祓除

文字数 3,102文字

 鄧禹の謹慎期間は長くはなかった。劉秀陣営にいつまでも鄧禹のような逸材を持ち腐れさせておく余裕はない。
 宜陽での事後処理をすませ、洛陽へ戻ってくると、鄧禹は仕事へ復帰した。


 その内容はなんだったろうか。史書に明確な記述はないが、おそらくは劉秀の補佐に徹していたのではないかと思われる。それは長安遠征前に鄧禹が就いていた任であり、つまり天職であった。
「私は陛下の元でこそ存分に力を発揮できる」
 今回のことで鄧禹はそのことを痛感していた。自分は主体にはなれない。その器ではない。
 しかしそのことに鄧禹は何の恥も卑下も感じていなかった。
「王佐こそ我が本懐」
 自らの本質を知った鄧禹は、さらに自分が信じられないほどの幸運児であることもあらためて自覚した。おそらく歴史上でも類を見ないほどの幸運である。
「私がお仕えしている方は天人だ」
 鄧禹は劉秀に初めて会った頃のことを思い出していた。人を見る目に長けた自分が唯一まったく見えなかった人物。空よりも広く、広く、海よりも深く、深く、人あらざる存在かと思わせるほどの器量を持ちながら、彼自身はあくまでも人臭い。
 ほとんどの人には彼の真価を知ることはかなわず、しかし彼の知勇、大器は天をも貫く。
「私の天命は、この方の大志を実現することにある」
 鄧禹は三十に満たず自らの人生を見つけた。


 鄧禹の決心に対し、劉秀はどうだったであろうか。
 これは何も変わらなかった。変わらないことが最上であり非凡の証である。
「今日からまた頼むぞ、仲華」
 謹慎明けの初日、朝廷で鄧禹の謹厳な挨拶を受けた劉秀は、笑ってそう言った。
 鄧禹に対する明確な罰はなかった。謹慎自体がそれであり、また罪は功績にて(あがな)えというのが方針でもある。
 そもそも敗北どころか鄧禹(=劉秀)に対して叛乱を起こした馮愔(ふういん)すら許されているのだ。
「はい、全力をもって務めさせていただきます」
 諸々の事情をすべて理解している鄧禹も必要以上に悪びれず、しかし心底からの返事をすると、あらためて深々と頭を下げた。


 さて、赤眉を吸収したとはいえ、劉秀はまだ最終勝者になったわけではない。
 梁に盤踞する劉永(りゅうえい)、涼州の隗囂(かいごう)、蜀の公孫述(こうそんじゅつ)など、まだまだ中原に鹿を追う(帝位を争う)相手は多い。
 劉秀は彼らを同時に相手にしなくてはならず、またすでに支配した地域の(まつりごと)にも着手せねばならない。
 頭も手もいくらあっても足りない状態であるが、鄧禹がいるだけでその負担は目に見えて軽減した。
「やはり仲華がいてくれなければ(ちん)は何もできぬな」
 劉秀がほがらかに言うことに嘘はまったくなく、鄧禹も控えめに会釈を返す。
 日々の激務とその成果に、鄧禹の傷心も徐々に癒えてきた。


 この時期、鄧禹の官位はわかっていない。梁候は爵位で、大司徒のような朝廷での官位とは別物なのだ。あるいはしばらくは無官のまま、劉秀の個人的な秘書や相談役のような立場で奉公していたのかもしれない。
 しかし大司徒を罷免されて数か月後、鄧禹は右将軍に任じられた。
 右将軍を含む、いわゆる前後左右将軍は臨時の将軍職に近い。乱世では突発的に兵をひきいて出撃しなくてはならないことも多々あり、そのような時に任命されることも多いが、この場合は少し違った。
「いずれ出撃させることもあるゆえ心構えはしておけ」
 という劉秀の内意である。
 鄧禹の本領が将軍ではなく参謀であることは、彼本人も劉秀もすでに理解しているが、これは必要なことだった。将軍の立場にあっての鄧禹の最後の戦いは敗北、しかも大敗であり、これは古代という時代においては、周囲が彼に縁起の悪さを見てしまう。
 つまり再度の出撃で勝利し(けが)れを払う必要があるのだ。
 そのことを理解している鄧禹も、覚悟を決めて拝命した。 


