第9話 好きな人

文字数 2,919文字

 貴美子様は、亮介様との関係を心配するお父様の意思とは違った方向に歩んでおられました。若い者同士で、お互いに熱い思いが日増しに強くなっていくのは自然の摂理といえましょう。
 密かに逢っているうちに、いつしかお二人は抜き差しならない仲になっていったようでございます。

 それは、鳳凰館での舞踏会での出会いがきっかけでした。お二人は、急速に親密な仲になっていったのです。貴美子様は、亮介様に惹かれ、身も心も彼に惹かれていったのです。それはお相手の亮介様も同じでございました。
 
 貴美子様は聡明でお美しい上に、容姿端麗でしたので、誰もがお相手にしたいと想う殿方は少なくなかったのですが、そのお相手に選ばれましたのはあの南郷亮介様でございます。亮介様も、凛々しく逞しい貴公子のようなお顔をしておりましたので、このお二人は、まさにお似合いのカップルなのですが、しかし、運命と言うものは、中々に思い通りにならないようでございます。
 まだ、そのことには気づいていないお二人ではございますが……。
 お二人は、お家柄の違いはもちろん意識しておりました。しかし、そのことがお二人を引き離す事にはなりませんでした。
 恋とはその壁が厚ければ厚いほど燃え上がるようでございます。

 亮介様のお家は南郷家と言い、武士階級で、新政府に解体されてからは士族となったのです。それに比べまして、貴美子様のお家は公家華族で、彼女は四ノ宮家の一人娘でございます。それ故に、お父上で当主の四ノ宮太郎様はことさら武家の方を好まれておりませんでした。

 ですから、貴美子様は亮介様と逢われるときには、波風が立たないように気を遣い、できるだけ目立たないようにしておりました。そのために、お二人は貴美子様のお友達の芦川美紗子様の計らいで、逢瀬を重ねておりました。

 その場所は、裕福な芦川家の或る洒落た別荘でございます。
 別荘は美紗子様のお父様の所有になっておりますが、美紗子様がいつでも好きなときに使えると言うことのようです。彼女はここで、時々好きな絵を描いたり、お友達を呼んでパーティーなどをすることがあるようでございます。

 その明るく洒落たその館は郊外に佇み、人目を気にすることがなく、落ち着いて愛の時を過ごすことができるようです。

「美紗子さん、とても素敵な別荘ですこと、このお庭も広くて……」

「ありがとうございます。私は昔、小さい時からこの庭で遊んでいたのです。でも広すぎて迷子になる時がありましたわ」

「そうですか、その時のお相手は?」
「ええ、従兄弟で、いまは子爵になっていらっしゃる広小路恵介様です、驚かれましたか?」
 そう言って、美紗子様はくすりとお笑いになりました。

「えっ? あの広小路様が……」

 貴美子様は、あの鳳凰館で颯爽とした出で立ちで踊っていた亮介様とは違ったもう一人の青年を思い出しておられました。あの時何度となく、恭しく丁寧にお辞儀をして、自分と踊った青年は今思えばどこか美紗子様と似ていることに今更ながら驚いておりました。
誠に縁とは不思議なものでございます。しばらくしてから……。

「あの、貴美子さん、私はこれから前からのお約束があってこれから出かけてきます。おそらく帰ってくるのは明日の午後になると思います。それまで彼とゆっくりとくつろいで下さいね」

 貴美子様は、前もって彼女からその事は聞いておりました。美紗子様はこのカップルの為に気を利かせていたのです。

「それから、お二人にはお客様用の寝室を用意させておきましたので、ごゆるりと」
「は、はい、ありがとうございます」

 貴美子様は恥ずかしそうに頬を桃色に染めておられました。美紗子様はそれから支度をしていそいそとお出かけになりました。そして、お屋敷には貴美子様と亮介様のお二人だけになったのです。美紗子様は、お二人の為になにやら気を利かせたようでございます。
 彼女は喜美子様とはとても仲良しでしたから。
 そこで、亮介様と喜美子様のお二人は数日に渡ってそこで愛を育んでおりました。

「貴美子さん、この別荘でようやく二人だけになりましたね」
「ええ、美紗子さんのおかげですわ」
「はい、彼女に感謝しなくては」

 ところで、耳を澄ませば、なにやら小鳥のさえずりが聞こえてきます。
「亮介様、鳥の声が聞こえてきますね、あの枝に止まっている鳥は何でしょうか?」

「どれ……あぁ、灰色がかったあの鳥は『ひよどり』という鳥です。たまに遠鳴きするときには、寂しそうに聞こえますが……」

「そうですか、でも、今は軽やかですね」
「はい、でもあの『ひよどり』という名前にも言われがあるのですよ」
「あら、そうですか?」

「ええ、昔、一ノ谷の戦いで、源義経が平家の軍勢を追い落とした深い山あいを『ひよどり越え』と言いますが、それに関係があるんです。春と秋の頃には、そこがヒヨドリがよく来る場所と言われていますから」

「そうですか、お詳しいのですね」
「それほどでもありません。ダンスほどには」
「まあ」
「それから私達はさん付けで呼び合いましょう。そのほうが気が楽ですから、喜美子さん」

 笑いながら、亮介様はじっと貴美子様の潤んだ瞳を見つめていました。
「はい……そうですね、亮介さん」
 貴美子様も亮介様の瞳を見つめます。
 部屋のテーブルの上に置かれた蓄音機の上には、黒いレコード盤が回転し、ベートーベンの『田園』の曲が、ゆったりとしたメロディーで流れておりました。

「素敵な曲ですね、貴美子さん、もうこの国にもこのような便利なものが入ってくるようになったのですね」
「はい、少し前までは考えられませんでした。でもまだまだ一般の人たちには、そのようには……」
「はい、無骨者の私の家などではこのような高価なものなどは考えられませんよ、あはは」
「そうでしょうか?」

 貴美子様も、亮介様の少年のような澄んだ瞳をじっと見つめていました。
 いつしか、お二人はどことなく近づき、そのお顔は触れ合うほどになっておりました。亮介様はそっと貴美子様の肩に手を掛けていました。

 そして、その手を優しく引き寄せたのです。
 貴美子様はその手の動きを察してか、無意識のうちに彼の胸の中にいざ寄っておられました。お二人のお顔が触れ合うほどになったとき、亮介様の指先が貴美子様の柔らかな顎に触れ、それを感じた貴美子様は目を瞑りました。

 彼女の胸は高鳴っておりました、倒れそうなときめきを感じつつ。
 初めて経験する恋の喜び。愛の喜びを、愛の幸せを……。

 それは、亮介様も同じでございます。彼女は心なしか、お顔を上げたのです。それは愛する二人にとっての自然の成り行きだったようです。
 いつしか唇を重ね、接吻するお二人を祝福するように、どこからか小鳥たちがさえずっていました。 辺りには萌え上がるように、青葉が生き生きと、流れゆく風にそよとばかりになびいておりました。

 この幸せが行く末長く続けとばかりに。すでに恋の花がお二人に芽生えたようでございます。しかし、それも目まぐるしき世間のこの雲行き怪しき情勢の中で、この恋するお二人にとりましても、ままならない様相を呈してくるようでございます。


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