第1話

文字数 2,630文字

一章 顔のつぶされた死体

 ゴミ焼却施設のすぐ裏の海沿いは、釣り人たちの人気スポットだ。海に面して、プロムナードが整備されており、その岸壁からメバルやカサゴ、スズキを釣ることができる。目の前には横浜つばさ橋が見え、景色も良く、夜になっても釣り人たちがいなくなることはない。
 昼間の猛暑が少し和らいだ、それでも十分に湿度の高い土曜日の夜。その人気釣りスポットで見つかったのは、メバルでもカサゴでもなく、一人の男の死体だった。釣り人の一人が、うつぶせで浮いている人がいることに気付き、大きな声をあげた。声に驚いて周囲の釣り人たちは集まったが、海と陸の間にはフェンスがあるため、誰も浮いている人を引き上げることができず、生死の確認ができぬまま釣り人たちは救急車を呼んだ。釣り人たちにとって、その行動は正しかったと言えるだろう。その男の死体は、目鼻がどこにあるのかわからないほどに、顔がつぶされた凄惨なものだったのだから。

「岩山田さん、こっちです」
 鈴木敬二がブルーシートの外側に立って手をあげている。鈴木は捜査一課に配属されたばかりの新米刑事で、線が細く、かわいらしいベビーフェイス。汗で額に張り付いた長めの前髪を、鬱陶しそうに指で撫ぜている。鈴木に近寄るのは、いつもペアを組んで一緒に行動しているベテラン刑事の岩山田誠。大きな体に少し人相の悪い強面。刑事ドラマに出てきそうな、ザ刑事といった外見で、昔気質の古い考えで頭が凝り固まっているように見えるときもあれば、時代の流れに柔軟に対応して最先端の情報を知っていたりするから、鈴木はまだ岩山田がどんな人物なのか、いまいちつかめていなかった。
「おう、敬二」
 鈴木は「敬二」という名前から、「刑事になりたての敬二」と、先輩たちから冷やかし混じりに呼ばれている。
「状況は?」
「はい。被害者は、成人の男性で、四十代から五十代くらい。死亡推定時刻は、解剖を待たないとはっきりしませんが、おそらく死後、二十四時間から三十時間程度だろうと。何せ、顔がめったくそにつぶされていて、指紋も全て焼かれています。所持品も何もなく、身元がまだわかっていません」
「めったくそに、ねえ」
 ブルーシートに覆われた現場は、まだ遺体が運び出されておらず、鑑識や捜査員たちが煌々と照らされたライトの下で忙しなく動き回っている。蒸し暑い夜中、遺体の腐敗した気持ち悪い臭いが漂っている。そのうえ、顔面がひどくつぶされており、先刻、鈴木は見た瞬間、吐き気がした。
「第一発見者は?」
「その海沿いで釣りをしていた人です。一人がまず見つけたようですが、すぐあとに複数人で同時に発見しています。フェンスがあって生きているか死んでいるかわからず、救急車を呼んだそうですが、到着した救急隊員が即座に死亡を確認し、110番しています」
「そうか」
 岩山田は鈴木の話を一通り聞くと、ブルーシートの中に入っていった。
「こりゃ、ひでえな」
 鈴木はもう二度と見たくないと思っていた遺体の顔面を横目で見つつ、ゆっくり口で呼吸をする。そうしないと、臭いで吐きそうだった。現場で吐くなんてことしたら、一生の笑いものだ。それだけは我慢しないと、と思い、なんとか鈴木は耐えていた。
「殺しか?」
 岩山田は鑑識の一人に声をかける。
「おそらく。どれだけ波にもまれても、顔だけ集中して損傷するには激しすぎるし、指紋も焼かれています。少なくとも、死後、誰かしらの手で損壊されたことは確かです」
「だな」
 岩山田はじっくり遺体を眺めている。遺体は、顔面が激しくつぶされている。その上、海の中で魚やカニなどに食べられたのであろう、ところどころ骨も見えており、その骨も砕けている部分がある。顔の複製は難航するかもしれないな、と岩山田は思った。水に浸かっていたことを加味しても、遺体は生前ある程度肉付きの良い体形だったと思われる。軽度の肥満。痩せ形ではなさそうだ。服は部屋着か。Tシャツにスウェット姿だが、不潔な印象はない。路上生活者ではなさそうだ。
 岩山田は熱心に遺体を観察した。解剖にまわされる前に少しでも自分の目で見ておきたい。遺体から放たれているであろう何かを、実際に感じておきたい。
 ──不思議だ。こんなに顔もひどくつぶされて、指紋まで焼かれていて、さらに海に捨てられているというのに、強烈な恨みのようなものを感じない。
 岩山田は、オーラや第六感など、スピリチュアルなものは全く信じていない。しかし、いわゆる「刑事の勘」は、確かに存在すると思っている。それは勘というより、おそらく膨大な経験に基づく微かな違和感なのだろう。その微かな違和感が、この遺体にはあった。それが何なのか、まだわからない。でも、「こんなザマ」になるような遺体にしては、きれいなのだ。損傷の具合からすれば、「きれい」だなんて言い難い。しかし、なぜかきれいな印象がある。その違和感の正体を知ることが、この事件の鍵になりそうだ、と岩山田は思った。
 鈴木は、熱心に遺体を観察している岩山田の後ろで、少し目をそらしながら「早く終わってくれ」と願っていた。捜査一課に配属されたからには、グロテスクな遺体にも慣れないといけないのだろう、と頭ではわかっているが、よくそんなにまじまじと見つめられるものだ、と岩山田に対し、新米は少し呆れていた。
「敬二、このご遺体、どう思う?」
「どうって……残虐だな、と思いました。何も、そんな顔になるまでつぶさなくてもいいかと」
「強い恨みを感じるか?」
「そうですね。怨恨かな、と思います。だって、そうじゃなきゃそんなことしませんよね」
「そう思うか?」
「はい。だって、身元を隠すためなら、今どき、顔や指紋を消したところで、DNA鑑定があります。そこまでやらなくても良いのではないかと」
「仮に顔は怨恨の結果だとして……指紋まで焼いたのはなんでだ?」
 これは、鈴木に対して質問しているようでいて、岩山田の独白のように聞こえた。
「お前が言った通り、指紋なんて焼いたところで、DNA鑑定をすれば身元なんて特定できる時代だ。そんな知識もない人間の仕業ということか? それに、顔をつぶしたわりに血痕がほとんど飛んでいない。服がきれいすぎる。これはどういう……」
 岩山田はぶつぶつ言いながらブルーシートの外へ出て行った。鈴木は、ようやく解放された、とばかりに急いで後を追った。薄く白み始めた空に、夏の一日が始まろうとしていた。


つづく
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