第2話
文字数 2,953文字
羽野明日香は繁華街に佇んでいる。
十一月にしては暖かい夜。
明日香は一軒の居酒屋の入口に注意を向けていた。黒いパーカにジーンズ、長い髪をうしろで束ねてキャップの下に収めている。そういう格好をしていると、ボーイッシュな少女か、少女のような男の子、どちらにも見える。
明日香はひとを待っている。といっても待ち合わせではない。
相手は明日香がこの場所にいることを知らないし、明日香自身も彼女と会うことが目的ではない。
つまり見張っているのだ。
なんのために、と聞かれても困る。言葉に表せるような明確な理由はない。
漠然とした不安。それだけだ。思い過ごしならそれでいい。もしなにかが起きてからでは遅いのだ。
目立たない場所に立っているつもりなのだが、通りすがりの人間が声をかけてくる。うるさい。明日香はそれらを完全に黙殺する。だが、先ほどから三人の少年たちがしつこく絡んできて閉口していた。外見に金と手間を費やし、肝心の中身はがらんどうという典型的な人間のようだ。こういうタイプはプライドだけは人並み以上に高い。
さて、どうすべきか。明日香は考える。視線はしっかり居酒屋を捉えたままで。
今は騒ぎを起こしたくない。
そう思ったが、少年のひとりが明日香の肩を掴む。彼らの発音は不明瞭で、なにをしゃべっているのかわからない。
どうやら、明日香をどこかへ連れていこうとしているようだ。それは困る。
ふいに、明日香の肩を掴んでいた手が離れた。背後から伸びた腕が少年の顔面を押さえている。正解には掴んでいる。まるでバスケットボールかなにかのように。少年は悲鳴ともつかない情けない声を漏らした。
呆気に取られたのは明日香だけではない。ほかの少年たちも呆然と立ち尽くしている。
「おれの連れになにか用か」
明日香のすぐそば、頭のうえから声が降ってくる。低く、よく通る声だ。振り向くと、黒いジャケットがまず目に入る。視線をあげる。削いだような頬の線。鋭い眼差し。
男は一度も明日香を見ず、無造作に少年を放り出す。ほかのふたりが避けたため、その少年はコンクリートのうえに投げ出された。かなりの衝撃を受けたはずだが、それにはかまわず、両手で顔を押さえて呻いている。よほど圧迫されたのだろう。反撃してくるかと思ったが、その心配は杞憂だった。彼らは気勢を殺がれたらしく、倒れたひとりを引きずるようにして逃げていった。
残ったのは、明日香と男のふたり。男はそこでようやく明日香を見た。無表情だ。
自分の連れだといって助けてくれた男に向き直り、礼をいう。
「どうもありがとう」
「いや。あんた、なかなか度胸がいいな」
どの言動に対して度胸がいいといわれたのかがわからない。首を傾げる明日香に、あまり関心のなさそうな口振りで男は続ける。
「さっきのガキどもが戻ってくるかもしれん。あんたはもう帰ったほうがいい。それとも、だれかと待ち合わせているのか」
「待ち合わせというか、一方的に待っているんだけど。この場所、まずいかな」
「まずいだろうな」
あっさりと男はうなずく。
「あんた、ストーカーか」
突然の言葉に面食らうが、今の自分の行為はたしかにそれに近いと思い、明日香はおかしくなった。
「うーん、そういわれると否定できないかも」
「やめとけ」
やれやれというふうに男は首を振る。
「未練はあるだろうが、諦めも肝心だ」
明日香は噴き出す。
「なにを想像しているの。待っているのは友だちだよ」
「友だち?」
男は怪訝そうな声になる。
「なんで友だちを尾けるんだ」
「べつに悪いことをしようとしているんじゃないよ。むしろ逆」
「は?」
明日香は強引に話を変える。
「あなたは? 待ち合わせ? それともただの通りすがり?」
「連絡待ちの通りすがりだ」
「へえ、恋人?」
「違う」
男は冷ややかな一瞥を寄越す。明日香は上目遣いに男を窺う。
「ごめんなさい。怒ったの」
「その目はやめろ。怒ってない。あんた、変わり者だといわれないか」
明日香は微笑んで答える。
「いわれないけど自覚はあるよ」
「それならいい」
男は顎をしゃくるようにして明日香の視線をうながす。
「で、あんたの友だちとやらは、あの店にいるわけか」
「え」
驚いて目を見開く。男の視線はまさに明日香が注意を払っていた居酒屋に向けられている。
「なんで」
「あんた、ずっとあの店を見ていただろう」
男はつまらなそうに淡々という。
「尾行してもすぐにばれるな。あんた目立つし。やめたほうがいい」
しばらくのあいだ、明日香は呆然と目のまえの男を見ていた。男は店のほうへ顔を向けている。
「あなたなにもの?」
