第13話

文字数 1,127文字

八章 女の独白

 林喜美子は、警察の取り調べを終えて、心が静かに穏やかであることを感じていた。もう隠すことはない。隠し事はない。嘘をつかないで済む。そう。そう思っていればいい。そう思っていれば、心が穏やかに凪いでいる。留置場の白い壁でさえ、平和の象徴のように見える。

 誰も知らない。誰の記憶にもない。本当の真実は、誰にも言わないでおけばいい。喜美子は全てがうまくいっていると思った。自分は、突発的なことが起こったときに、頭の回転が速くなるタイプのようだ。喜美子は自分でそう分析していた。

 十年前、男が家に突然踏み込んできて、克之ともみ合いになって、男の持っていた包丁が克之の胸に刺さった。驚いたのは、男も喜美子も一緒だった。冷静だったのは、喜美子のほうだった。男は、人を刺してしまったことがショックだったのか、吐き気を催して風呂場に駆けて吐いていた。トイレは息子が隠れていると喜美子が言ったからだ。

 そのとき、トイレからまだ八歳だった行斗が出てきた。今でも鮮明に覚えている。
「お母さん大丈夫?」
 トイレで行斗は、物音や怒声を聞いていたのだろう。
「なんでもないよ。大丈夫。行斗もう少しトイレにいてね」
 トイレに戻ろうとしたそのとき、行斗は倒れている自分の父親を見たのだ。胸に包丁の刺さった父親を。その瞬間、克之は、うぅと小さく唸った。

 死んでいないのか! 喜美子が思った瞬間、行斗が父親に駆け寄り、胸に刺さった包丁を一度抜き、再び、思い切り振り下ろして刺した。

 喜美子は、返り血で真っ赤に染まった息子を見て、卒倒しそうになった。何が起こったのだ。息子が、行斗が、父親にとどめを刺した……。

 あの男に、強盗犯に見られてはいけない。あくまでも、殺したのはあの強盗犯だ。そう思わせておかないといけない。

 喜美子は、呆然としている真っ赤な息子を台所のシンクに座らせ、ぬるま湯で全身を洗い流した。食事もままならぬ生活をしていたため、痩せた行斗はシンクにすっぽりおさまって、まるで浴槽に浸かっているようだった。男が戻ってくる前に、喜美子は急いで行斗に服を着せ、何食わぬ顔で、トイレに戻した。

 喜美子は、男に成り代わりの提案をし、半ば強制的に協力させることで、お互いウィンウィンの関係になれると判断した。青い顔をして風呂場で吐いていた男に克之の服を貸し、着替えるように言った。

 そこからは、警察に話した通りだ。行斗は、幼さゆえか、精神的ショックからか、当日のことをほとんど覚えていない。万が一、二つの刺し傷があることが白骨死体からわかったとしても、強盗犯の藤田の犯行だと言えばいい。藤田はもう、死んでいるのだから。

 留置場の壁を見つめ、喜美子は一人、密かに微笑んだ。




おわり
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