第34話 青年将校達の気持ち

文字数 4,179文字

 その年の二月二十六日の早朝は、日本中を揺るがす大事件が起こったのですが、その頃は雪の降った朝でしたので、一部をのぞいて一般の人達にはそれが知れわたるのには時間差がありました。
 つまり厳しい報道管制が敷かれる中で、新聞では一部の夕刊のニュースとして、またラジオは特別ニュースを放送しました。帝都では、宮城(きゅうじょう)や首相官邸等の政府や官僚などの建物付近ではものものしい武装をした兵隊や、それらに対峙(たいじ)した憲兵達もおりましたので、住民達はそれを見て仰天していたのです。
 雪の朝、早く起きた何人かの東京の市民達は、武装した軍人達や、それと対峙している憲兵達の姿を見て驚いて言いました。

「おいおい、母さんや、なにやらあちらこちらに勇ましい格好をした軍人達が一杯いるよ」
「ほんとう? なんかお昼の臨時ニュースでは東京や大阪の株式取扱所が臨時休止したり、東京の手形交換所も臨時休業したとか言っていたしね」
「そうだな、こんなこと滅多にはないしな……」
「そうよね」
「外で見ていたら、警官が来てね、物騒だから家から出ない方がいいんだってさ」
「そうなんだ」
「それで、どうしたんですかって聞いても、教えてくれないんだ、こりゃ何かあるね」
「怖い世の中になったもんだ」
「くわばらくわばら」

 警視庁も彼等の標的にされたのです。野中四郎大尉が指揮する約五百名の突撃部隊や重火器にかかってはさすがに警視庁でもなすすべもなく、彼等に制圧されたのです。
 そして、彼等への鎮圧を諦め、陸軍の憲兵隊による鎮圧にたより、警視庁はもっぱら治安維持に努めました。
 また、反乱部隊は陸軍省及び参謀本部を襲撃し、政治の中枢である赤坂、三宅坂一帯をも占拠し、その勢いは凄まじいものがありました。当然、交通もあちらこちらで麻痺していたのでございます。

 さらに新聞社として彼等から狙われたのは東京朝日新聞社でした。これには岡田首相を殺害しようとして義弟の松尾伝蔵を間違って殺害した後の栗原安秀中尉らが対応し、五十名の兵士が、二十六日の午前九時から十時頃にやってきたのです。その理由として、当時の朝日新聞が自由主義を標榜(ひょうぼう)して、重臣を擁護(ようご)していることや、軍縮を唱えかつ反軍的だったからです。

 反乱軍はトラック三台で新聞社に乗り付けました。
 栗原中尉は社に入ると受付の局員に向かって居丈高に言いました。
「至急に社の代表者を出して貰いたい」

 局員は早朝から物々しい軍服を着た彼等に驚き、仮眠をとっていた編集局長の緒方武虎(おがたたけとら)に面会を告げました。それを局員から聞いた武虎は「とうとうやってきたか」と応えたのです。
 緒方は仮眠している場所から、栗原の前にやってきました。
「なんですか、あなた達は……」
「問答無用だ! これが目に入らないのか」

 そういって栗原はピストルを彼の胸に突きつけたのです。それから反乱軍の将校達と緒方とで何やら言い合いが始まりましたが、業を煮やした彼等は工場の上に上がってきて、そこらにある活字ケースをひっくり返し、壁に檄文を貼り付けて引き上げたのです。
 編集長の緒方武虎は無事でしたが、その日の夕刊は見合わせたのです、おそらく将校の仕返しが恐ろしかったからでしょう。

 その日の朝日新聞は、結果的に活字ケースをひっくり返されただけで、新聞社としては人的な被害はありませんでしたが、その日は彼等の圧力に屈した格好になりました。
 朝日は新聞の書面の中で「陸軍の政治的な態度」等が批判的であるために、彼等から好ましく思われていなかったからなのです。
 その他の報道機関である、国民新聞、報知新聞、東京日日新聞などは襲われていませんでした。
 将校達は新聞社を乗っ取り、彼等の意見を大々的に載せるなどということはしませんでしたが、周到に計画しながらも、そこまでしなかったのは彼等の甘さなのかもしれません。クーデターは、報道機関を抑えるのが常識なのです、彼等は国を一途に思うあまりに、世論に訴えるという大切なことを忘れていたのです。

 その後、栗原達は中橋と南郷様がいる首相官邸にいきました。そして彼等の成果をお互いに称え合っておりました。
 中橋基明中尉は栗原安秀中尉を見て言いました。
「南郷、栗原、ごくろうだった、高橋是清を仕留めたそうだな」
「おう、中橋も岡田啓介を殺害したじゃないか」
 そう言ったのは、南郷様でした。
「うん、しかし宮城を占拠するのに失敗したよ。天皇に直々に決起書を手渡したかったが、残念だ」
 本当に中橋は残念がっておりました。
「そうか、仕方が無いさ。みんなそれなりに頑張っているからな」
「うん」

 中橋中尉が宮城に侵入し、天皇に決起趣意書を手渡すという行為は成功しませんでしたが、川島陸相の宮中に於ける軍事審議官による上奏に期待をしておりました。
 
 陸軍の首脳部は、昭和天皇の鎮圧の命令がでても、その鎮圧には躊躇(ちゅうちょ)していましたが、その理由としては、同じ部隊として鎮圧する部隊側と、その将校達による衝突を避けたかったのです。
宮中会議において、軍事審議官達の意見は分かれていましたが、途中から陸軍の首脳も呼ばれ議論は伯仲しており結論がなかなか出ずに、川島陸相の責任において『陸軍大臣告示』ということになったのです。

