第23話  高橋是清大蔵大臣邸の襲撃

文字数 3,814文字

 高橋是清は、夕方から降り始めた雪を二階にある自分の部屋で窓越しに眺め、自分が今までに波瀾万丈な人生を送ってきたことを振り返っていました。
 政治家として歩んできたその道を反芻するように思い出しておりました。

(自分の人生は、これで良かったのかな……)
 幼い頃、貧しさゆえに高橋家に養子に出された頃、その家で実子が生まれたために、自立を自覚し英語を習い始めたこと。そこで学んだ英語力を買われて十四歳で仙台藩の藩命で渡米することになったこと。

 はからずも留学先で騙されて学費や渡航費を着服され、奴隷として売られたこと。そこで憶えた英語力が自分を救ったこともありました。運良く、奴隷解放運動で帰国できたときほど嬉しかったことはありません。

 それからの是清の生活は荒れていました。酒と女におぼれ、相場に手を出して失敗し無一文になったこと。そこで憶えたことが経済に明るくなり、後に大臣にまでになったのは皮肉なことでした。

 奴隷時代に憶えた英語力で頭角を現して、英語の教員、特許局長などを経たあとは、数々の失敗と成功を繰り返しておりました。しかし、時の流れに乗り、農商務省の官僚など重責を経て第二十代の内閣総理大臣にもなり、今はその信頼で六度目の大蔵大臣を拝命しているのです。

 今までの彼の輝かしい功績は彼を満足させ、今はこの豪邸であります邸宅に住み着いておりました。そのとき、古くからの奥女中の阿部千代がお茶を持ってきたのです。

「大臣、先ほどから雪が降ってきましたね」
 是清は茶碗に入った温かい茶を口元に運びながら「そうだな、わしもこの歳では寒さにこたえるわい」と言っておりました。

「そうですね、今夜は寒くなりますので、お早めにお休みを……」
「うむ、寒さに弱いわしには身に浸みるのう、ところで妻はどうしている?」
「はい、お体があまりよろしくありませんので、もう休んでおいでです」
「そうか、ではいつものように寝酒といこうか、持ってきてくれ」
「はい、承知いたしました、大臣」

 千代が部屋から出て行ったあとで、是清は窓際にかかっている白いカーテンを少し開けてそこから庭を見下ろしました。
 そこには白帽子を被った木々が闇夜の中に浮かんで見えるのです。春には咲き誇る美しい花や、青々とした高い木々もすべて銀世界の中に埋まっておりました。

 その広い邸内に、自分を襲おうとしている賊が、数時間後に侵入してくるとは想像さえも出来ません。ひとつ身震いするとカーテンを閉め、太った是清は禿げた頭をひと撫でし、白くなった顎髭を手で弄びながら寝室に入っていきました。

 無類の酒好きな是清は毎晩というほどお酒を飲んでおりまして、彼の酒好きは有名でございました。
 寒さに弱い是清は、寝酒を飲み、いい気持ちになって暖かい布団の中に潜り込みました。
 その夜が、彼にとっては最後の夜になるのも知らずに……。

 雪が降るその夜は、闇を抱きながら津々と更けていったようでございます。
 その未明には、高橋邸を囲んで中橋基明中尉、南郷中尉及び中島莞爾少尉らが率いる百三十七名の軍人が到着しておりました。その人数の多さで、第七中隊の隊員すべての者に、高橋是清蔵相を殺害するという出動の目的が伝わったわけではありません。

 ただ上司から命令され、言われるままに行動している者もおりまして、騒乱が収まったあとでようやく理解した者もいたのです。後になってから、彼等の処遇もその理解度で大きく分かれ目になるなど、皮肉なことではありました。

 さて、その邸の前には警戒警備の玉置英夫巡査ら三人が巡回しておりましたが、突然武装した軍人をみて驚きやってきて阻止しようとしたのです。

「何事ですか、この武装した君達は!」
「問答無用、この扉を開けろ」
「駄目だ、入ることは許さん!」

 強引に入ろうとした中橋隊を阻止しようと玉置巡査は拳銃を向けて威嚇し、阻止しようとしました。それを見ていた南郷様が軍刀を鞘から抜いたのです。
 彼はぎろりとした目をして有無を言わさずに玉置巡査に向かって刀を向け、抜いた軍刀で巡査に切りつけたのです。

 巡査の拳銃は空に飛び、肩を切りつけられ、(あっ!)と叫びながら真っ白な雪の上にどうとばかりに倒れたのでした。玉置の血は辺りにほとばしり、真っ白な雪を真紅に染めたのです。南郷様はその返り血を浴びて、顔は赤鬼のようになっておりました。

 しかし、幸いにも一命をとりとめたのは玉置の不幸中の幸いでしたが……。
 雪の上に倒れ込んだ玉置を尻目に、彼等は大きな高橋邸に怒濤のように入り込んだのです。
 まず身軽な兵士が塀を乗り越え、表門の錠を内側から開けると兵士達は邸の中に乗り込んでいきました。

