絶望

文字数 4,015文字

 しかし事態はすでに二人の制御できる範囲を越え始めていた。
「車騎将軍敗北! 敵の追撃を受けながらこちらへ敗走中です!」
「なんだと!」
 鄧弘へ帰還命令を出しながら、自らも退却準備に入っていた鄧禹は、その命令を持たせた伝令が思わぬ報告を持って戻ってきたことに愕然とした。
 鄧弘はここ数日、赤眉に属する近辺の群盗や、赤眉本隊の先鋒の一部隊との小競り合いで一進一退を演じてはいたが、完敗を喫して退却してくるようなことは一度もなかった。
 それゆえ鄧禹も驚いたのだが、このときは赤眉の方が一枚上だった。


 赤眉はこれまで数度戦ったことで、鄧弘の戦い方や彼の兵の特徴を学んでいた。
 鄧弘の用兵に細心や工夫は感じられない。ただただ突進し、正面からぶつかるだけである。
 そして彼の兵は飢えていた。
 鄧禹や鄧弘も駐屯地の近くから食糧を調達してはいるのだが、戦闘が頻繁に起こる地域でそれらを得るのは難しかった。馮異も多少は融通してくれるが自兵の食糧まで分け与えるわけにはいかず、鄧禹たちは慢性的に食糧不足の状態だったのだ。
 それでも鄧弘が遮二無二何度も出撃しなければある程度は余裕を持てたのだが、補給を軽視するのは愚将の特徴の一つである。


 赤眉本隊の先鋒の一部隊と激突した鄧弘だが、思いのほか彼らは(もろ)かった。対峙してしばらくするとすぐに算を乱して逃げ始めてしまう。しかも輜重(しちょう)を捨ててである。
「おい、食い物だ!」
 それを見た鄧弘の兵たちは、逃げ散った赤眉には目もくれず、置き去りにされた荷車に群がってゆく。
「貴様ら、なにをやっておるか! 追え! 赤眉を追うのだ!」
 鄧弘は眉を跳ね上げて追撃命令を下すが、彼の兵は将より胃袋の命令に盲従し、荷車に山のように積まれた豆を貪り食い続ける。自制心に乏しい将にひきいられた兵らしい自律心の無さだが、しばらく豆を貪っていた彼らが不意に驚きと怒りの声をあげた。
「なんだこりゃあ! 土じゃねえか!」
 同様の声が輜重に群がる兵のそこここからあがる。輜重に積まれていたのは土であり、豆はその表面を薄く覆っていただけだったのだ。
 このことに兵は怒声をあげるだけだったが、曲がりなりにも鄧弘は将である。その意味を悟ると蒼ざめた。
「罠だ! 赤眉がすぐに取って返してくるぞ!」
 悲鳴に近い鄧弘の声に兵たちは咄嗟(とっさ)に反応できなかったが、すぐに彼らの将が言っている意味がわかった。
 逃げ散ったはずの赤眉が自分たちへ突進してくる姿が見えたのだ。


 赤眉の敗走は、鄧弘の単純な性情と、彼の飢えた兵の弱点を突いての佯敗(ようはい)だった。
 逃げたと見せた赤眉はすぐに反転すると、武器も捨てて偽輜重に群がり、隊伍も完全に崩れている鄧弘の兵へ、残忍なほどの勢いで襲いかかった。
「退却! 退却!」
 いかに無謀で過剰な自信を誇る鄧弘であっても、この状況ではこれ以外の命令は出しようがなかった。


 鄧禹が報告を受けたのはこの段階だった。それゆえ退却準備中だった鄧禹にも、この命令しか出せなかった。
「車騎将軍の救援へ向かう! 全軍、発進!」
 友軍の危難に救援に向かわないのは戦場にいる軍隊としてありえない。もちろん様々な理由や事情でそれが不可能なこと、あるは救援に向かわない方が味方や逃げて来る兵にとって益がある時はあえて出撃しない場合もあるが、今回はそのどれでもなかった。
 それゆえ鄧禹の命令は正しく、同じく鄧弘敗走の報を受けた馮異も同様に出撃しないわけにはいかなかった。
 それは単なる軍事上の常識ではなく、鄧弘の敗走に巻き込まれて馮異等も埋伏する間もなく赤眉に蹴散らされてしまう恐れがあるためでもあった。それでは劉秀の壮大な挟撃策戦も画餅と化してしまう。
「なんとか赤眉を撃退して、そのまま整然と退却せねば」
 鄧禹にわずかに遅れて出撃した馮異は、その算段のもと、兵を走らせた。


 赤眉は無防備に鄧禹と馮異の迎撃(カウンターアタック)を喰らってしまった。
 もともと逃げる敵を追う時、兵は自らの安全を確信し、敵兵を襲う快感に酔ってしまう。 
 ゆえに逃げまどう鄧弘の兵の陰からいきなり精強な兵が飛び出してきたことに、赤眉の兵は驚き面喰ってしまった。
「叩きつぶせ!」
 赤眉兵が(ひる)んだのを見た馮異は、勢いのまま兵を叩きつけ、彼らの前衛を粉砕してしまう。
 当然、鄧禹の兵も同じように赤眉兵を蹴散らしてゆく。
「退け! 退け!」
 この惨状にはさすがに打つ手はなく、今度は赤眉の将が退却命令を出すしかなかった。
「よし、このまま我らも退却だ」
 目的を果たした馮異はホッと息をつくと、そのまま退却、本来の予定通り湖を放棄して兵を埋伏させるつもりだった。


