第30話 陸相官邸への侵入

文字数 3,950文字

 将校と下士官及びその兵隊は、それぞれに決められた集合場所を目指しておりましたが、その中で第一連隊の丹生(にぶ)誠忠(まさただ)中尉が指揮する約百七十名の部隊は、丹生中尉を先頭にして、香田清貞大尉、村中孝次及び磯部浅一達が陸相官邸に向かっておりました。
 指揮を執る二十七歳の丹生は新婚でしたが、この国を憂う将校として、この計画に自ら進んで参加をしていました。そして歩きながら思うのです。

(とうとう今日という決戦の日になったが、妻には何とか分かってもらえたと思う。それを言ったときの妻の涙が忘れられない。自分はこれから多分、生きて帰れないかもしれない。その為に墓まで用意しているので、もう思い残すことはない。今、自分はこれをやるしか無いのだ。すまない新妻よ、どうか俺を許してくれ……)そう思いながら胸の中で妻に手を合わせておりました。
 ここにいる元大尉の村中孝次と、元一等主計の磯部浅一は、二年前の士官学校事件というクーデターを起こし、未遂容疑で検挙され、今は無官ではありますが、共に戦う同士仲間であり心強いのです。
 丹生を指揮官とした隊が陸相の官邸に向かっているときでした、赤坂溜池から首相官邸に向かっていましたが、その坂を上った途中で官邸内からバンバン! という銃声が聞こえたのです。丹生は思ったのです、その場所は栗原中尉が岡田首相を襲撃する場所だったので彼は隣にいた香田大尉に言いました。

「官邸で銃声が聞こえてくるね、香田さん」
「ああ、あそこは栗原中尉達が岡田をやっているんだね、うまく仕留めただろうか?」
「彼たちのことだから大丈夫でしょう、さあ私たちも急ごう!」
「そうだね、急ごう」

 彼等が午前五時過ぎに陸相官邸に到着すると、百七十名の兵士は陸相官邸の周囲を囲んだのです。彼等の主力隊は官邸の表門で待機し、裏門も猫一匹さえ一切通れないように兵士達が警戒しておりました。
 陸相官邸に近接している陸軍省と参謀本部にも機関銃分隊と、軽機関銃分隊が刀剣や拳銃を構えて歩哨をし警戒をしています。

 彼等が到着したときには、官邸の前には警備の憲兵がいました。
 憲兵は大勢引き連れた丹生の隊に驚き警戒をしていましたが、その責任者が香田清貞大尉と村中孝次の前にやってきます。
 その責任者に向かって香田大尉が敬礼をし、胸を張って言いました。

「我々は国家の一大事について話したいことがある。直々に陸相と会見がしたい、どうかここを通してもらいたい」
「いや、どんな会見かはわかりませんが、その物々しい格好では通すことは出来ません。もし大臣に危害を加えるようなことならば、私たちを殺してからにして欲しい」
 そう言って彼は腰の拳銃に手を触れて威嚇しようとしました。
「いや、そのようなことは断じて無い、分かって欲しい」
「それはなりません、お帰り下さい」
「そんなことはしませんよ、今は国家の一大事に面しているときです。時間が無い、さあ早く中に入れて欲しい」

 しびれを切らした香田大尉の手にも、いつの間にか拳銃が握られていました。
 その憲兵は拳銃をちらりと見ましたが、そんなことで怯むことはありません。
「いや、駄目だ」
「我々の軍隊はこの官邸の周囲を重機で包囲しているんだ、どうやってもあなたたちの勝ち目はありません」
 そんな押し問答が続いていましたが、しばらくしてこの騒ぎに驚きながら、川島義之陸将の妻が気がついてやってきたのです。
「どうしたのですか、この騒ぎは……」
 香田は川島の妻に、ここへ来た理由を述べました。
「お話は分かりましたが川島は風邪を引いておりまして無理です、お引き取り下さい」
 妻は彼等の姿を見て、夫に危害が加わらないか心配で必死でしたが、とうとう彼等に押し切られたようです。

 六時半過ぎに、ようやく将校達は川島陸相と面会することが出来ました。
 川島は、普段から皇道派に理解をしておりましたが、彼等の思いきった行動にただ驚くばかりなのです。
 この中に加わっております磯部浅一は目の前の川島陸相をみながら、ふと一ヶ月半ほど前に彼と交わした会話を思い出していました。
 川島はいかにも軍人とした面構えをしていました、四角い顔に髭を蓄えておりますが、その眼差しには厳しさがあるのですが、話してみると言葉は丁寧であり優しさも感じるのです。
「閣下、青年将校達が、この国を憂いております、何とかして貰わねばなりません」と三時間ほど国体について追求したのですが、川島の返事は要領が悪く、のらりくらりとしているために、磯部は苛々(いらいら)しながら、「そんなことを言っていると、そのうちに剣を持って出てくる者もいるかもしれませんよ」と詰め寄りますと、川島は「そうかな、しかし我々の立場も考えてくれ」等と言うばかりでした。

