文字数 2,860文字

 「私有地」と書かれた看板が立っている。ここは栃木県今市市の山中。東北自動車道から日光道路に分岐して、今市インターチェンジで降り、鬼怒川沿いの県道を中禅寺湖方面へと進む。途中、大谷川を渡った辺りから山道に入った先に、その場所があった。その私有地にはプレハブの建物が一棟ある。しばしばその周辺で日本語を話さないアジア系の外国人が目撃されていた。
 日本各地で中国人により土地が買われているという話は耳にする。地元の人間の話では、この土地もすでに中国人の所有であるという。中国人は自国で土地を所有することができない。勿論、マンションや戸建ては購入できるが、あくまでそれは上物であって、土地は国家のものである。土地所有の夢を追って、成金が海外に土地を買い、将来自分たちがそこに住むだけであれば、それほど大きな問題にならないだろうが、奴らの多くはそれだけでは飽き足らず、将来必要となるであろう水源となる土地を買い漁りはじめた。そのことに気付いた地元民が声を上げ始めたのはつい最近のことで、すでに触手は深く根を下ろしつつあった。平和ボケした政府がこの事態を重く見ている様子もない。
 この今市の工場からは時に異臭が漂う。ハーブような臭いでもあり、甘ったるい香料が混じっているようでもあった。時々ワンボックス車が横付けし、大きなダンボール箱をぎっしり詰めて出て行く。車は東北道を都心に向かい、首都高7号小松川線の錦糸町で降りた。駅前の繁華街の中にある雑居ビルの前で車が停まった。ワタナベタイチは段ボール箱を事務所の倉庫に運び込むと、周囲を気にしながら再び車を出した。向かった先は秋葉原。そこに兄貴たちが経営する店がある。店の名は「Cat ear」そう、ショウの同僚で自殺したオカダジロウが通っていた店である。
 タイチが店の前で車を停めた。店の前にはメイド服を着た女の子が立っている。店に連絡を入れる。女が出た。
「タイチクン御苦労様、早カッタワネ」
「ヨシカさん、お疲れっす。今、大丈夫っすか?」
「外ハ、ズット見張ラセテイタカラ、警察ハ大丈夫。スグニ持ッテキテ」
「了解っす」
 タイチが後部ドアを開け、ダンボール箱を抱えて店の中に入って行った。ヨシカが届けられたダンボール箱の中から「Queens Ecstasy」と表記された錠剤の袋を取り出した。ヨシカは今「Cat ear」秋葉原店の店長をしている。オカダジロウから預かったSDカードを店の経営者である張麗君こと呉美華に渡し、その引き換えに得た地位である。最近、急に店が忙しくなった。昨年から張麗君が合成麻薬である「Queens Ecstasy」を客に売るようになったからだ。脱法ドラッグとは言え、その成分はヤオトウやスピードなどと殆んど変わらず、効能もそれ以上と言われたが、毎年巧みに商品名や成分配合を変えるため、警察の側でも思い切った摘発ができずにいた。張麗君は元々ドラッグに関しては、広く流通させて大儲けしようとは思っていない。だから今市にある自前のドラッグ製造工場で少量生産させて、自社が経営する風俗店とAVセル店などに卸しているにすぎない。ドラッグを専門に扱う店は、常に警察にマークされている。そんなリスクの高いことはせずに、客層の重なる風俗店のオプションとして商品を置く。大手の流通に頼らず自社配送する。一見、非効率に思えるが、大きくなり過ぎた商品は必ず他人のやっかみを受け叩かれると、張麗君は姉の呉広華から教えられた。ビジネスに関しては姉の呉広華の方が一枚も二枚も上手である。何度か姉が経営するAV販売会社「GOD」に流通を持ちかけたことがあったが断られた。姉はすでにシンドウマリコとして芸能界では知られた存在である。わざわざ危ない橋を渡って小銭を稼ぐような真似はしなかった。その代わり妹の呉美華には「小さな商売」のノウハウを授けた。自分が経営する店と弟のエビサワユウジの店、それから関東のAVセル店に少量だけ卸す。ドラッグそのもので儲けるのではなく、あくまで他の風俗店との差別化に利用する。その方法が功を奏し、売上低迷が続く風俗業界にあって、呉美華とエビサワユウジの店は常に繁盛していた。それもこれも常習性の高い「Queens Ecstasy」を使用したセックスに客が溺れるからであった。自社製造するドラッグ一錠の原価などたかがしれている。そんなタダ同然のものとセックスを組み合わせるだけで、客は最高のエクスタシーを感じることができる。噂は客から客へと広まり、自然に警察の耳にも届くが、警察がそのドラッグの成分を調べ、取り締まる法律を整備した頃には、また別の成分のドラッグを自社製造して使用する。いたちごっこのようであった。姉の呉広華は、リスクのあるものは拡げれば拡げるほど変化のスピードを失い、撤退のリスクを高めると呉美華に教え守らせた。エビサワユウジを通して北陽会がドラッグを扱いたいと言ってきた時も断った。呉美華は、姉はビジネスの天才だと思っている。そうでなければ女手一つで年商百億円の企業を作れるはずがない。それに姉には返しても返し切れない恩がある。それは少女時代のあの忌まわしい過去のせいだった。呉美華が江戸川区葛西中心として結成されたレディースの総長になったのも、その忌まわしい記憶のせいだったかもしれない。彼女は過去に仲間に裏切られ「回された」過去がある。そんな妹に寄り添って荒れた生活の中にあっても見放さず、常に手を差し伸べてくれたのは姉だけだった。そして呉美華が今の商売を始めることができたのも、全て姉の呉広華のおかげだった。妹思いの姉、ただ、そんな言葉では言い表せないものがある。呉美華は姉のためなら何でもできる気がする。人を殺すことだってできる。姉のダークな部分は全て自分が背負って生きて行くつもりだ。だから、秋葉原の店で働いていたヨシカから警察の闇を記録したSDカードを入手した時は、これで少しは姉の役に立てたような気がして嬉しかった。そのSDカードを使って、警視庁第五方面本部長であるオニズカロクロウを脅迫することにも何の躊躇いもなかった。それは姉のビジネスのグレーな部分を隠すためにも有効だったし、エビサワユウジや自分の商売に対する捜査状況を事前に知る上でも必要なことであった。現にオニズカロクロウと通じてから、池袋周辺での商売は見違えるほどし易くなった。店への抜き打ちの手入れに関しても事前に情報がもたらされ、難なく切り抜けることができた。逆に、現役の警視長クラスの権力とはこんなにも凄いものかと驚かされもした。それに、自分の保身のことしか考えていないオニズカのような男に踊らされる警察が哀れにも思えた。レディース時代を含め、散々世話になった警察を見下すのは心地良かった。このことは姉には内緒だった。姉に話せば恐らく咎められるに違いない。でも、自分は姉の影である。人知れず姉の役に立つことが自分の生きがいであり、使命であると呉美華は考えていた。
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