第10話

文字数 3,033文字

 見覚えのある車が駐車場に入ってきた。明日香の車の隣に停まり、運転席から水沢薫が現れる。その手には唯のバッグがあった。彼は運転席の窓を指で叩いて、明日香に外へ出るようにうながす。明日香がドアを開けると、膝のうえにバッグが投げられた。
「なかに鍵が入っている。おれが唯を運ぶから、あんたは部屋のドアを開けてくれ」
「わかった」
 薫は助手席へ回り、眠ったままの唯を抱きあげる。先に行くよう顎で示されたので、うなずいて歩き出す。
 水沢薫に背を向けるのは少し緊張した。彼の両手は塞がっているので背後からいきなり攻撃されることはないだろうが、得体の知れない相手に背を見せるのは勇気が必要だった。
 なにごともなく部屋に入ると、薫は器用に襖を足で開けて、奥の寝室らしい部屋へ唯を抱えていく。明日香は炬燵のうえにバッグを置いて、所在なく立っていた。
「手間をかけたな」
 唯を寝かせてきたのだろう。後ろ手に襖を閉めて彼はいった。明日香は黙って首を横に振る。彼はじっと明日香を見据えて言葉を繋いだ。
「今日のことはもう忘れろ。あんたはなにも知らない。なにも見なかった。そうだろう?」
 うなずくのはたやすいことだ。明日香はものごとに執着しない。ただひとつ、唯を除いては。
 だが、そうするまえに明日香は聞いていた。
「ノーといったら、私を殺す?」
「さあな。だが、あまり利口な選択じゃないと思うぜ」
「ひとつだけ、聞いてもいい?」
「なんだ」
「どうして木島のことを知っていたの」
 薫はすっと目を細めた。視線を逸らさずに明日香は彼を見つめ返す。目を逸らしたら喰われるような気がした。
 しばらくの沈黙のあと、低い声で彼は答える。
「たとえば、どうしてもこの世から抹殺したい人間がいるとする。だが自分では手を下せない。そういうときに、その意思を代行するビジネスがある。まったく、世のなか、至れり尽くせりだな」
「あなたがそれを?」
「そういうことだ」
 驚いた。それはつまり、俗にいう殺し屋、暗殺者というやつではないのか。そんなものは物語のなかだけの存在だと思っていたが、そうと聞いて妙に納得できる部分もあった。
 水沢薫の正体。
 そして、それは同時に、木島を抹殺したいと願っていた人物が存在するということだ。
「じゃあ最初から、木島を狙っていたということ? あの夜も」
「そう、はじめから、あんたとは利害が一致していたわけだ。今後、あんたが唯に危害を加えるつもりがなければ、の話だが」
 喰われそうだと感じたのは気のせいではなかった。彼は獲物を観察する目付きで明日香を見ている。
「羽野トキオ」
 名前を呼ばれる。この姿のときには絶対に呼ばれることのない、自分のほんとうの名前を。
「あんたに女装の趣味があるのはべつにかまわん。見苦しくはないし、正直、まともに出会えばおれにも見破る自信はない。唯は知っているのか」
「唯は知らない。なにも」
「あんたは唯を騙しているのか。名前だけじゃなく、性別、人格までも?」
 薫のいうとおりだった。明日香は黙って唇を噛む。そんな明日香に容赦なく彼はつづける。
「羽野明日香が死んだことを隠すために、あんたは明日香になりすましているのか?」
「違う」
 明日香は即座に否定する。
「唯は、ほんものの羽野明日香には会ったことがない。彼女が知っている明日香は全部、私」
 さすがに薫は驚いたようだ。
「最初から、か?」
 うなずく。
「それで、あんたはどうするつもりなんだ。そんな格好をしていても、あんたは男だ。その気になれば欲望のままに唯を傷付けることもできる。唯はあんたを少しも疑っていない。自分が木島のようにならないといい切れるか?」
 木島のように。自分の欲望のために唯を殺そうとした彼。自分は彼とは違うのか。男として唯を傷付けることはなくても、真実を知った時点でおそらく彼女は傷付くだろう。そういう意味では、明日香はいつかきっと唯を悲しませる。それでも彼女のそばにいたいと願うのは、明日香のエゴでしかない。
「答えられないのか」
 この瞬間、薫は明日香を獲物と定めた。
 はずだった。
「明日香?」
 その声に、殺気をまとった水沢薫はふっと力を緩めて背後に意識を向ける。明日香は息を呑んで彼の背後の襖を見つめた。
「明日香、どこ?」
 唯の声だ。
 今の話を聞かれていた?
 立ち尽くす明日香を尻目に薫は細く襖を開ける。
「唯、どうした」
「明日香は無事なの? 助けてくれたの。木島くんから」
 うわごとのように、小さく頼りない調子で唯がいうのが聞こえた。少し混乱しているのか、まだ半分眠ったままなのか。
 明日香が無事なのは見ていたはずだ。
「大丈夫だ。ここにいる」
 ぶっきらぼうな口調で薫は答える。不本意だという意思がありありとわかるいいかただったが、その言葉に唯は安心したようにひとこと
「よかった」
 とつぶやくと、そのまま静かになった。また眠ったのだろう。明日香はほっと息を吐く。聞かれてはいなかったらしい。
 薫はそのまま唯のようすを窺っていたが、襖を閉めると、おもむろに明日香を振り向いた。
「騙すつもりなら、最後までその嘘を貫き通せ。中途半端な真似はするな。わかったな」
「え?」
 予想外の言葉に驚いて明日香は目を見開く。薫はいまいましげに舌打ちして明日香を睨めつける。視線だけで相手の命を奪えそうな目付きだった。
「勘違いするな。あんたを無条件に認めたわけじゃない。だが、今の唯にはあんたが必要らしい。今まで友だちらしい友だちもろくにいなかったのに、なんでよりによってあんたみたいな面倒なやつにひっかかるんだ」
 そう悪態をつきながらも彼は、今はまだ、唯のために明日香の存在を黙認すると告げている。
 この男は、唯のために明日香を排除しようとし、今度は唯のために明日香を生かそうとする。献身といっても過言ではないような、その振るまいはいったいなんなのだ。
「唯は、あなたのなに?」
「妹だ。それ以外になにが聞きたい?」
 冷ややかな声。
 明日香にも姉がいたからわからなくもない。きょうだいは大切だ。姉のためなら、明日香もたいていのことはできるし、姉も自分のためには力を惜しまないだろうと思える。
 だけど。
 水沢薫の唯に対する過保護ぶりは、家族へのそれというより、むしろ。
 はっとしたときにはすでに目のまえに水沢薫の姿があった。野生の獣のように音もなく素早く近付いてきた彼は、呆然と立ち尽くしたままの明日香の首を難なく掴むと、指先に力を込めた。喉を圧迫されて明日香は顔をしかめる。
「余計な詮索は無用だ。おれは唯のようにやさしくはない」
 喘ぐように息をして明日香は小さくうなずく。薫は無表情のまま、ゆっくりと指を離した。
 木島を排除した手で唯の髪を撫でるように、彼はきっと、明日香を葬り去ったその手で、同じように唯を慈しむのだろう。
 これから先もずっと。

 *****

 唯は眠りつづける。
 何度かふっと目を覚まして、だれかと言葉を交わした気がするが、朦朧としていて夢かうつつかはっきりとしない。だれかがそばにいて、ときどき、額に触れるものがあった。
 夢かもしれない。
 それはとてもやさしい感触で、唯は心安らかに眠りに身をゆだねることができた。
 そうして、夜の底で、彼女は眠りつづけた。
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