急襲

文字数 2,951文字

 柏人へ向かう劉秀は道々敗残兵を収容しつつ、彼らはそのまま後方に送り、行軍速度は落とさなかった。同時に王郎軍(劉秀はまだ敵将の名を知らない)の動きを偵察させることも忘れない。
 その偵兵の報告に劉秀はいささか驚いて目を剥いた。
「柏人へ逃げ込むのではないのか」
 前軍を撃破した王郎軍の数は自分たち本隊よりかなり少ない。であれば早々に柏人へ逃げ込んで籠城戦に入ると踏んでいたのだが、彼らは自分たちの方へ向かってきているという。
「我らに野戦を挑もうというのか」
 寡兵をもって大軍を撃つことは劉秀自身が昆陽の戦いで実践しただけに「舐められている」とは思わなかったが、それでも敵将は前哨戦の勝利に相当自信を付けたらしい。
 あるいは王郎の援軍が近づいているのかと内心でひやりとしたが、現状、周囲にその気配はない。一応偵兵を出して伏兵や援軍の存在を確認させるが、そもそも王郎の援軍がやってくるとすれば南からで、北から南へ向かっている自分たちの側背に回ってくる可能性は低いだろう。
 

 それゆえひとまずは目の前の敵に集中する。
 まず寡兵だというのに野戦を挑もうとする敵の意図である。
 前軍への奇襲はともかく、自分たちとの野戦も敵の最初からの予定だったのだろうか。
「何か効果的な戦術があるのか」
 だがだとすると自分たち本隊にではなく前軍へ奇襲をおこなったことがいぶかしい。前軍をやりすごし本隊へ襲いかかれば、それですべてに完勝できていたかもしれないのだ。つまり敵将は自分たちの兵数では本隊への奇襲が不首尾に終わる可能性が高いと考えていたに違いない。
「それなのになぜ野戦…」
 劉秀の見たところ、敵将は伏兵もなく地形を活かすこともできず、援軍もなく、奇襲も使えない。
 それなのに大軍に野戦を挑むなど辻褄が合わない。劉秀は敵将の一貫しない意図に混乱した。が、
「いや、野戦をしたいのではなく、せざるを得なくなったとすればどうだ」
 劉秀はそのことに気づき、計算の得意な部下を呼ぶと、自分たちが行軍速度を速めなかった場合の、敵が柏人へ帰り着くまでの時間を算出させた。
「やはりそうか」
 それによれば行軍速度維持の場合、敵軍は悠々と柏人へ帰り着けるとのことであった。どうやら自分たちの動きが敵の意図を狂わせた可能性が高いと劉秀は踏んだ。
「となれば、これをさらに利用できないか…」
 劉秀は熟考し、一つの策を思いつく。いささか技巧が過ぎるかと自分でも危惧するきわどい策だったが、駄目なら駄目で別の方法を考えるまでで、やってみる価値はありそうだった。


 その報告に李育はいぶかしげな表情になった。
 漢本隊の行軍速度が鈍ったというのだ。
「どういうことだ」
 すでに敗北したとはいえ、あるいはだからこそ、漢本隊は前軍の救援に駆けつけるため行軍速度を上げていたはずである。それなのになぜ。
「……」
 李育も熟考する。戦闘を放棄して前軍の敗残兵回収に専念するということかもしれないが、そこを自分たちに突かれては大敗してしまう。何をするにしてもまずは邪魔者である自分たちを排除してからでなければ話にならない。


