暁闇

文字数 3,257文字

 次の朝。いや夜と朝の狭間である暁闇。
 東の空はうっすらと白みはじめているが、まだ日は昇っていない。
 銅馬軍による清陽包囲は続いているが、だからといって四六時中攻撃を繰り返しているわけではない。戦術としてそのような攻略法を選ぶ将もいるが、銅馬の将はその意味では常識的であった。昼に攻撃して夜は寝る。攻略に成果が伴わなければ方針を変更する可能性はあったが、今はまだその段階ではなかった。
 それに彼を含め、兵のほとんども包囲したことですでに勝ったつもりになっていた。仮に清陽を落とせなかったとしても、本来の目的は劉秀軍本隊である。清陽は放っておいてそちらへ軍を向ければいいのだ。この場合、清陽から蓋延が追撃を仕掛けてくる恐れもあるが、すでにさほど問題にしていない。これは客観的な根拠があるわけではなく、凡愚な彼ららしく「一度勝っているのだから恐るるに足らず」という心境からだった。


 夜、兵の大半は寝ているが、交代で歩哨はついていて、清陽に動きがないか見張っていた。
 が、交代するとはいえ一晩中の見張りとなればさすがにだれてもくる。もともと良質の兵が少ない銅馬軍である。すでに勝ったという意識もあり、城内に目立った動きがなければ監視がゆるむのも自然な話であった。
 それが暁闇ともなれば夜の緊張から解放されつつも、朝の明澄さに精神が刷新されるわけではない。心理的にも身体的にも中途半端な状態になりやすいのだ。つまり仕掛ける側にとってこの時間帯は最も奇襲に適しているのである。良質の将兵がいる軍隊ならばむしろこの時間を意識して集中するものだが、銅馬軍にそれは望めない。それどころか敵の伏兵がいるなど考えてもいないのだ。銅馬が鄧禹の存在を認識していない時点で、すでに勝負はついていた。


 喚声が上がった。
 銅馬軍の中でそれを最初に聞いたのはやはり起きて立っている歩哨だった。こんな時刻に喚声が聞こえたこと自体異様で、弛緩(しかん)していた彼らの心身にも緊張が戻る。
 が、喚声の聞こえてきた方角と距離とが彼らを混乱させた。前方の清陽からではなく後方の、しかもかなり離れた場所から聞こえてきたのだ。
 何が起こったのかわからず軽い恐慌に陥りかかる歩哨たちに、混乱は立て続けに襲ってきた。喚声のした方向――つまり自軍の後方――が乱れ、そこから(だいだい)に似た色が淡く薄闇を照らしはじめたのだ。そこに煙が加わるのを見て彼らは総毛立った。
「火事か!」
 しかも炎や煙は一箇所だけでなくいくつもの幕舎から見えている。失火ではありえなかった。
「……」
 強烈な不安と恐怖が歩哨たちの心を急速に侵してゆく。それらの感情は多数の悲鳴により一気に爆発した。
「敵襲だあ! 敵が襲ってきたぞお!」
 

「敵襲だと! なぜ気づかん!」
 暁闇の奇襲にたたき起こされた銅馬の将は、まだ完全に覚醒していない頭で、それでも急ぎ甲冑を着けさせつつ周囲の側近に怒鳴った。敵襲と聞いた彼が考えたのは清陽からの攻撃である。だとすれば歩哨は何を見ていたのか。
「い、いえ、それが清陽からではなく、後方から奇襲を受けたと…」
 だが側近の狼狽した返答に、将は意外さをそのまま表情と言葉に乗せる。
「後方だと。なんだそれは。どこから出てきた兵だ」
「いえ、それが皆目…誤報かもしれませぬが…」
「誤報!? なんなのだ一体。敵襲は前からか後ろからかどちらなのだ。はっきりせよ」
「兵たちも眠っていた者が多く、はっきりとしたことがわからず…」
「役立たずが!」
 このやり取り自体が銅馬全体の混乱を如実に表している。そして新たに将にもたらされた報告は混乱に拍車をかけるものだった。


「清陽より敵軍出撃! 我が軍へ攻撃を仕掛けております!」
「なんだと それではやはり清陽からの攻撃なのか。なんなのだおぬしらは。前と後ろの区別もつかんのか!」
 銅馬の将はその報告に、ついに側近たちへの怒気を爆発させた。
 やはり清陽からの攻撃ではないか。その程度の確認もできぬのとは、なんたる無能者どもか。
 将に面罵された側近たちは恐怖と屈辱に顔をうつむける。が、彼らの報告はどちらも間違っていなかった。


