第5話

文字数 2,538文字

 夕方、羽野明日香は現れた。
 唯のシフトは五時までなので、そのくらいの時間に迎えにいくとメールが届いていた。明日香は唯を見付けて小さく手を振ると、声をかけることはなく、書籍の新刊コーナーへ向かった。
 明日香が通りすぎると、近くにいるひとたちがそちらを振り返る。背中に流れる艶やかな黒髪。すらりと背が高く、端整な顔立ちをしている明日香はとても目立つ。今日はシンプルな黒いワンピースに白のボレロを合わせている。明日香には、そういうストイックな衣装がよく似合う。唯は今でも明日香に見惚れてしまうことがたびたびあった。

「お待たせ」
 帰り支度を済ませた唯は明日香に近付く。明日香は本を閉じてふわりと微笑む。
「お疲れさま」
 明日香の車に乗り込み、さてこれからどうしようかと話し合う。
「あのね」
「うん?」
 明日香の言葉に唯はつづきをうながす。なにか重大な秘密を打ち明けるような真剣なようすで明日香はいった。
「すき焼きが食べたい」
 つかのま呆気に取られた唯は、次の瞬間、思わず噴き出した。
「びっくりするじゃない。なにをいうのかと思ったら」
「ごめん。今、急に、ものすごくすき焼きが食べたくなったの」
「いいよ。じゃあそうしよう」
 ふたりは近所のスーパーで材料を仕入れて唯の部屋へ向かった。唯が台所で野菜を切るあいだに、明日香は炬燵テーブルのうえに食器を並べる。
「あれ、このライター、どうしたの」
 明日香の声に、そちらを見る。テーブルのうえには銀色のジッポライターが置かれていた。
「ああ、それ。昨日、薫……兄が忘れていったみたい」
 唯は答える。
 昨夜、唯はいつのまにか眠ってしまったらしく、目覚めると薫の姿はなかった。そして、ライターだけがぽつんと残されていた。
「そうそう、お兄さんがいるんだね」
 思い出したように明日香がいう。
「うん」
 手許に視線を戻して唯はうなずく。
「ひとりっ子だと思ってた」
 思わず手を止める。
「それ、木島くんにもいわれた」
「木島?」
「そう。ほら、新しく入ってきた男の子」
「ああ」
 手が空いたらしく、明日香はこちらへやってくる。
「あのひと、どんな感じ?」
「どんなって」
 ざく切りにした白菜を大皿に盛りながら唯は首を捻る。昨夜の木島との会話を反芻した。
「うーん、ちょっと不思議な感じ。淡々としてるというか。今どきの若い男の子ってああいう感じなのかな」
「今どきのって」
 明日香が笑う。
「わたしたちとそんなに歳は変わらないでしょう?」
「あ、そうだね。でも、どうして木島くんのことを聞くの。ひょっとして、木島くんに興味があるとか」
「ちょっとね」
「えっ」
 予想外の返事に驚いて、唯は持っていた椎茸のパックを床に落としてしまう。
 明日香が他人に関心を示すことはとても珍しい。それはつまり、なんというか、異性として意識しているということだろうか。一瞬のあいだにそういった思考にとらわれて唯は動揺した。そんな唯を見て、椎茸のパックを拾いながら明日香はおかしそうに笑う。
「今、なにかすごいことを考えたね?」
「う、ごめん」
 顔を赤くしてパックを受け取る唯をあやすように、明日香はよしよしと頭を撫でる。そうしてふと、玄関のほうへ注意を向ける。
「だれか来たみたい」
 明日香のいう通り、来訪を告げるチャイムが響いた。
「あ、たぶん兄だと思う。ちょっと待って」
「私が出るよ」
 そういうと明日香はすたすたとドアに近付く。
 台所は玄関のすぐ脇に位置するので、来訪者の姿を見ることができる。
 ドアを開けた明日香をまえにして、水沢薫はしばらく硬直する。彼は奇妙なものを目にしたかのように、わずかに眉をひそめて明日香を凝視した。唯ではない人間が現れたので驚いたのだろう。そう思い、唯は薫の反応を気に留めなかった。
「こんばんは」
 明日香はにこやかに挨拶をする。
「友だちの羽野明日香さん。昨日話したよね」
 そう紹介すると、薫はようやく視線を動かした。
「ああ」
「明日香、兄の薫だよ」
「どうぞよろしく」
 軽くお辞儀をすると、明日香は身を退いて彼をなかへうながした。
「ライターを取りにいらしたのでしょう? よかったらご一緒にいかがですか。ねえ、唯」
「あ、うん」
 突然話を振られて唯は瞬きをする。明日香がそういうなら唯に異存はない。
「すき焼きだよ。材料はたっぷりあるし、一緒に食べよう」
「ぜひどうぞ」
 唯と明日香を交互に見遣り、薫は短いため息をつく。
「わかったよ」
 唯たちは三人で鍋を囲んだ。
「あんたなんで豆腐ばかり食ってるんだ。肉と野菜も食え」
 ひたすら豆腐ばかりを消費しつづける明日香に、見かねたように薫がいう。
 買い物をしたときに、明日香が豆腐を四丁もカゴに入れたのには唯も驚いた。ふたり分なら一丁もあれば充分だと思ったのだが、なるほど。明日香の食べっぷりを見て唯は深く納得した。
「好きなんです、豆腐が」
 明日香は澄ましてそう答える。
「いくら好きでも限度ってもんがあるだろう」
 おかしくなって唯は笑う。
「明日香がそんなに豆腐好きだとは知らなかった。湯豆腐のほうがよかったんじゃない?」
「それはまた今度ね。今日はすき焼きの気分なの」
 薫が口を挟む。
「だいたい、なんですき焼きに牡蠣が入ってるんだよ」
「おいしいでしょう?」
「それは明日香の提案だよね」
「しかも麩まで」
 いやそうに薫がつぶやく。
「え、ふつう、入れるよね」
 明日香は意外そうな顔をして唯に同意を求める。唯は首を傾げる。
「うーん、家庭によってちがうのかも。わたしははじめて」
「そうなんだ。入れないほうがよかったかな」
「ううん、おいしいよ」
 唯の言葉にほっとしたように明日香は微笑む。
「よかった」
 薫はやれやれと肩を竦めて牡蠣に箸を伸ばす。明日香は素知らぬ顔でふたたび豆腐に専念する。唯はひとり、くすくすと笑った。薫は少し気難しいところがあるし、明日香もとても繊細な部分がある。このふたりを引き合わせることは考えてもみなかったけれど、案外相性がいいみたいで、唯はとても嬉しくなった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み