北へ
文字数 2,454文字
更始帝の即位を知った王莽は、彼を討つため麾下の将軍に百万の兵を率いさせ、派兵した。
この大軍を、劉秀がわずか三千の兵で撃ち破ってしまったのである。
これと前後して兄の劉縯 も苑 城を落とし、武名を輝かせたが、寡 をもって衆を撃つほど鮮やかな勝利はない。ましてやこれほどの兵力差を覆してとなれば、戦史にも稀である。
劉秀の名は同時代と歴史とに、華々しく登場した。
昆陽の戦いの結果は当然鄧禹にも届き、劉秀をよく知る彼をすら驚倒させた。いや、よく知るからこそより驚き、そして劉秀の不可思議な器量により魅せられてしまっていた。
「いったい文叔どのは何者なのか」
ますます自身の人物鑑定眼に収まらない器を示し始めた劉秀に、鄧禹は快哉とともに苦笑に似た表情で独りごちた。
だが狭量な主君を持つ者に美名は諸刃の剣でもあった。
劉縯 が更始帝に殺されたのだ。やはり有能すぎる、あるいは評判のよすぎる男は、更始帝や側近(首領)たちにとって危険であり、目ざわりだったのである。
「文叔どのはご無事だろうか…」
鄧禹の明敏さは劉縯 のこの結末をある程度予想していたため、彼の死に対する衝撃はさほどではなかったが、それより心配なのは劉秀の身辺である。
劉縯 が殺された以上、劉秀に同じことが起こる可能性は充分あった。それどころか彼は昆陽の英雄なのだ。劉縯 以上に危険な境遇かもしれない。
だが今の鄧禹が劉秀のために為 せることは何もなかった。彼は劉秀の無事を祈ることしかできなかった。
その祈りは天ではなく劉秀本人に届いていたのかもしれない。
彼は兄を殺害した更始帝と彼の側近を何一つ責めることはせず、不平すら漏らさず、むしろこれまで以上に従順に従っていた。
これは当然、おのれの身の危険を強く感じたからである。少しでも彼らに逆らう素振りを見せればもちろん、不満を一言漏らしただけで誅殺する理由にされかねない。そうとわかっていれるだけに劉秀は、涙と怒りを全霊で押し殺しながら、兄の仇に膝を屈するしかなかったのである。
こらえた涙は、夜、牀 (寝台)の枕に顔を押しつけながら声を殺して流した。それを知った臣下から同情を告げられても、感謝を隠して叱声を浴びせることまでした。せざるを得なかったのだ。
この時期、長安では王莽 が臣下に殺され、ついに新は滅亡したが、劉秀にそれを喜ぶ余裕はどこにもなかった。
そのように劉秀の毎日は薄氷を踏むような危うさに満ちていたが、ついに好機がやってきた。
更始帝が黄河以北(河北)を平定する将軍に、劉秀を任命したのだ。
現在更始帝は苑 を根拠地としていたが、ここにとどまっているだけでは天下に覇をとなえられない。彼は帝位に就いたとはいえ、実状は前述の通り各地に盤踞 する群雄の一人に過ぎず、他の勢力に逆転され、滅亡する恐れは大いにあったのだ。
ゆえに名に実をともなわせるため、更始帝は天下を平定する具体的な行動を起こさなければならないのだが、その一つが河北制圧であった。河北は北州とも呼ばれ、多くの人が住む重要な地域である。そこを平定できれば、強大な勢力圏を得られるだけでなく、天下統一へ大きく前進することにもなるのだ。
だが河北は遠く広い。更始帝や側近が遠隔で指示を与えるわけにはいかない。そもそも彼ら自身、別の地域の攻略に心血を注がなければならず、そんな余裕はなかった。ゆえに河北平定には、それが可能な力量を持つ優秀な将軍に、一定の軍事力とその指揮権、そして統治における政 のほぼ全権を与える必要があったのだ。
しかしこれには大きな危険をともなう。力量はあれど忠誠心の乏しい将軍に強大な軍事力を与えれば、簡単に叛 かれ、分離独立されてしまう恐れがあるのだ。それだけでも自分たちの勢力が減殺されるし、それどころか叛いた将軍に自分たちの方が敗北し、吸収・滅亡させられる可能性すらある。
河北平定の将軍候補には、劉秀の名もしばしば挙げられていた。だがその都度更始帝の側近たちが反対してきた。
劉秀の能力には何の問題もない。だが彼の兄を殺した自分たちへの忠誠心。それは大いに問題があったのだ。
だがついにそれが認められたのは、兄を殺された後の劉秀の従順さに更始帝たちが安堵を見たからだだった。
これ以上北河平定を先延ばしにすることもできず、彼以上の人物が他にいなかったためという事情もあったが、それでも劉秀の謹慎が彼らの警戒を緩めさせる一因だったのは間違いない。
更始元年(23年)十月。劉秀は破虜将軍・大司馬として黄河を渡る。
彼はついに行動の自由を得たのだ。
新野でこの報を聞いた鄧禹は、またしても驚倒し、歓喜した。なにしろ「劉秀が殺された」という報がいつやってくるかを恐れる毎日だったのが、まったく逆の「劉秀、行動の自由を得る」という、ほとんどあきらめていた朗報に変じてやってきたのである。
「まったく文叔どのは、どこまで私を驚かせてくれるのか」
と、鄧禹が大笑するのも無理はなかった。
