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文字数 2,854文字

“O death, where is your victory? O death, where is your sting?”

“死よ、あなたの勝利はどこにある? 死よ、あなたの棘はどこにある?”

               ――新約聖書 「コリントの信徒への手紙一」第15章55節





 ――父が首を括って死んでいた。
 季節は葉桜が散り始め、長い連休が終わって久しい、物憂げな皐月の十八日。

 高校から帰宅した十七歳の杉野イツキは、糞尿と鼻水と涙を垂れ流したその無様な死体を前に、軽い頭痛と少しの目眩を覚えていた。

 六日前、父親は「最後の大博打だ」と言って、なけなしの二万円を持って家を出た。
 その大博打に、父は負けたのだろう。

(ギャンブルか……ギャンブル……)

 愚かな行為だったかもしれない。
 しかしこの父が運営する孤児院は、真っ当には返済不能な程の借金に苛まれていた。
 五億円。
 返済期限は、明日だったとイツキは記憶している。
 二万を一度の博打で五億にするのなら、きっと確率は二万五千分の一、それ未満になるのだろう。

 ともかく、イツキは唯一の肉親を失った。同時に、生きる理由も失った。
 いつか何処かの知らない場所で、知らない誰かの保護を受けながらこの先を生きていく事になるのだろう。それにもきっと意味は与えられる。
 だがもし、それでももし、新しく自らの生きる理由を見つけようと願うなら。
 いずれはその愚かな“ギャンブル”に、自分は勝たなければならない。

 そんな気がした。



 警察が現場を検証し、死体を持っていった。検視はするが、自殺で間違いないだろうと言っていた。
 イツキは警察といくつかの話をしたが、内容は覚えていなかった。施設での最年長者だったからその責任を果たしただけだが、

「俺の父親です」

 それ以上、何を言う事があっただろう。

 警察が帰っていった後からは、父の知人だという大人達が何人か訪れた。

「子供達を助けたい」

 口々にそう言っていた。
 それはきっと生前の父の人徳で、必死でやってきた事の正しさの証明なのだろうと、イツキは内心少し嬉しく思いながら、そう解釈していた。
 だから。

「子供を引き取ろう」

 大人達のその言葉が、優しく思えた。





「イツキー? イーツーキー」

 孤児院のロビーのソファーで寝ていたイツキを、制服の少女が揺り起こした。

「あれ、琴乃……?」

 気付けば夜は明けていた。いつ眠りに落ちたのか、覚えていない。
 寝ているイツキを覗き込むように、少女は身を屈める。
 長い髪がイツキの顔にかかるが、琴乃は気に留めない。

「あんたさー今日学校は行くの?」

「……一応、行く予定だけど」

 少し広めの琴乃の額を見つめながら、イツキはよく考えもせず返事をした。
 琴乃の声よりも、孤児院施設内に響く子供達の声の方が、強く頭に響いていた。
 不自然な程、強く。
 まだきっと、何も理解していない子供達。近いうちに食べ物も底を突くなんて事すら、知らない。

「別に無理しなくてもさ。ほら、あんな事もあった後だし……」

 イツキは体を起こし、右手で自分の頭を押さえた。頭痛が続いている。

「そうだね……」

 琴乃だって、彼を父親同然に思っていた――そんな事を、イツキは口には出さないでいた。



 ――雀の鳴く声が聞こえた。
 少しだけ目を閉じている間に、孤児院施設は静かになっていた。
 琴乃もイツキを残して学校へ行き、施設内には人の気配は無い。
 父はたった一人でこの施設を切り盛りし、金策に走り、保護者として必要な庶務も熟していた。

(だけど、金が無くて死んだ……)

 死ねば全てが終わるのだと考えれば、他にも手段はあったのではないかとも思える。
 どんな形でも金さえあればいいのだから、例えばナイフの一本でも持って何処か資産家の屋敷に――



「お兄ちゃん……」

 不意に、女の子の声がした。
 ロビー奥に、サイド三つ編みの女児が一人立っている。

「唯花ちゃん?」

 誰もいないと思っていたイツキは少し驚いた。唯花は小学四年生、今は学校の時間の筈。

「今日ね、新しい家族が来るって」

 どうやら、唯花の引き取り手はこれから来るらしい。
 孤児院であるここには、引き取り話は以前からあった。父はそれら全てを断っていたが、その父も死んだ。
 昨晩は早速一人、黒葉潤という小学生の男の子が引き取られていった。俄に“孤児院院長代理”となったイツキは、その話を承諾した。この行き詰まった孤児院に残る理由はない。
 引き取った男は父の知人、その使いの者だと言っていた。執事とかいうやつなのか、小綺麗な燕尾服で立ち居振る舞いも上品だった。

 潤は、不安そうな顔もしていたが、引き取られる直前には笑顔だった。
 笑顔で別れた。イツキには、それだけで良かった。
 貧しいこの施設から出ていき、裕福な家庭で、不自由なく暮らせる。そこには漫画もゲームもあるし、かっこいい服だって靴だって買ってもらえるだろう。
 野球選手を目指したければバットとグローブも与えられるだろうし、医者を目指したければ良い家庭教師だってつけてもらえるだろう。
 この孤児院施設にいては、それは何も叶わない。

「時々遊びに来るよ!」

 などと言う潤に、

「待ってるよ」

 などと言いながら、もう、戻って来なくてもいいよと、内心呟いていた。

(どうして断っていたんだろう……)

 経営が苦しいのだから、引き取らせればいい。
 イツキは知っている。この施設には確かに、“訳あり”な子供が多い。戸籍が偽造されていたり、出自に不自然な点があったり、法的に出生の事実が存在していなかったりと、他の福祉施設で――イツキには理由が分からないが――門前払いすらされた子供達。
 だけどそれは何でもない。イツキの思想では、出自で人間の価値は決まらない。

 このままこの施設にいても先は無い。孤児達は何処か、裕福な善人に引き取ってもらえた方が幸せだと思っている。

「ねぇお兄ちゃん……」

 ソファーの上、イツキの隣に座り、唯花は不安そうな瞳を向けた。

「優しい人、来るかな……」

 イツキは、そんな唯花の頭を撫でた。

「大丈夫さ」

 何も根拠は無いが、そう言った。
 少しだけ、願いを込めて。

「……唯花ね、ここが好き」

「……」

 その言葉が、嬉しかった。
 この施設を作った父親を肯定されている気分だった。

 イツキはただの高校生。五億の負債など、利子からして払えない。借りた先は闇金融だろうから放棄も許されない。債務者が消えて取り立て不能になるのが、この借金の行き着く先だろう。残るのは、この土地くらい。

 いつかは皆この施設を去り、散っていかなければならない。
 だけどそれでもいい。それでもいいとイツキは思っている。
 いつか皆が遠くへ去ってそれぞれの場所で幸せになって、過去に住んでいたこんな古びた孤児院なんか綺麗に忘れる日が来ても、それぞれがそれぞれに幸せならば、イツキはそれでいいと思っている。
 例え、最後に自分が取り残されようと。

 それでいいと、思っていた。

 その筈だった。
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