 夜が明ける直前、馬に(ばい)を噛ませて声を立てさせないようにした蓋延は、背後に麾下の突騎兵をひきいて城門の内側に待機していた。敵の歩哨に気づかれないため、馬蹄の音にも気をつけさせながらである。さらに出撃前の昂揚(こうよう)による「気炎」も抑えるよう指示し、それを完璧に実行してのけた突騎兵たちは、自らが精鋭であることを証明していた。


 蓋延は上を見上げた。城壁上には数名の兵を置き、彼らに銅馬軍を監視させていたのだ。
 銅馬の後方に異常が起こればすぐに知らせるようにと。
「……」
 その報告が来る前に蓋延の聴覚はかすかな異音を聞き取った。城壁や銅馬の大軍を挟んでいるため聞き耳を立てていた蓋延にすらはっきりとは聞き取れなかったが、確かに聞こえた気がする。それは正確には音ではなく、声、それも複数の喚声であるようだった。
「……」
 そうと知ると蓋延の身体には盛り上がるように力が入ったが、まだ自分を抑えつけた。
 城内から自分たちだけが突出しては、せっかくの奇襲も効果が薄くなってしまう。喚声が誰のものなのか確報を得なければ…


 城壁上をにらみつけるように見上げる蓋延にとって監視兵の報告を待つ時間は、短くも長いものとなった。
 が、望んだ報告はすぐにやってきた。
「銅馬軍後方に混乱! 幕舎にもいくつもの火と煙が上がっております! 将軍の奇襲に間違いありません!」
 声量は抑えながらも興奮を押し殺せない監視兵の報告が城壁上から降ってくると、蓋延も抑えていた気炎を噴出させた。
「馬に噛ませた板をはずせ! 城門、開け!」
 その命に突騎兵たちも気炎を挙げ、喚声で応じながら急ぎ板をはずし、開門を待っていた兵も力いっぱい門扉を押す。
 城門が開かれると、薄闇の中、幾本も煙が見え、監視兵の報告が正しかったことを蓋延は確認する。さらに城門が開かれても敵兵の「気」がこちらに向かってこないのを感じると――彼らの意識は後ろを向いている――、鄧禹の奇襲があらゆる意味で成功したことも知った。
「突撃!」
 出撃ではない。突撃である。
 それほど銅馬軍には「虚」ができていた。蓋延はその虚へ向けて突進を開始したのだ。続く突騎兵も同様で、銅馬兵は短時間にまったく思いもよらない方向から立て続けに奇襲を受けることとなった。


 ――蓋延出撃のわずか前。夜明けまでさほど間がない時間。
 鄧禹はひそかに銅馬軍へ近づくことに成功していた。
 鄧禹ひきいる騎馬隊は、編成後はじめて実戦を経験するわけで、当然、蓋延麾下の突騎兵に様々な意味で及ばない。
 が、鄧禹もどんな馬や兵でも構わないと選抜したわけではない。見込みがありそうな人馬を他の将兵から推薦してもらったり、自分自身で目をつけるなどして、すでに下準備は施していたのだ。
 とはいえ鄧禹自身、これほどいきなり実戦へ投入することになるとは思っていなかったが、鉅鹿から清陽への行軍自体を訓練として、彼らに基本的な戦術や指揮の伝達法などは教え込むことはできた。
 それだけに敵軍へ近づくにもさほどの苦労はなかったが、これは銅馬の油断を突けた点も大きい。彼らは伏兵の存在をまったく考慮に入れていなかったのだ。
「……」
 時刻は正確に確認してある。待つ時間はさほど長くなかった。
 夜が明ける寸前。深い闇が東から薄い闇へ変わりはじめたとき、鄧禹は片手を挙げて部隊へ(めい)を下した。それを受けた兵たちは馬に噛ませていた板をはずし、一部の者は手にした松明(たいまつ)に火をつける。
 それら自兵の動きを見、準備が整ったのを確認すると、鄧禹はもう一度片手を挙げ、振り下ろした。
「突撃!」
 命令一下、兵たちは喚声を上げ、まだ眠っている銅馬軍へ突進してゆく。天幕へ火を放ち、何事かと飛び出してきた兵たちを斬り伏せる。いくつもの天幕が炎と煙をあげ、それを銅馬の歩哨や清陽の蓋延たちが見たとき、銅馬の敗北は決定した。


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