「さっきいったろう。連絡待ちの通りすがりだ」
視線を動かさずに男は答える。
「だれか出てきたな」
明日香もそちらへ意識を向ける。
居酒屋の出入口から複数の人間が姿を現す。かなりの人数だ。十人はいるだろう。明日香の立っている場所は店から適度に距離があるので、おそらくこちらの姿は見付からないはず。しかし、こちらからは店の周辺を見渡すことができる。
目的の人物はそのなかにいた。明日香は視力がいいのですぐに彼女を見分けることができる。見覚えのあるハーフコートを羽織った彼女は集団と挨拶を交わしたのだろう、礼をする仕草をして、ひとりその場に残った。集団は賑やかに店から遠ざかっていく。
彼女はバッグからなにかを取り出す。携帯端末だとわかった。
明日香は友人のようすをじっと見守る。
突然、場違いなほど明るい音楽が流れだして明日香はぎょっとした。端末の着信音だ。一瞬、自分のものが鳴っているのかと思ったが、張り込むまえにちゃんとマナーモードに設定してある。
音楽はすぐに途切れた。音の出所は明日香の隣にいる男だ。彼は懐から取り出した端末を耳にあてて応答する。
「ああ、わかった、すぐに行く。人通りのある場所で待ってろよ」
男の声を聞きながら、明日香の目は友人の姿を捉えている。彼女は電話でしゃべっているようだったが、その時間はとても短く、一分もかからなかった。
友人と、明日香の傍らにいる男は、ほとんど同時に通話を終えた。
「まさかとは思うが」
端末を内ポケットに収めて男がいう。
「あんたの友だちというのはあの娘じゃないだろうな」
明日香と男は同じ人物を見ている。明日香は黙っていた。それが答えだった。
「悪い予感は当たるもんだ」
男は苦々しい口調になる。
「さっきいったよな。あんた。悪いことをしようとしているんじゃない、って」
明日香は男の目を見てうなずく。
「よし。忘れるなよ」
男はすでに歩き出していた。あわてて明日香は呼び止める。
「待って、あなただれ?」
「そういうときは自分から名乗るもんだぜ」
面倒そうな声がいう。明日香は簡潔に名乗った。
「羽野明日香」
男は振り向くと、じろじろと遠慮のない目で明日香を見た。
「アスカ? 本名か?」
とくに珍しい名前ではない。男の反応がおかしかったので明日香は笑った。
「変かな」
「変わってるな」
男は肩を竦めた。
「おれは水沢薫だ」
十一月にしては暖かい夜。
明日香は一軒の居酒屋の入口に注意を向けていた。黒いパーカにジーンズ、長い髪をうしろで束ねてキャップの下に収めている。そういう格好をしていると、ボーイッシュな少女か、少女のような男の子、どちらにも見える。
明日香はひとを待っている。といっても待ち合わせではない。
相手は明日香がこの場所にいることを知らないし、明日香自身も彼女と会うことが目的ではない。
つまり見張っているのだ。
なんのために、と聞かれても困る。言葉に表せるような明確な理由はない。
漠然とした不安。それだけだ。思い過ごしならそれでいい。もしなにかが起きてからでは遅いのだ。
目立たない場所に立っているつもりなのだが、通りすがりの人間が声をかけてくる。うるさい。明日香はそれらを完全に黙殺する。だが、先ほどから三人の少年たちがしつこく絡んできて閉口していた。外見に金と手間を費やし、肝心の中身はがらんどうという典型的な人間のようだ。こういうタイプはプライドだけは人並み以上に高い。
さて、どうすべきか。明日香は考える。視線はしっかり居酒屋を捉えたままで。
今は騒ぎを起こしたくない。
そう思ったが、少年のひとりが明日香の肩を掴む。彼らの発音は不明瞭で、なにをしゃべっているのかわからない。
どうやら、明日香をどこかへ連れていこうとしているようだ。それは困る。
ふいに、明日香の肩を掴んでいた手が離れた。背後から伸びた腕が少年の顔面を押さえている。正解には掴んでいる。まるでバスケットボールかなにかのように。少年は悲鳴ともつかない情けない声を漏らした。
呆気に取られたのは明日香だけではない。ほかの少年たちも呆然と立ち尽くしている。
「おれの連れになにか用か」
明日香のすぐそば、頭のうえから声が降ってくる。低く、よく通る声だ。振り向くと、黒いジャケットがまず目に入る。視線をあげる。削いだような頬の線。鋭い眼差し。
男は一度も明日香を見ず、無造作に少年を放り出す。ほかのふたりが避けたため、その少年はコンクリートのうえに投げ出された。かなりの衝撃を受けたはずだが、それにはかまわず、両手で顔を押さえて呻いている。よほど圧迫されたのだろう。反撃してくるかと思ったが、その心配は杞憂だった。彼らは気勢を殺がれたらしく、倒れたひとりを引きずるようにして逃げていった。
