることとどう違うのかも、わからない。
 そうして日々をしのいでいく。
 もしかしたら、人間には「未来」とか「過去」とかの概念があるから神様なんて存在を思ったり、必要にしたりするのかもしれない。今日生きて、明日はどうなっているか分からない僕らには、心底関係のないことだ。
 あ、でも、こんな僕でも一つだけ心に決めていることがある。それは、少なくともこの命ある限り、本田先生と彩子先生と共に生きて、二人を守るということだ。それを人間流に言うとしたら「僕の生きる意味」。

 覚えているのは、今日みたいに凄く寒い日だったということだけだ。
 ひとりぼっちだった。
 固くて平たい道路を歩いていた。足の裏がジンジンして、お腹が空いていた。その時だ。獲物を見つけた。道路の反対側の生垣の奥に。美味しい何かだということは、匂いですぐにわかったから、思わず飛び出していた。
 今でも蘇る。真っ白な光、それから大きな音。体が熱くなった。目を開けたとき、僕が最初に見たのは彩子先生の顔だった。
「お前は車にはねられたのよ」
 静かでゆっくりとした声だった。
「後ろ足にちょっと怪我があるけれど命に別状ないからね。頑張るのよ」
 彼女は僕の背中を何度もなぜてくれた。頭もなぜてくれたし耳のつけねもなぜてくれた。その時、指の先がセンサーに触れて、霞が晴れるように脳内に色々な映像が流れ込んできたのだ。
 道端に倒れている僕の姿、差し出される彩子先生の腕。凍った道路。それから往診にきたお医者さんと、心配そうに僕の様子を見守る本田先生。彩子先生の心臓の鼓動。まるでたった今の出来事みたいに鮮明にはっきりと。

―― トラちゃん。

 そう呼びかけられた。

―― お前は今日からうちの子よ。

 信じられないくらいに寝床は温かくて、それは生まれて初めての感覚で、色々なことがワーッと心に満ちたから、だから僕は大急ぎで前足で顔を隠した。
 今でもふとした拍子に思いだす。そして考える。
 ここはどこだろう。僕はどうしてここにいるんだろう。いつまでここにいられるんだろう。そんな時は彩子先生のおしりに飛びつくことにしている。もしくは本田先生の書斎に行って、広げた聖書の上に横になる。二人とも優しく僕の首筋をかいてくれて
「だめだよ、トラ」
 って言う。
 今までのことなんて、全部吹っ飛んでいっちゃえ! 全然辛くなんてなかった、もう忘れた!
 二人の指先からあたたかい思いが流れ込むのを感じながら、そう呟くのだ。
 僕は決めている。
 絶対にここにいる。この家の子になる。
 人間は知らないだろうけど、猫は見抜ける。そういうふうにできている。だから僕のこの思いは、絶対に裏切られることはないのだと、既に僕は分かっている。
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