 天皇は初めから反乱将校達を許さず、鎮圧せよと言っておりましたが、川島陸相を初め審議官達の中では将校達に同情する者もいて、その作成した文章も曖昧な解釈ができ、それが将校達を結果的に一喜一憂させることになりました。
 その中で、軍事課長の村上啓作大佐が将校達が提起した「決起趣意書」をもとに書いていたものがあり、それは「維新大詔(いしんたいしょう)案」だったのです。

 これは将校らの意思を反映したものであり、これを作成中にも関わらずその写しを将校達に見せたために、将校達は自分たちの決起の意志が認められたものと理解したのです。
 それが後で彼等の判断を狂わせる結果となりました。しかし、その草案はいつのまにか消えてしまったのです。

 唯々諾々(ゆいだくだく)とした態度の侍従長や陸相など彼等の対応の悪さに、天皇はついにしびれを切らしたのです。天皇は侍従武官長の本庄繁・中将に次のように仰いました。
「朕が股肱(ここう)の老臣を殺戮(さつりく)し、この如き凶暴の将校等、その精神に於ても何の許すこともない。朕が最も信頼せし老臣をことごとく倒すのは、真綿にて朕の首を絞めるのに等しい行為である」

「今回のことは精神の如何を問わず不本意である。国体の基を傷つけるもので、速やかにこれらの暴徒を鎮定すべきである」と述べましたが、それに対して侍従長はまだ将校達の心情を訴えておりました。
「はい、しかしわたしは彼等の言い分にも、少し理解が……」

 普段は寛大な態度の天皇でしたが、この時ばかりは違いました。強いお言葉で
「彼等はそれを私利私欲のためにやったと言うにすぎない。信頼している重臣たちを殺すような凶暴な者を許すことはできないのだ。もし陸軍ができないと言うのなら朕自ら近衛師団を率いて、これの鎮定にあたる!」と本庄侍従武官長に厳しく叱責し、このときから将校達の運命が決まったのでした。

 その日の二十六日の夜に、閣議が開かれました。天皇の意を受けて戒厳令の発布と決まりかけたとき、それに反対する者達もおりました。
「それでは、今朝早朝の青年将校達の横暴に対して、この戒厳令を発布するということになりますが、宜しいですね」と議長が言いますと額に汗を滲ませながら「待ってくれ……」と警視庁の幹部が言ったのです。

「どうぞ」
 しばらく重苦しい空気がそこに漂っておりました。
「それを発布した場合には、さらなる軍政に繋がる恐れがあるので反対です」
「それには、海軍も同感であります」と海軍の幹部の発言がありましたが、結果的に天皇自身の強い意志を無視することは出来ずに、「戒厳令の発布」となったのです。
 こうして「奉勅命令」としての戒厳令が敷かれたのです。

 しかし、その夜は、新聞はどの新聞社も、この事件に関しては一行も書かれていませんでした。東京都民が事件の一報を知らされたのは、およそ十五時間後であり、ラジオの午後八時三十五分の臨時ニュースだったのです。その内容は陸軍省発表という形で行われました。

「臨時ニュースを申し上げます。本日、午前五時頃、一部青年将校達は、陸軍の青年将校達の約一千五百名が岡田総理、高橋蔵相らを殺害し次の箇所を襲撃しました」とけたたましくラジオはスピーカーを鳴らしていました。

 その後の二十八日の午後九時五十二分に初めて戒厳令(かいげんれい)の発令が放送されたのです。これはその日の昼前になってこの事件のニュースに限っては、すべて九段の戒厳司令部からの放送となったのです。

 将校達もそのニュースは聞いておりましたが、その時の戒厳令の意味合いをあまり理解していませんでした、それが自分たちに向けられていようとは思ってもみなかったのです。
 しかし、その意味が自分たちに向けられたと知ったときの、彼等のショックと怒りは想像以上だったのです。
この戒厳令の発令というこの聞き慣れない「戒厳令」という言葉があちらこちらで氾濫しておりました。

「おい、このかいげん……なんとやらは何だろうねぇ」
「さあ、わからんな」
「まあ、とにかく或る軍隊の一部で反乱が起きているから注意しろというんじゃないか」
「とくに用事が無ければ、外には出ないようにしたほうが良いらしいよ」
「そうだね、どこかの将校とかいう若い軍人がなにかをしでかしたらしい」
「この不景気にも関係があるらしいな」
「そうだね、恐ろしいこった」

 その「戒厳令」とは「戦時及び事変があったとき、兵力を用いて警戒する」場合に天皇が公布する重要な行政措置であります。
 二十九日に、東京日日新聞などは「号外」まで出て、その新聞は飛ぶように売れました。それを読んだ人達は大騒ぎになっていました。その日の午前五時半過ぎから、この騒ぎに巻き込まれないようにとの情報が錯綜(さくそう)し、永田町近辺の住人達はその準備で大わらわになったのです。

 さらには、東京市内の電車もすべて運行が停止し、庶民の足を奪いました。
 その帝都には戒厳司令部のおよそ二万人以上の兵隊達で一杯でした。
 それは各所を占拠している反乱軍を包囲するためで、いつでも対戦出来るような体制をとっていたからなのです。


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