 そして鄧禹の祓除(ふつじょ)にふさわしい相手が現れた。
 建武四年(西暦28)春、秦豊(しんほう)と合した延岑(えんしん)順陽(じゅんよう)近辺を荒らしまわっているというのだ。
 順陽は洛陽のある河南尹(かなんいん)の南に隣接する南陽郡の県である。また南陽は劉秀や鄧禹の故郷でもあり、つまり彼らのお膝元といっていい。そのような場所を蹂躙されていては王朝の沽券に関わる。
 また鄧禹は延岑と長安遠征時に戦っている。そのときは勝敗明らかならずという結果であり、それも含めて討伐の将に鄧禹はふさわしかった。
「右将軍鄧禹に命ずる。複漢将軍鄧瞱(とうよう)、輔漢将軍于匡(うきょう)を率い、延岑を討て」
「御意。必ずや陛下のご命令を果たしてまいります」
 劉秀の意図と思いやりを察する鄧禹も従容(しょうよう)として勅命を受ける。
「これが最後の出陣だな」
 もちろんこれからも従軍することはあるだろうが、それは劉秀の参謀としてであり、こうして一将軍として兵を率いるのは最後となるだろう。
 だがそこに無用な気負いも感慨もなかった。ただ必勝を期するのみである。


 鄧禹接近の報を聞いた延岑は、順陽から一度退いて南下すると、南陽郡の南端にある(とう)県で彼を迎え撃つ。
「鄧禹の孺子などなにほどのものか」
 一度対戦している以上、延岑は鄧禹のすべてを見切ったと感じている。だからといって油断はせず、だが油断さえしなければ負けるはずがないとも考えていた。南下して戦場を選んだことからも、それは感じられる。
 だがやはり延岑は鄧禹を見誤っていた。藍田(らんでん)で戦ったときの鄧禹は、常の彼とは違っていたのだ。
 此度(こたび)の鄧禹は万全だった。
 兵の編制を可能な限り十全にほどこし、二人の将軍も完全に指揮下に置いた。輜重も完璧に近いほど整え、延岑や戦場の情報も絶えず偵騎を放って探らせ、敗因となりうる要素を塗りつぶし、塗りつぶししてゆく。
 つまり鄧禹は長安失陥後の自分と真逆なことを徹底的におこなったのである。
「水も漏らさぬというやつだな」
 その準備を遠巻きに見ていた劉秀は、苦笑に近い表情で独語した。それほどに鄧禹の意気と、そして遠征の失敗への悔悟を感じ取ったのだ。


 それでもなお負けることがあるのが戦いだが、今回の結果は多数派に属した。より準備に手を抜かなかった方が勝ったのだ。
 延岑は撃破され、西へ敗走する。それを追う鄧禹軍を延岑は武当で迎撃しようとするがさらに叩き伏せられ、彼の余党はことごとく降った。
 だが延岑自身は捕縛を逃れて逃走に成功する。それを鄧禹は追わなかった。
「今回はこれでいい」
 李宝と組んで十数万の逄安(ほうあん)を敗かしたことがあるように、延岑は将才も水準以上に持ち合わせていたが、彼の真価は「逃げ上手」と「再起への執念」にこそあった。延岑はいかに敗北しようとも、なぜか必ず逃げ切り、新たな勢力を築いてしまうのだ。
 実はこの延岑、鄧禹が討つ前に同じ劉秀の臣下である耿弇(こうえん)等に散々に敗北しているのだが、すぐに復活して慮掠(りょりゃく)を始めたため、彼が出陣することになったのだ。
 そのような相手を深追いしても、時間も兵も無駄に浪費するだけで徒労に終わってしまう。逃がした時点で鄧禹の「負け」だった。
 延岑を討ち取るには、戦場から絶対に逃がさないほどの完勝を奪うか、逃げる場所がなくなるほど全土を完全に掌握するしかないだろう。事実、延岑はこのあと漢中まで落ち延び、蜀に盤踞する公孫述の麾下に入るが、公孫述は劉秀の天下統一における最後の敵であり、延岑の命運もそこで尽きることになるのだ。


 そして何より、今回の出陣の一番の目的は鄧禹の「祓除」である。それはこの勝利であがなわれた。
「さあ、凱旋だ」
 南陽から今度こそ延岑を完全に排除したことを確認した鄧禹は、事後処理も済ませると将兵へほがらかに告げ、洛陽へ向けて軍を返した。
「これで陛下にあのことをお頼みすることができるぞ」
 と、秘めた決心を心中につぶやきながら。

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