 が、退却した赤眉がそのまま逃走に移るかを確認させるために放っていた偵騎が戻ってくると、その報告に眉根を寄せる。
「逃げてはいないのか」
 押し返した赤眉が逃げ散らず、再度態勢を立て直しつつあるという。
 詐術を使って鄧弘を潰走させたことといい、逃げる兵をすぐに再編させる統率力といい、史書に名は残っていないがこの時の赤眉の将は相当に有能である。
「これではすぐには退けぬか」
 もしこのまま自分たちも退却すればその背後を襲われる恐れがある。もう一戦して敵を完全に撃退し、背後の安全を確保してから退く必要ができてしまった。
 馮異ならそれは充分に可能であり、この程度の誤差であれば当初の予定もさほど狂わない。


 だが敵兵の詳細を探らせるため、あらためて偵騎を放とうとしたところへ、さらなる誤算が報告の形でやってきた。
「大司徒の兵が赤眉を追撃しようとしております!」
「なんだと!」
 敵の様子ばかりに気を配っていた馮異は仰天して隣にいる友軍に目をやると、確かに鄧禹がこのまま突出しようとしている。
 いま突撃すれば確かに赤眉をさらなる混乱へ巻き込み、そのまま潰走させることも可能かもしれない。
 だが敵兵の数は多く、敵将は予想以上に有能であることはすでに証明済みである。混戦の中、態勢を立て直し、鄧禹を鏖殺(おうさつ)してしまうかもしれない。
 そもそも鄧禹の兵は鄧弘の兵同様、皆飢え疲れきっている。そのような兵での追撃は危険極まりなかった。
 だが馮異が最も恐れ危惧したのは、鄧禹がそのような判断もできない状態なのかということだった。


 副将に兵の再編を任せると、馮異は鄧禹のもとへ愛馬を走らせる。と、今にも追撃命令を出そうとしている鄧禹が見えた。
「大司徒!」
 名を呼ばれ、鄧禹は振り返る。それを見た馮異は総毛立った。
 鄧禹の目が明らかに異常だったのだ。
「大司徒、このままお退きください。そしてそのまま陛下のもとへ。これより先は私が引き受けますゆえ」
 それでも馮異は必死に進言した。今の状態の鄧禹を突撃させるわけには絶対にいかない。


 が、そのような鄧禹だからこそ馮異の言葉は届かなかった。
「いや、敵は算を乱して逃げ出しておる。このまま追撃をかければ我らの勝利は確実だ。その勢いのまま赤眉本隊も撃ち破れるやもしれぬ」
「敵は再集結を図り、すでに数において我らを凌駕しております。また大司徒の兵はすでに飢え疲れ、これ以上の戦いは不可能にございます。せめて兵を(いこ)い、その上で我らと連携のうえになさってください」
「それでは勝機を逃す。今しか赤眉を討つ好機はないのだ」
 鄧禹の言うことは一見正しいが、今この瞬間ではすべてが上滑りしていた。普段の鄧禹なら誰よりもそのことに気づくはずなのにである。


 鄧禹は決壊してしまっていた。
 一時(いっとき)でも赤眉を撃退したことでこらえていたものが崩れ去り、かなわぬ願望――おのれの妄想に飛び込んでしまったのである。
 それを知った馮異はこの瞬間、絶望した。
「突撃!」
 鄧禹はそんな馮異を置き去りに、兵へ命令を発し、彼らと共に赤眉へ向けて突進してゆく。
 飢え疲れ、足をもつれさせるように鄧禹に付き従う兵が馮異の(かたわ)らを走り抜けてゆく。
「…大司徒、どうぞご無事で」
 馮異は彼らの背――その先にいる鄧禹へ向けて絞り出すような声でつぶやくと、表情を硬化させ、自兵のもとへ駆け戻る。


 そしてそこで堅守から反撃のため控えていた兵たちに、まったく違う命令を下した。
「これより我らは退却する! ただし整然とではない。おのおの一隊ごと、一騎ごとに分かれ、散じて逃げよ!」
 まるで潰走である。敗れるどころか戦う前からの非常識な命令に兵たちは驚きざわめくが、馮異はそれを抑えるように続ける。
「大司徒は赤眉へ向けて突撃をかけたが、これは必ず敗れる。そうなっては我らも大司徒と彼の兵を救う術はない。それどころか敗走に巻き込まれ、多くの兵が死すことになる。それでは陛下の大略を果たすことができぬ」
 待ち構えた赤眉に対し、鄧禹の兵は必敗する。そして敵に追い立てられ逃げ戻ってくる鄧禹を救おうとすれば、馮異の兵も飲み込まれ、共倒れになってしまう。また隊列を整えたままの退却では、やはり彼らに後背を撃たれ、潰滅してしまうだろう。
 ゆえに最初から算を乱して逃走し、赤眉に的を絞らせないようにしようというのだ。


「それぞれ落ち延びた後は、近くの営保(えいほ)(とりで)に拠って私の参集命令を待て。そのときにこそ赤眉に対し雪辱を果たし、陛下のご聖恩に報いる働きを成す。よいな!」
 当初の予定とはずいぶんと変わってしまうが、馮異の命令は戦略の根幹をはずしていなかった。それどころかこの状況を逆用して、赤眉に自分たちも潰滅したと思わせ、埋伏をより完全なものにしようというのだ。
 それを感得した将兵は、納得すると同時に表情を引き締め直す。
 それを見た馮異は一つうなずくと、あらためて大声を発した。
「では、解散! 一人でも多く生き延び、落ち延びよ!」
 その命令に兵は馮異に背を向け、一散に走り始めた。
 銘々(めいめい)がおのれの器量と才量に応じて逃げ散り、その様子を確認した馮異はもう一度だけ背後を振り返ると、悲痛な想いを隠しながら、自らも愛馬を駆って逃走に移った。

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