文字数 4,504文字

だからと言って、物事が劇的に進むわけではないのが、物語やテレビドラマと違うところである。
 あれからも牧師館の毎日は代わり映えがせず、夕海ちゃんも「クリスチャンになる」と決心したわけでもなく、ましてや聖書勉強会に出ると言いだすこともなく。
 そして毎日毎日、色んな信徒が訪れては、好き勝手をいい、好き勝手をし、本田先生と彩子先生はその心に寄り添っている。そんな日々が粛々と続いているのだ。
 ただし最近の僕は、ちょっと気が大きくなっている。(よーやるよ)なんて冷めた目で二人を見てしまうこともある。
 いいのだ。なぜならば、僕には最高の味方ができたのだから。
 夕海ちゃんはあれから益々、牧師館に長くいてくれるようになって、今では一週間の殆どをここですごす。たまに荷物を取りに帰るだけだ。まるで本物の家族になったみたいなのだ。彩子先生も、以前はよく口にしていた
「ねえ、そろそろここに引っ越してこない?」
 を、すっかり言わなくなった。代わりに
「忍ちゃんの荷物とか、どうしたらいいかしらねえ。トランクルームとかってあるわよね」
 と具体的な方法について持ち出すようになったのである。
「ねえ、こんなこと言ったらなんだけど、『これだけは』って物以外は、バザーに出すっていうのはどうかしら?」
 先日はこんなことまで言い出した。
 実は、毎年秋になると、大々的なバザーが開かれるのである。それぞれ不用品を持ち寄って、安く売る。『友愛セール』と銘打たれたそれは、シオンの丘教会が誕生した時からあるイベントだそうだ。
「昔は、売上金は全部、教会運営費に回させて貰ったけれど、今はよその教会や、団体に寄付できるようになったの。本当に主の恵みよね」
 なんて、彩子先生はしみじみ呟いたりする。しかも、そのセールに忍さんの遺品を出したら
「プレミアつくわよ」
 なんてほくそ笑む。本田先生以上に、夕海ちゃんが顔をしかめたのには笑った。
「とにかく今年は受験勉強に集中して、一段落ついたら考えます。友愛セールに出すとしても、来年にします(心の中で『それじゃ偶像礼拝になっちゃうじゃない』と呟いたのを、確かに聞いた)」
 余談だが、忍さんが遺したお金というのは、相当たくさんあるらしい。それがなければ、夕海ちゃんはアルバイトをやめることはできなかったし、予備校に通うことも叶わなかったし、そもそも「動物のお医者さんになる」なんて夢を抱くこともなかったのだ。夕海ちゃんは「絶対無駄にしない」と心に誓っている。
「マンションはさ、誰かに貸せばいいのよ。もうローンもないんだし。夕海ちゃんは大家さんになるわけだから、家賃が入ってくるのよ。もっと生活が楽になるわ」
 彩子先生は牧師夫人なのにこういう話が得意で、メモを取り出して色々計算を始めたりもする。
「あの、そういうことは全部お委ねしましょう、って前、言ってませんでしたっけ」
 たしなめる夕海ちゃんに「お父様でしょ、私知らない」と涼しい顔をするのである。
 
 そんなある日のことだ。
 夕海ちゃんはいつものように、朝ごはんを食べてすぐ予備校に向かった。本田先生は大抵書斎で聖書の勉強をするのだけれど、悩みを抱えた信徒がくればリビングに座って、いつまででも話を聴く。
 昼過ぎに訪ねてきたのは、見知らぬ男の人だった。信徒ではない。高塚長老よりもっと年配の感じで、頭のてっぺんに毛がほとんどなく、残った薄毛も微かに光を反射する程度だ。
「こちらに矢口夕海がお世話になっていると、聞いたものですから」
 しわがれた声だった。
「私、矢口忍の父親の矢口晴雄と申します。夕海の祖父です」
 彩子先生は息を飲み、廊下に棒立ちになった。彼は別段気にする素振りもなく、悠々と頭を下げる。その拍子に空気の対流が起きた。なんともいえない。ゾワゾワッとして、尻尾が勝手に逆立った。
「上がっても宜しいでしょうか」
 答えを待たずに靴を脱ぐ。杖を持っていた。彼はまっすぐリビングに向かい、床の上には点々と土の跡がついた。