残ったのは、明日香と男のふたり。男はそこでようやく明日香を見た。無表情だ。
自分の連れだといって助けてくれた男に向き直り、礼をいう。
「どうもありがとう」
「いや。あんた、なかなか度胸がいいな」
どの言動に対して度胸がいいといわれたのかがわからない。首を傾げる明日香に、あまり関心のなさそうな口振りで男は続ける。
「さっきのガキどもが戻ってくるかもしれん。あんたはもう帰ったほうがいい。それとも、だれかと待ち合わせているのか」
「待ち合わせというか、一方的に待っているんだけど。この場所、まずいかな」
「まずいだろうな」
あっさりと男はうなずく。
「あんた、ストーカーか」
突然の言葉に面食らうが、今の自分の行為はたしかにそれに近いと思い、明日香はおかしくなった。
「うーん、そういわれると否定できないかも」
「やめとけ」
やれやれというふうに男は首を振る。
「未練はあるだろうが、諦めも肝心だ」
明日香は噴き出す。
「なにを想像しているの。待っているのは友だちだよ」
「友だち?」
男は怪訝そうな声になる。
「なんで友だちを尾けるんだ」
「べつに悪いことをしようとしているんじゃないよ。むしろ逆」
「は?」
明日香は強引に話を変える。
「あなたは? 待ち合わせ? それともただの通りすがり?」
「連絡待ちの通りすがりだ」
「へえ、恋人?」
「違う」
男は冷ややかな一瞥を寄越す。明日香は上目遣いに男を窺う。
「ごめんなさい。怒ったの」
「その目はやめろ。怒ってない。あんた、変わり者だといわれないか」
明日香は微笑んで答える。
「いわれないけど自覚はあるよ」
「それならいい」
男は顎をしゃくるようにして明日香の視線をうながす。
「で、あんたの友だちとやらは、あの店にいるわけか」
「え」
驚いて目を見開く。男の視線はまさに明日香が注意を払っていた居酒屋に向けられている。
「なんで」
「あんた、ずっとあの店を見ていただろう」
男はつまらなそうに淡々という。
「尾行してもすぐにばれるな。あんた目立つし。やめたほうがいい」
しばらくのあいだ、明日香は呆然と目のまえの男を見ていた。男は店のほうへ顔を向けている。
「あなたなにもの?」
「さっきいったろう。連絡待ちの通りすがりだ」
視線を動かさずに男は答える。
「だれか出てきたな」
明日香もそちらへ意識を向ける。
居酒屋の出入口から複数の人間が姿を現す。かなりの人数だ。十人はいるだろう。明日香の立っている場所は店から適度に距離があるので、おそらくこちらの姿は見付からないはず。しかし、こちらからは店の周辺を見渡すことができる。
目的の人物はそのなかにいた。明日香は視力がいいのですぐに彼女を見分けることができる。見覚えのあるハーフコートを羽織った彼女は集団と挨拶を交わしたのだろう、礼をする仕草をして、ひとりその場に残った。集団は賑やかに店から遠ざかっていく。
彼女はバッグからなにかを取り出す。携帯端末だとわかった。
明日香は友人のようすをじっと見守る。
突然、場違いなほど明るい音楽が流れだして明日香はぎょっとした。端末の着信音だ。一瞬、自分のものが鳴っているのかと思ったが、張り込むまえにちゃんとマナーモードに設定してある。
音楽はすぐに途切れた。音の出所は明日香の隣にいる男だ。彼は懐から取り出した端末を耳にあてて応答する。
「ああ、わかった、すぐに行く。人通りのある場所で待ってろよ」
男の声を聞きながら、明日香の目は友人の姿を捉えている。彼女は電話でしゃべっているようだったが、その時間はとても短く、一分もかからなかった。
友人と、明日香の傍らにいる男は、ほとんど同時に通話を終えた。
「まさかとは思うが」
端末を内ポケットに収めて男がいう。
「あんたの友だちというのはあの娘じゃないだろうな」
明日香と男は同じ人物を見ている。明日香は黙っていた。それが答えだった。
「悪い予感は当たるもんだ」
男は苦々しい口調になる。
「さっきいったよな。あんた。悪いことをしようとしているんじゃない、って」
明日香は男の目を見てうなずく。
「よし。忘れるなよ」
男はすでに歩き出していた。あわてて明日香は呼び止める。
「待って、あなただれ?」
「そういうときは自分から名乗るもんだぜ」
面倒そうな声がいう。明日香は簡潔に名乗った。
「羽野明日香」
男は振り向くと、じろじろと遠慮のない目で明日香を見た。
「アスカ? 本名か?」
とくに珍しい名前ではない。男の反応がおかしかったので明日香は笑った。
「変かな」
「変わってるな」
男は肩を竦めた。
「おれは水沢薫だ」