 磯部の激しい言葉を制するように、川島はじっくりと諭すように言うのです。
 それからもおもだった変化は無く、思いあまって一ヶ月前ほどには同士と再び川島邸を訪れたとき磯部は川島に問い詰めたのです。磯部は今、陸軍の元将校ではありますが、渡辺は彼等のトップでもあるのです。
「真崎大将と代わった渡辺教育総監ですが、彼には将校達の不満が高まっております。このままでは必ず何かが起こります、なんとか善処をお願いしたい!」と詰め寄ったのですが、川島はとくに反応することはありませんでした。

 しかし、磯部が帰ろうとすると川島はニコニコしながら「今日はご苦労だったな、良い酒がある、これを持っていきなさい、この酒は名前が良いぞ『雄叫び』というのだ、一本あげよう、なんとか自重してやりたまえ」と言った言葉を思い出しました。
 その言葉通りにいま自分たちは、その雄叫びをあげているのです、あのときの我々の忠告した言葉を無視した結果がこのような革命に走ったことが磯部には残念でならないのです。

 この隊の指揮者である香田大尉は、川島陸相に懐から取り出した「決起趣意書」を取り出して朗々として読み上げました、彼の顔は少なからず興奮のためか紅潮しております。
 しかし、その決起趣意書の内容はほとんど皇道派に都合が良い人事関係に伴う内容が多く、敵対する統制派の有力者を排除するものでした。
 そして、最後には彼等に都合の良い人間を、すぐにこの官邸に呼びつけるメンバーの招致も忘れてはいませんでした。この内容は、野中四郎大尉が起草したものであり、文才に長けた村中孝次が筆を加えた、格調のある漢文で書かれておりました。
 香田は趣意書を一気に読み上げて一息つきました。

「どうか閣下、この趣意書の内容を理解して、それを陛下に奏上してください」
 そう言って香田は川島に詰め寄りました、川島を取り囲んだ将校達も同じように口々に川島を説得しようと試みておりました。
 しかし、川島は迷っていました、こんな内容を自分一人で決めるわけにはいかないのです。
「まってくれ、少し考えさせて欲しい」
「はやく決断を……あまり時間は無いのです」

 将校達が心配しているのは、自分達を諫めるための軍隊が、相打ちとなる同じ皇軍であることを恐れていましたので、そのことも趣意書のなかに書かれてありました。
 それを、香田達は川島陸相に迫りましたが、その返事はのらりくらりとして曖昧ではっきりしません。この時点で川島は自分が反乱軍につくか否か迷っていたのです。
 陸相として決めれば、その責が自分にも掛かってくるからなのでしょう。
 将校達も焦っていました。趣意書の中に書かれてあるように、彼等は特定の人物をこの場に招聘(しょうへい)するように求めていたのです。

 その結果、三人の軍人がこの官邸に呼ばれることになったのです。それは真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の各大将と、山下泰文(ともゆき)少将でした。三人は午前八時過ぎにやってきました。
 彼等は香田からの連絡により、兵隊が警備している中を歩哨線の通過を許されて車を降りました。その前には磯部浅一が出迎えに立っています。
 車から降りた真崎に対し、磯部は「閣下、ご苦労様です。我々は統帥権干犯の賊達を討ち取るために決起したのですが、このことをご理解しておりますか?」と訪ねたのです。
「とうとうやったか、お前達の心はよーくわかっとる、よーくわかっとる」と言いながら頷いて真崎は官邸に入っていきました。

 真崎大将は彼等と同じ皇道派ですから、彼等の思う気持ちも分かるのでしょう。
 しかし、青年将校達が慕う真崎甚三郎という人物の評価は色々あるようで、その真相は未だに分かっていないようです。この事件の中心的な存在でありながら、黒幕ということでは不明な点が多く解明されていないのです。

 かつて教育総監でありましたが更迭され、反対勢力である統制派の渡辺錠太郞に、その地位を奪われたからなのでしょう。将校達はそんな真崎を持ち上げて彼を中心とした内閣を造るという計画を切望していたようでございます。
 彼はそのような行動をとっていたようですが、怪しくなったときの変わり身の巧みさは見事と言えましょう。

 真崎達を交えて話し合い、熟慮を重ねた結果、川島陸相は、午前九時頃に心に決めて、軍事参議会会議に出席のために官邸を後にして皇居に向かいました。
 この軍事参議官とは、天皇の諮問機関であり、現役の大将と中将が任命され、決定すべき重要なことを審議し、結果を天皇に上奏する機関であります。
 平素ならば、天皇の諮問(しもん)があれば、軍事参議官会議を開き、その結果を天皇に奉答するものですが、この件に関しては少し趣が異なるようです。この会議は「宮中会議」と言われているそうでございます。
 川島陸相が真崎達と練り上げた結論は、将校達の意見を尊重した内容になったようでしたが、そのことで後で彼は大恥をかくことになるのです。



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