 残った兵士達は邪魔な者が近づかないように、目をぎらつかせながら邸の周りを銃剣で構えておりました。
 それらは、赤穂浪士が吉良邸に討ちいる様子と似た光景でございました。まことに恐ろしいことでございます。

「おい、下には高橋はいないぞ」
 広い邸内で、目的の高橋是清を見つけ出すことができない兵士達は焦っていました。
「おい、あの部屋はみたか?」
「おう、探したが誰もいない、高橋の寝室はどこだ?」

 邸内に侵入した兵達は、一階の廊下から広い母屋の中を捜索して目的の高橋是清を見つけ出そうとしていました。指揮者の中橋基明にも焦りの色がでています。
 そこで中橋は見上げた二階の一部屋で明かりが少し漏れているのに気がついたのです。

「おい、あそこが怪しいぞ、二階だ、二階だぞ、高橋は!」
「そうだ! あそこの階段を上っていこう」

一階には高橋がいないことを確認すると、三名ほどが軍靴のまま二階に駆け上がったのです。その中には、軍服の袖で顔の血を拭った顔の南郷様も一緒でした。
 その前に、二階で寝込んでいた高橋是清は外の音で目を覚ましました。そこに女中の阿部千代が心配そうな顔をして、寝室にやってきていました。

「大臣、なにか外で物音が聞こえるような気がしますが、大丈夫でしょうか?」
 この年配の女中は、常日頃から政府の要人である高橋の身の上を案じておりましたから、そのときのただならない音が心配なのでしょう。高橋は眠い目を擦りながら言いました。

「なに、雪が屋根に積もってそれが落ちたのだろう、心配することは無い。もう寝なさい」
「そうでしょうか、わかりました。では失礼致します」

 千代は心配そうな顔をしながら、是清の部屋を出て行きましたが、その心配はどうやら現実になってきたようでございます。
 それからほどなくして、青年将校と兵士達は邸内に乗り込んでまいりました。彼等の姿は戦場における物々しい装備だったのです。

 その姿をみた阿部千代は驚いて、腰を抜かしてしまいました。兵達はその千代を無視して入り込んでくるのです。
 是清の二番目の妻の志なは、離れの寝所におりましたので侵入者が来たとき、危害が加わることはありませんでした。

 騒ぎに気がついた従者達は物々しい出で立ちをした兵達をみて愕然としたようですが、どうすることも出来ずに震えておりました。

 二階で夜具の着物を着ていた高橋を見つけ出した中橋中尉は、拳銃をつきだしたのです。威風堂々とした面構えで太り肉の高橋は、目を引きつらせながら叫んだのです。

「馬鹿者! なんだ、おまえ達は、人の屋敷に入り込んでどういうつもりだ!」

 今まで寝ていた高橋は、布団から身体を起こし、真っ赤な顔をして彼等を睨み付けたのです。その高橋を見て冷笑しながら中橋中尉は拳銃を持つと、彼の心臓をめがけて狙いを定めたのです。それは中橋自身が驚くほど心は冷静になっておりました。

 そして「国賊!」と一声叫んで拳銃の引き金を引き、高橋の胸をめがけて発砲したのです。

「うっ!」と低い声を漏らしながら、高橋は後ろにのぞけったのでした。
 真っ赤な血が布団の上に飛び散りましたが、分厚い胸をした高橋を仕留めるために、更に中橋の拳銃が五発鳴り響いたのです。

 息絶えている高橋に対し、彼等の攻撃は止まりません。中橋と身体を入れ替えた中島中尉は腰に下げていた軍刀を抜いて高橋の左腕を切りつけ、とどめとばかりに軍刀で高橋の心臓のある左胸を突き刺したのです。

 軍刀を引き抜いたとき、絶命した高橋是清の胸からは大量の血が溢れ出て、その部屋を血の海にしたのです。これほどまでにして高橋を惨殺したのは将校達がそれほどに高橋を憎んでいたことでしょう。後ほどの彼等の証言からも、そのことがうかがい知れるのです。

 小さい頃に養子に出され、苦学しアメリカで修行を積んで成功者となり、首相も経験し、経済のスペシャリストとして六度の大蔵大臣を務めた男は軍隊が過大化することを拒否し、国の財政を立て直そうとしましたがそれを恨まれ、この瞬間に八十二歳で生涯を閉じたのでした。

 離れで寝ていた高橋の妻の志なは、この騒動に気がつき、夫の部屋にやってきたのです。そして無残にも、惨殺された血の海に横たわる夫の姿をみて驚き悲しみ、涙を流しながらこう叫んだのです。

「あぁ、あなた! なんというこの残酷なる仕打ち……卑怯な振る舞い! わたしは許しません……」

 そう言いながら血に染まった夫の上に覆い被さりながら、いつまでも嗚咽していたのでございます。その声を聞きながら千代と女中達、従者達は寒さと、悲しみに震えながら主人を失った悲しみに大粒の涙を流しておりました。


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