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文字数 1,064文字
もしかしたらこのまま何事もなく春がやってくるんじゃないかと思いかけた、ある土曜日の夕方のことだ。とうとうその時が訪れた。
僕と夕海ちゃんはいつものようにリビングで寝転がっていた。ストーブのそばに顔を近づけると髭がこげるからと、夕海ちゃんはカバンで僕の為のバリケードを作った。それに気づいた彩子先生が
「溶ける!」
と珍しく大声を張り上げ、本田先生が書斎から飛び出してきた、そんな出来事の少し後。
電話のベルが鳴った。
相手の声は聞こえない。でも彩子先生の受け答えで、最悪の内容だということは一目瞭然だった。
「喜代美さんから。急変したみたい。もう時間がないからって。欣也君が、今こっちに向かってる。五分で着くって」
書斎に戻った本田先生は、コートと鞄を持って出てきた。彩子先生もエプロンを外し、夕海ちゃんを促す。
こりゃ大変だ。なんとか一緒に行く方法はないものかと僕は考えた。絶対に夕海ちゃんのそばから離れたくない。どうしたらいいだろう。例えばカバンに飛び込んだら? 意思を汲んでくれるだろうか。それともこの忙しい時に、と彩子先生あたりにつまみだされるだろうか。
…… 間違いなく、つまみだされる。
「私、行かないです」
僕は立ち止まった。先生達も動きを止める。
「なんで?」
彩子先生が問いかけた。
「時間がないのよ。行こう」
かぶさるようにエンジン音が近づいてくる。続いてクラクションの合図。欣也さんのお迎えだ。
「いきなり、今夜死ぬって言われても困ります」
顔がひきつっていた。
「私、見たくないんです。母が死ぬところも、死に顔も。まだイヤなんです」
廊下にうずくまってしまった。再びのクラクション。早くしないと取り返しのつかないことになるかもしれない、そんな焦りがこもっていた。僅かな間の後、
「お父様だけ行って」
彩子先生の声が廊下に響いた。
「私と夕海ちゃんは、ここに残ります」
僕が思うに、この時の彩子先生は立派だったけれど、それ以上に本田先生が凄かった。
「そうだね、そうしようか」
今夜のおかずはシチューにしましょうか、そうだね、そうしようか。
聞きなれたいつものやり取りと何ら変わりない、穏やかで平和に満ちた受け答えがそこにあった。夕海ちゃんは顔をあげ、信じられないとでも言うように本田先生と彩子先生を交互に見た。
シチューや煮魚、豚汁のときと同じ、本田先生の表情は優しい。ひとつ頷くと玄関を飛び出していった。
やがてエンジン音が遠ざかり、僕たちは取り残された。