第14話 純文学風「駆け込み需要に思ふ」。

文字数 1,489文字

3月末、テレビでは所謂「駆け込み需要」につひてのニウスが多かつたやうに思ふ。

ほんたふに、そんなに所謂「買いだめ」に奔走した庶民がたくさんいたのか、僕が周囲に尋ねたところでは大いに疑問なところではあるが、事実として、物流は滞り、店で使用している食材も指定通りに届かなかつたりしたのである。

しかし、物流に関しては、まづ、売り手側の企業が「増税前セエル」に多くの物品を必要としたのだらうし、企業としては、どこかひとつの企業がやれば便乗する外なくなつてしまふわけだし、本来的な意味で税収増を求むるならば、さうしたセエルを禁ずる法律をも、同時に整備しなければ、まつたくの片手落ちと言へるのではないだらうか。

セエルが活況を呈する程に、その反動も大きくなるのは、頗る頭の悪ひ僕にでも察しのつく事であり、セエルを仕掛けた企業は各々、それに対処しなければならないのである。

要するに、お祭り、と云へるやうな、みぢかい活況と、その後の長い不況、と云ふのが、この「駆け込み需要」の実相であらふ。

つまり、今の政権が今後も仕掛けてくるのは、かうした「お祭り経済」であつて、平穏無事を望む庶民の緩慢な消費行動に痺れを切らし、尻を叩いて、結果的には荒波に放り込み知らぬ顔、競争力に乏しい中小企業や、慎ましく暮らす一般庶民を疲弊させるだけの事である。

ならば、さりとて…、と、僕らは苦々しく拒絶すれば良いのであらふが、資本が蹂躙する世の中で、損な役回りと解つていても、生活して往くためにその倫理に渋々従わねばならぬひとたちが、この世の中の大多数を占めている以上、政権や大企業は「与し易し」と一顧だにせぬのである。

ひとつ煽つてやれば、国民などどうとでも出来る、とでも考えているのだらうか?

ここには「自由」と云はれる、捏造され、賛美され続けた言葉が、大きく関はつている。

まづ、「自由」は「不自由」がないと存在出来なひ。

誰もが「自由」は良いもの、「不自由」は悪いもの、と考えへる。

しかし、実はそこが「意図的にもてはやされた言葉」たる所以である。

例へば、「自己」は「他己」無しでは存在出来なひとする。

「自己」は必ずしも良くて、「他己」は必ずしも悪ひのだらふか?

かふした相反立法で役割がやけに明確な言葉程、ほんたふは、良からぬ意図を持つて押し付けられたものではないだらうか?

「生」と「死」すら、その善悪の役割は曖昧だ。

僕は、自分の母親が余りに不幸な目にばかり逢ひ、「死んだ方が楽だらふ」と、幾度も思つた。

「悪ひ生」、「良ひ死」。

もしくは、「良ひ苦しみ」、「悪ひ安楽」が、確かに存在するのである。

裏をかへせば、「自由」は必ずしも良ひわけではなく、また、「不自由」も必ずしも悪ひわけではなひ。

さうであれば、「自由」「不自由」と云ふ言葉も結構である。

しかし、「絶対的」と言へる程に、「自由」礼賛のイメエジが醸成されている。

この「自由」と、尤も結びつけられてイメエジされるのが「金」であらふ。

「金」を「自由」に使ふ事が、即ち「自由」の安直なイメエジだと思ふ。

しかし、それは「消費の自由」であり、単なる消費行動の程度だと感じるのは僕だけであらふか。

僕が常々願ふ事は、自分も含めて、出来るだけ多くのひとたちが、生きてる間に同時に幸せを感じる事である。

「金」「自由」「幸福」。

その匙加減が、解を求むる方程式なのだ、と、思つてしまふと、暗い気持ちになり、生きる張り合ひすら失つてしまひさふなのです。

だから、今回の「駆け込み需要」と云ふお祭りには、いつさい関わらないつもりです。

仕入れ値は上がるでしやうが、便乗値上げなんて、もつてのほかです。
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