 とすれば自分たちと戦うための減速と考えるのが妥当だが、劉秀の意図はなんであろうか。
 李育は偵兵に漢本隊の減速の様子も尋ねた。乱れていたか、整っていたか。
 答えは後者であった。
「我らを誘い込むつもりか」
 結論はそうなる。
 すでに漢本隊も自分たちが野戦を挑もうとしていることは察しているだろう。いま漢本隊がいるあたりは見晴らしのいい平原で、確かに大軍が戦うに向いている場所である。
「ふむ…」
 この状況の変化に李育も迷いが出た。勝利の勢いのまま漢本隊を撃退してやろうと意気込んでいたのだが、どうやら敵は冷静に戦意を保ってこちらを待ちかまえているらしい。これだけでもすでに自軍の勢いに水を差されたことになる。
 李育としては敵は前軍を壊滅させたこちらを多少なりとも恐れていると期待しての進軍だったが、それは見込み違いだったのだろうか。
「なにしろ昆陽の勝者だからな、あの劉家の三男坊は…」
 三千の兵で百万の王莽軍を破った昆陽の戦いは、劉秀の武名を飛び抜けたものにしている。あるいは「敵を名で(おど)せる」域に達しているかもしれず、このときの李育は確かに劉秀の武名にややひるんだのである。
「よし、柏人へ帰還する。進路を変更せよ」
 漢本隊の動きが予想以上に速かったため野戦を覚悟したのだが、彼らが減速して柏人帰還が困難でなくなったのであればその必要はない。
 それに「奇襲後はすみやかに柏人へ帰還」がもともとの戦略である。それもあって李育も撤退にさほどの抵抗はなかった。
 兵たちも朝令暮改そのものの命令や、新たな勝利とそれによる新たな褒賞を得られないことへの不満はあるかもしれないが、すでに前軍に対する快勝と彼らの輜重という戦利品は得ている。
 また勝ち戦とはいえ一戦した後の疲労も当然あった。帰還後の兵に対する李育のねぎらいに過誤がなければ、さほどの問題にはならないだろう。
 諸々の事情から、李育軍は、再度陣頭を本拠地である柏人へ向けなおした。


 劉秀は李育軍の転進を見逃さなかった。というよりこれを期待していたのだ。
「全軍全速! 連中を柏人へ入れさせるな!」
 会心の笑みを浮かべると、劉秀は全軍へ命令を発し、減速していた漢本隊は一気に速度を上げた。
 前軍を救援に向かうための速度が強行軍だったとすれば、これはさらにその上、「最強行軍」とも言うべき速さである。
 漢本隊は李育軍を猛追した。


 この漢本隊の急進に李育は面食らった。そして次の瞬間、劉秀の狙いを遅れて看破した。
「おのれ…!」
 劉秀は積極的な戦意がないように見せてこちらを油断させ、後背を撃てる形にしてしまったのだ。自分たちに主導権があると思いこんでいた李育は、これに引っかかってしまったのである。


 攻守が見事に入れ替わり、今度は李育たちが背後から襲われる危険を背負う羽目に陥った。
 ここで再度反転して陣を()いても、自分たちより数の多い相手と正面から戦うことになる。まして相手に勢いがあり、自分たちにはすでに一戦を終えた疲労もあった。これら様々な不利を覆す策など、今の李育には思い浮かばなかった。
「こうなれば一刻も早く柏人へ逃げ込むのだ。後ろを振り返るな。一心不乱に走れ!」
 だがまだ追いつかれたわけではない。柏人へいち早く到達できれば、城門と城壁に守られた籠城戦ができる。それならまだ戦える。
 李育は兵を叱咤し、行軍速度を上げさせた。


 李育の狙いは妥当であり現実的でもあった。単純に考えて数が少ない方が多い方より足は速くなる。体重が軽い者の方が重い者より速く走れるのと同じことだ。
 だが自軍の速度は李育が期待するほど上がらなかった。
「どうした、もっと速く進め。このままでは追いつかれかねないぞ」
 李育は焦りを表面に出さないよう気をつけながら尋ねたが、側近の返答は意外なものであった。
「敵前軍から奪った輜重が多すぎます。これ以上は無理です」
 李育は「あっ」と目を見開いた。確かに身一つであれば李育軍は漢本隊より軽い。しかし今は「重石」を身内に抱えていたのだ。勝利の象徴と実質的な士気の源が、厄介者に転化してしまっていた。



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