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文字数 2,218文字

 イツキは大金の入った紙袋を持って、逃げるような気持ちで階段を上がった。

(これは……)

 上原の最後の姿も脳に刻まれたが、それは大切な思い出などではない。

(それでもこれは……俺の金だ……)

 そう思いながら、まだ自分の金だと確定した気になれない。
 問題がある。この大金を持って施設まで帰らなければならない。

(……何処まで守られている?)

 5000万もの現金を持ち歩くのは無用心だと思った。もし無防備にそんな大金を持っている人間を見たら――

(俺なら、そいつから……)

 奪う――かもしれない。



「やぁ」

 ミハイルの声がした。

「四日ぶり、イツキ君」

 階段の上、地上バー。
 そのカウンターの中に、いつものマスターに代わってそこにいた。
 不快な男。

「……」

「君に会いに来たんだよイツキ君。嬉しいかい?」

「不愉快……」

 階下には拷問室があるが、解体の為の道具はそこにはない。解体後にモデレーターにより片付けられている。
 バー全体を見回しても凶器になりそうなものはない。ミハイルを殺す方法が、今のイツキにはない。大金は人を殺し得るが凶器にはなり得ない。

「言い忘れた事が二つあってね、一つは金の事さ」

 イツキは、紙袋を持つ手により力を入れた。
 奪われたくない。凶器にはなり得ないがこの金は確かに武器であり、命を守る為の防具でもある。

「その端金では足りない。私を殺したかったら、400億は用意することだ。それ以下の金では私は命を賭けたりしない」

 それだけ言ってミハイルは、カウンターから出て、警戒するイツキを横目に出口へと向かった。
 背を向けていた。その姿は無防備だったが、ミハイルはすぐに何人かの燕尾服の男達に囲まれ、護られるような形となっていた。

「待てミハイル、もう一つ言う事は?」

「残りはいつものマエストロから聞くといい」

 そうしてミハイルは夜に消え、入れ替わりにいつものバーのマスターが入ってきてカウンターへと立った。

 ミハイルは、ただそれだけだった。
 まるで蜃気楼のように、姿だけを見せて触れる事は能わず消えた。

「同志杉野イツキ」

 マスターは、カウンターに紙を一枚置いてイツキに見るように促している。
 イツキは背後を見た。階段の下からは誰の気配も感じない。

「心配しなくても、君は襲われはしない。“ここ”では」

「……」

「敗者は別の出口から出ていったよ。観客席の方からね。階段を上がれそうな状態じゃなかった。それよりも」

 マスターが紙を指で叩いている。

「“リッター”を選ぶといい」

「“リッター”?」

「燕尾服の男を見ただろう?」

「……」

 イツキは思い出した。確かに上原と一緒に燕尾服の男がいたが、それよりも以前。黒葉潤を連れて行った男も燕尾服だった。

「あれは希望する同志全員につけている、ボディガード的な存在だ。同志を護るのが主な仕事。ゲームの外で同志が争ったりしたら面倒だからね」

 イツキは紙を見た。なにやらズラッと単語が並べられている。
 “飛鳥”“蘭”“漆間”“若葉”“伊吹”……短い単語の羅列。

「この“名前”の中から一人選ぶといい。誰でもいい、全員完全な訓練を積んでいる……のだが同志が足りず、暇してるリッターが多くてね。運営の手伝いさせるにもそんなに仕事もないのだから困っている」

「……そいつがいい」

「……誰の事だい?」

「運営の手伝いをさせている、その“リッター”……その中に賭け金や賭け物の回収をしている奴がいるだろう? そいつにしてくれ」

「変わった注文をするね」

 マスターは紙を見ながら少し考え、

「わかったいいだろう、あとで君のところに派遣するよ」

「今じゃないのか!?」

「リッターはここに待機してる訳じゃない、いつもはだいたい訓練所とか事務所とかだ。それとも君がここで待つかい?」

「……」

 少し釈然としなかったが、結局イツキは紙袋を抱えて一人で帰った。
 孤児院施設までの途上。すれ違う人も車も野良猫すらも敵に見えたが、当然の如く何も起こらず、誰にも襲われずにいた。
 誰も、イツキから奪おうとなんかしていなかった。

 上原の“リッター”だったのであろうあの男を思い出していた。

(同志を護るのが仕事、と言うが、ゲーム中は例外なんだろう……だがあの時もうゲームは終わっていた)

 上原が自分の頸を切った時には――父が、首を括った時には。
 イツキは、父が燕尾服の男を連れている姿など、見た事がない。



 ――時刻は午前零時を過ぎていた。

 イツキが施設に戻った頃、ロビーではまだ琴乃が待っていた。
 ソファーに座って、眠たげにしていた。

「……ただいま」

 小声でイツキは言ったが、琴乃は聞き取った。

「……おかえり」

 少しだけ、怒っているような声。
 それはイツキに向けた怒りではないが、声に乗せてしまっていた。

「ご飯、食堂にあるから」

 琴乃はそれだけ言って立ち上がった。部屋に戻って、もう休むのだろう。
 それがわかっているからイツキは引き止めもしないが、

「……ありがとう」
 
 それだけは、聞こえるように言った。

「うん」

 その返事からはもう怒りの音は消えていたが、代わりに悲しそうな色を帯びていた。

 そのまま部屋に戻る琴乃を見送り、イツキはこういう時に気の利いた言葉の出てこない自分を嫌った。
 抱えている紙袋には5000万円が入っているが、それを使ってすら琴乃を笑わせる術を知らない。
 ましてや自分の体からは、生乾きの不快な臭いすらしている。血にも、似ているような――
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