踊る千円札(1)(もし半村良が「五十円玉二十枚の謎」を書いたら)

文字数 1,564文字

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半村 良(はんむら りょう、1933-2002)
本名:清野 平太郎(きよの へいたろう)。「伝奇ロマン」や「伝奇SF小説」と呼ばれるジャンルを開拓。自らの作家業を「嘘屋」と呼ぶほど奇想に富み、壮大なスケールの歴史観を展開する一方で、心温まる人情小説も書いた。主な作品に『戦国自衛隊』『妖星伝』『能登怪異譚』、短編「ボール箱」がある。
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「じゃ、お疲れ」
「どうも」
 軽くグラスを合わせ、一息にハイボールをあおる。とたんに体内で泡がはじけ散る。〈五臓六腑にしみわたる〉とはおそらくこういうことをいうのだろうと、手の甲で口を拭いつつ田端淳一は思う。
 向かいに座っているのは大塚耕司。掘りごたつの個室、チェーン店の居酒屋だ。時は四月、土曜の夕刻、場所は池袋。どこからどう見ても休日出勤の帰り、さえない中年上司が頼りない新人を誘って一杯やりに入ったというありふれた光景だ。

「で、話の続き」すでに上着を脱いでワイシャツ姿の大塚がネクタイをゆるめながら言う。「けっきょく結論は出てないってことか」
「そうみたいです」
「これだけウイルスウイルスって騒いでおいてか」大塚の口調には、軽蔑より落胆の色がある。
「つまりですね」田端はメモをとり出そうとタブレットに指を走らせる。「〈生命〉の定義には、三つの条件があるらしいんですね。簡単に言うと……あ、ありました」田端の指が止まった。「ええと」

1.遺伝子を含む「核」を持つ。
2.代謝を行なう。
3.増殖する。

「代謝というのはあれか。栄養摂取や排泄だな」
「呼吸も含まれます。ようするに体内でのエネルギー変換ですね。ウイルスは1と3の条件を満たしますが、代謝はしないので、2は満たしません。そこが細菌と違うところです」
「ウイルスは自力では増殖できないはずだが?」
宿主(しゅくしゅ)、つまり人間なり鳥なりの体内に入れば自己複製できますから」
「それを増殖とみなすと」
「そうです」
「ふうん」大塚は眉を寄せている。「そこは譲歩していいのか」
「みたいですね」

「結果、『遺伝子を持ち』『増殖はする』が、『代謝を行なわない』ウイルスを、生命体と呼んでいいのかどうかについては、いまだに議論が分かれるらしいです」
「なるほどな」

 掘りごたつのテーブルの上には、袋を破られたおしぼりが二本だけ。いわゆる〈お通し〉の類も来ておらず、割り箸もまだ割られないままだ。

「さっきの三つの条件、もう一度言ってくれ」
「〈生命体〉のですか」
「そう。遺伝子を持ち、代謝を行ない……」
「増殖する」
「分裂して数を増やせば、〈増殖〉でいいんだな」
「はい。べつに性をともなう〈繁殖〉でなくていいんです。〈個体〉の数を増やせば」
「その〈個体〉どうしがくっついて、二つが一つにとか、多数が一つにとか、数が減ってしまう場合はどうなんだ」
「それはですね」田端は言いよどんだ。「そういうのは想定してない、みたいです」
「また〈想定外〉か」大塚が片手で額を押さえる。「勘弁してくれ。想定してくれよ。


「まあまあ先輩……ハイボールおかわり、頼みましょうか?」
「考えてみろよ。どの国も競って探査機を飛ばして、銀河系を調べ上げようとしてるんだぜ? 宇宙のどこかに〈生命〉の、とくに〈知的生命体〉の存在する可能性はないかって。その前に、足もとを見ろと言うんだよ」
「『灯台下暗し』ってやつですね、まさに」

「遺伝子を持たず、代謝も行なわず、増殖するかも微妙だが、
 知性を――それも言っちゃなんだがまあまあ高度な知性を持つ〈存在〉が、この地球上にすでにいたとしても、
 そいつを人間は、〈生命〉とは認めてくれないのか」

(先輩、今日は酔いの回るの早いな)
 田端はこっそり、自分の胸の中だけでため息をついた。
(ストレスたまってるんだな。まあおれも同じだけどな……)
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