 彩子先生がお茶の支度を整えるまで、本田先生とその人は簡単な自己紹介を交わした。と言っても、忍の父親です、今日は越後湯沢から参りました、とその程度だった。本田先生も、ここの牧師をしております、ぐらいだ。
 多分、相当な年齢なのだと思う。ただ杖をついている以外は元気そうだった。シオンの丘教会にもおじいちゃんやおばあちゃんはたくさんいる。この人より年配の人もたくさんいる。見た目は変わらないのにかもし出す雰囲気が違う。変な感じだった。
「忍とは、かれこれ二十年も音信不通だったものですから」
 彼はソファーに深く腰をおろすと、部屋の中を見回している。
「こちらで母娘揃ってお世話になっているようですね」
 鞄の中から袋を取り出すと
「今日日の興信所は優秀ですな。料金さえ払えば調べられないことはないようです。生年月日と名前だけで、居所を探すことができました」
 と、書類を出した。
「でもまさか死んでいるとは思いませんでした」
 ちらりと本田先生を見る。
「報告を受けて驚きましたよ」
「私達もお父様にはお知らせしたかったんですけれど、何しろ連絡先が分からなくて。忍ちゃん、処分してしまったようなんです。どうしようもなかったんですよ、本当に申し訳ありませんでした」
 彩子先生が頭を下げた。
「富士山の近くの霊苑に、教会の共同墓地があるんです。忍ちゃんのお骨はそちらに納めさせていただいてるんですよ。もしよろしければ」
「今日は夕海の件で参ったのです」
 彼は娘のお墓には全く興味がないようだった。
「学校に行ってるので、夕方まで戻らないんですよ。携帯電話に連絡を入れましょうか」
 腰を浮かせた彩子先生を制すると
「いない時間を見計らって来たんです」
 と彼は言った。
「報告書によると、夕海は大学進学を目指して予備校に通っているそうですね。こちらの教会で殆ど寝起きをしているともありました。牧師先生ご夫妻が後見人のようなお立場だという報告も受けているのですが、それで間違いないでしょうか」
「そうですねえ、なんて言ったらいいのかしら」
 彩子先生が言葉を濁す。
「忍ちゃんの遺言として、夕海ちゃんとは責任持って関わらせて頂いております」
 本田先生が言った。
「予備校に行ってるということは、次は大学受験ですね。金銭的なことは大丈夫なんでしょうか」
 抜け目のない視線だ。先生二人を交互に見ている。
「あの子は頑張り屋ですからね。奨学金を受けるって言ってます。それに忍ちゃんの蓄えもありますし」
「まあ、いざとなったら、マンションを売却するなり賃貸するなりすればいいわけですからね」
 彼は手元の書類に目を走らせる。
「無事、相続も済んだようですね。ローンもないようですし。いえ、私は夕海の相続に関してとやかく言おうと思って今日こちらに参ったわけではありません」
 彼は微かに顔をほころばせた。
「実は、ご覧の通り私もいい年になりましたので、そろそろちゃんとした遺言を書こうと思っているんですよ。息子にもそうするように言われておりまして。大した財産があるわけでもないのですが、まあ、そこそこ土地があるものですから。それで、忍に『遺留分放棄』の書類にサインをして貰おうと思っていたのですが、もう死んだということでしたので、急きょ、孫の夕海にサインをして貰おうと思いまして、今日ははるばる参ったわけです」
「イリュウブン?」
 彩子先生が怪訝な表情を浮かべる。
「ま、相続人の権利みたいなものです。私がいくら遺言で、全財産を長男に譲ると書いたとしても、遺留分を主張されてしまうと財産をわけてやらないといけないことになるんですよ。弁護士に相談したところ、私がまだこうして生きている以上相続の放棄はできないけれど、遺留分の放棄をさせることはできると知恵を貰ったものですから」
 こちらがその書類なんです、と何枚かの書類を取り出した。
「権利があるんだから財産を分けろと言われましても、困るんですよ。土地ですからね。分けようがありません。先祖代々守ってきたものを手放すなんてできませんしね。そこで、夕海には放棄をして貰うわけですが、まあ、住むところがあって、保険金も入ったなら大丈夫でしょう」
「随分、急なお話ですね」
 彩子先生は不快感を顔に出し始めた。
「おじいちゃんが会いにきてくれたと知ったら、夕海ちゃん喜ぶと思いますけど。それがいきなりこんな内容だなんて……」
「代役をたてることができなかったんですよ。何しろ、夕海のことは親族誰もが知らないからです」
 え? と彩子先生が声をあげた。
「それはどういう意味でしょうか?」
 本田先生も身を乗り出す。
「誰も知らない、というのは?」
「忍が子供を産んだということは、私がここにだけ納めて他言していないということです」
 彼は皺だらけの手を胸にあてた。
「でも、忍ちゃん、一度故郷に帰りましたよね。生まれたばかりの夕海ちゃんを連れて、越後湯沢に伺っているはずですが」
「たまたま私だけが家にいたのが幸いでした。電話をかけてきたので、すぐに高崎まで戻るように言いまして、そこで会いました」
「そうだったんですか」
 彩子先生は呟くと、ソファーの背もたれに体を沈めてしまった。
「お父様に凄く叱られた、という話は聞いていましたけれど、高崎で会ったというところまでは聞いていませんでした」
「生んでしまった以上仕方ないが、矢口家とは何の関係もないとその場で引導を渡しました。ですから、忍が今まで音信不通でいたことは当然ですし、私としてもそれで満足だったのですが、相続が絡んでくると見て見ぬ振りもできません」
 小さく咳払いをする。
「戦前と違って、戦後の法律では家長が全て継ぐということが難しいようで、放っておくと、あっちこっちから権利を主張してくる輩が現れるからと弁護士に脅されましてね。まあ、幸い私には子供は二人しかおらず、今一緒に暮らしている長男夫婦と忍ですから、忍が死んだとなると、火種は娘の夕海だけになるというわけです」
「今日はどこかにお泊まりになるんですか?」
 すっかり諦めた様子の彩子先生は、むしろ朗らかに問いかけた。
「夕方までに、越後湯沢に帰ります。家族はまさか私がこんな所に来ているとは思っていませんからね。ふらりと近所に散歩に出たと思っています」
 本田先生と彩子先生は顔を見合わせた。
「興信所に夕海の行動パターンを調べさせましたから。今日はわざとこの時間に来たんですよ」
 それから、私が来たこと、そして遺留分放棄についてよくよく先生の口からご説明下さい、と頭を下げた。
 彩子先生は座ったまま会釈をしたが、本田先生は立ちあがり玄関まで送った。
「次は日曜日に参ります。なに、サインを貰うだけですから簡単な話ですよ」
 彼は扉の前で振り返ると
「当然、ハンコ代は用意してきますから」
 と言った。
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