だがこれは鄧禹の人生を決する報でもあった。彼が唯一臣従したいと考えていた男が、ついに自由を手にしたのである。この機を逃すわけにはいかなかった。
鄧禹は急ぎ旅支度を終えると、家族に別れを告げ、一路北を目指して出発した。
河北と言っても広い。だが鄧禹は初動が早く、また道々劉秀軍がどこにいるかの情報も集めていた。
更始帝のもとを離れた劉秀の鎮撫 隊が各部県ですることは以下の事柄である。
役人の成績を精査し、功績の無い者を罷 めさせ、有る者を昇進させ、無実の罪で捕らわれていた者を釈放し、王莽がおこなった煩雑 で無意味な制度を前漢時代のものへ戻してゆく。
政 の基礎や初歩ばかりであるが、初歩を堅実にこなしてゆくことが乱世の民にとってこれ以上ない善政であった。
当然これらは各地の人々に歓迎され、噂として鄧禹の耳にも届き、彼はさほどの苦労もなく鄴 へたどり着いたのだ。
それでも劉秀との再会は思わぬ形で、そのことからも鄧禹は彼との縁をおもしろく感じていた。
この大軍を、劉秀がわずか三千の兵で撃ち破ってしまったのである。
これと前後して兄の
劉秀の名は同時代と歴史とに、華々しく登場した。
昆陽の戦いの結果は当然鄧禹にも届き、劉秀をよく知る彼をすら驚倒させた。いや、よく知るからこそより驚き、そして劉秀の不可思議な器量により魅せられてしまっていた。
「いったい文叔どのは何者なのか」
ますます自身の人物鑑定眼に収まらない器を示し始めた劉秀に、鄧禹は快哉とともに苦笑に似た表情で独りごちた。
だが狭量な主君を持つ者に美名は諸刃の剣でもあった。
「文叔どのはご無事だろうか…」
鄧禹の明敏さは
だが今の鄧禹が劉秀のために
その祈りは天ではなく劉秀本人に届いていたのかもしれない。
彼は兄を殺害した更始帝と彼の側近を何一つ責めることはせず、不平すら漏らさず、むしろこれまで以上に従順に従っていた。
これは当然、おのれの身の危険を強く感じたからである。少しでも彼らに逆らう素振りを見せればもちろん、不満を一言漏らしただけで誅殺する理由にされかねない。そうとわかっていれるだけに劉秀は、涙と怒りを全霊で押し殺しながら、兄の仇に膝を屈するしかなかったのである。
こらえた涙は、夜、
この時期、長安では
そのように劉秀の毎日は薄氷を踏むような危うさに満ちていたが、ついに好機がやってきた。
更始帝が黄河以北(河北)を平定する将軍に、劉秀を任命したのだ。
現在更始帝は
ゆえに名に実をともなわせるため、更始帝は天下を平定する具体的な行動を起こさなければならないのだが、その一つが河北制圧であった。河北は北州とも呼ばれ、多くの人が住む重要な地域である。そこを平定できれば、強大な勢力圏を得られるだけでなく、天下統一へ大きく前進することにもなるのだ。
だが河北は遠く広い。更始帝や側近が遠隔で指示を与えるわけにはいかない。そもそも彼ら自身、別の地域の攻略に心血を注がなければならず、そんな余裕はなかった。ゆえに河北平定には、それが可能な力量を持つ優秀な将軍に、一定の軍事力とその指揮権、そして統治における
しかしこれには大きな危険をともなう。力量はあれど忠誠心の乏しい将軍に強大な軍事力を与えれば、簡単に
河北平定の将軍候補には、劉秀の名もしばしば挙げられていた。だがその都度更始帝の側近たちが反対してきた。
劉秀の能力には何の問題もない。だが彼の兄を殺した自分たちへの忠誠心。それは大いに問題があったのだ。
だがついにそれが認められたのは、兄を殺された後の劉秀の従順さに更始帝たちが安堵を見たからだだった。
これ以上北河平定を先延ばしにすることもできず、彼以上の人物が他にいなかったためという事情もあったが、それでも劉秀の謹慎が彼らの警戒を緩めさせる一因だったのは間違いない。
更始元年(23年)十月。劉秀は破虜将軍・大司馬として黄河を渡る。
彼はついに行動の自由を得たのだ。
新野でこの報を聞いた鄧禹は、またしても驚倒し、歓喜した。なにしろ「劉秀が殺された」という報がいつやってくるかを恐れる毎日だったのが、まったく逆の「劉秀、行動の自由を得る」という、ほとんどあきらめていた朗報に変じてやってきたのである。
「まったく文叔どのは、どこまで私を驚かせてくれるのか」
と、鄧禹が大笑するのも無理はなかった。
だがこれは鄧禹の人生を決する報でもあった。彼が唯一臣従したいと考えていた男が、ついに自由を手にしたのである。この機を逃すわけにはいかなかった。
鄧禹は急ぎ旅支度を終えると、家族に別れを告げ、一路北を目指して出発した。
河北と言っても広い。だが鄧禹は初動が早く、また道々劉秀軍がどこにいるかの情報も集めていた。
更始帝のもとを離れた劉秀の
役人の成績を精査し、功績の無い者を
当然これらは各地の人々に歓迎され、噂として鄧禹の耳にも届き、彼はさほどの苦労もなく
それでも劉秀との再会は思わぬ形で、そのことからも鄧禹は彼との縁をおもしろく感じていた。