4-3

文字数 4,055文字

 ミスター杉野、と声に出して、“杉野”という名の別の博徒を思い出していた。
 あの日あの男は“先攻”を選び、煙草を吹かしながら、“偶数”に賭けた。

 ――うまいね。今まで見た中で、一番うまいよ。

 そう言う彼の手はいつも少し震えていた。
 自分を落ち着かせる為に、ニコチンを過剰なまでに摂っているようだった。

(“0”は狙えない……一番自信のある、“0”は。“26”と“32”、偶数に挟まれている)

 自分を信じきれないまま、“(ルージュ)の7”を狙った。
 ボールを弾くその刹那、煙草の煙が、指に絡んだ。



 その敗戦の後、上原はホイールにモーターを仕込むようになった。確実に勝てるように。

“回転に影響を与える行為の禁止”

 取るに足らないプライドが、その一文を残し続けた。



 ホイールを回し、ボールをホイールに乗せ、

「チップを置かないのかい?」

 上原がイツキに訊いた。

「……」

 まともにやれば、いつかディーラーが勝つのがカジノゲーム。
 だが数戦程度なら客が勝つ事もある。
 現在4000万あるのだから、“(ノアール)”か“(ルージュ)”に賭けてニ連勝すればいい。
 それは有り得ない確率ではないが、迷わず賭けられる程の勝算もない。

「……(ルージュ)……」

 イツキは1000万円分のチップを“(ルージュ)”に置いた。

 上原から見て、その手は震えていない。
 あの“杉野”とは同じ苗字でちょうど親と子くらいの歳の差だが、親子とは思えない程に似ていない。
 しかし迷いのあるその動きは、他人とは思えない程に似ていた。

 ボールを投げ入れた。

「その賭け方では連勝が必要になるねー。ミスター杉野」

「……」

 イツキはチップを持ち、一度“(ノアール)”に移動させた。
 まだベット時間内。上原はそれに何の反応も示さない。動揺も、焦りも。
 怖れも。

 それからまた“(ルージュ)”にしたりもしたが、最終的には“(ノアール)”に落ち着いた。
 20秒ギリギリまで迷い続けた。

「ノーモアベッツ」

 言いながら、上原はもうベルに触れる事はない。

(次は、スイッチは靴の中に仕込もうかー)

 などと、ベルを見ながら思っていた。



 ボールは、“0”に落ちた。

「全ツッパしなくてよかったねー」

 チップを回収しながら上原が言う。
 イツキは、ゲームが一層複雑化した事を知った。
 ボールの軌道を思い出せる。

(ボールは最後……“0”と“(ルージュ)の32”の間に落ちて、最後は“0”に収まった……)

 狙ったのだろう。イツキは確信している。ボールを投げ入れる上原の、指の動きは洗練されていた。
 “0”の左側は“(ノアール)の26”、右側は“(ルージュ)の32”。つまりそこは、“黒・0・赤”と“三色”が並んでいる。
 “(ノアール)”を外すにしても、“(ルージュ)”を外すにしても狙いやすい位置。

(ベット時間20秒は……罠だ)

 第五戦。
 まずは1000万を“(ノアール)”に置いた。
 上原がボールを投げ入れると、イツキはそれを全て手元に戻し、今度は200万ずつを“(ノアール)の26”、“0”、“(ルージュ)の32”へ置いた。

 最終的にボールが落ちたのは、“(ノアール)の10”。“0”のほぼ真逆の位置。

「……いい感じだね―……」

 上原の声は、落ち着いていた。
 静かで、穏やかで、冷えていた。
 集中力が増しているようだった。
 それはイツキに、勝負師としての地力の差を感じさせた。

(……きっと次も負ける、俺は)

 ボールを投げ入れてから20秒、それはボールの落下が始まるギリギリの時間。
 だからその瞬間を見れば、落ちる位置が見極められるかもしれない――と、考えたら負ける。

 第ニ戦まではそれに嵌っていた。
 落ちそうな位置に厚く張れば、上原はモーターでそこを僅かに越えさせて、「惜しい」と思わせ次戦に同じ戦略を使わせる。回収の効率がいい。
 モーターのなくなった今、

(上原は、俺の心理を読み切っている……)

 20秒もの間ボールの軌道を見てしまえば、その分の思考時間が奪われる。



 すぐに次戦が始まる。
 上原はホイールに手を置き、

「なー、少年」

 静かに、語り始めた。

「私が離婚した時、なんだけどねー。虐待していたのは妻だったのに親権は彼女のものになったんだよ。私が非合法の闇カジノのディーラーだったって、相手の弁護士が突いてきてねー、私の主張は何も通らなかったよ」

 イツキは、チップを数えていた。200万のチップがあと12枚。2400万。
 まだ、何処にも置いていない。

「慰謝料やら養育費やら法外な値段だったけど払いに払って、ここであと5000万円払えば、さー……それだけ払えば、妻は娘に会わせてくれると言ってる。なぁ、君なら信じるかいー?」

「俺なら」

 チップを4枚、持った。
 イツキは他人の心理など読めない。だから上原が何処に落とすか、などわかりそうにもない。
 37個の数字に12枚のチップは心許ない。
 イツキは自分の運も、勘も、ましてや天から与えられるべき僥倖など。何も信じられない。

「信じるさ――……金の力を」

 イツキがそう言うと、上原は少し笑った。

「……気が合うね―、ミスター杉野」

 5000万。娘に会わせるだけで、それだけの金が得られるのなら。
 娘にそれだけの価値があるのなら。

(あの女も、娘を少しは大切にするだろうさ)

 だから。
 今日のゲームは、負けられない。

 ホイールを回した。

 調子も良かった。
 “100%”の精度ではないルーレットの目。だが今日は、特に目の前の相手を“プレイヤー”と認めた今は、異常に調子がいい。ホイールの回転速度も安定している。
 そしてこの“杉野イツキ”の心理、それも手に取るように分かる。

(次は四箇所に、バラけさせるのだろうー?)

 ギラつく闇カジノで、金に飢えた亡者達を何千と見てきた。
 店に多額の損害を出せば、命すら危うい非合法の鉄火場。客の心理を読むのは必須技術ですらある。

 上原の予想通り、イツキはチップを四枚バラけて置いた。

 “0”、“(ルージュ)の34”、“(ルージュ)の5”、“(ノアール)の22”。

 ホイールを丁度四等分するように。

 そして置いてすぐチップから手を離し、気怠そうに座って、またホイールに視線を向けている。
 上原の指を見て投げ入れるのを待っているが、

(それでは、“ベット位置は変えない”とバレバレじゃないかー)

 とすれば狙いは簡単だった。賭けられた目の隙間でいい。
 ボールを投げ入れた。
 イツキは、動かなかった。体も、視線も。

 何も――上原が見るに、心すらも。動いていない。
 日本のよく聞く慣用句で言うならば、まな板の上の鯉のように。

 ボールは、“(ノアール)の11”に落ちた。

「次を」

 イツキの声。
 上原が聞く限り、連敗に精神的なショックは感じない声。

「次のゲームを」

「……そーだねー」

 言われずとも上原はボールを手に持つ。

 イツキは既にまた、四枚のチップを持っていた。

 あと1200万。

(ミスター杉野、君には何も出来ない)

 ――次は“六枚”だろう? ミスター杉野。

 上原は完全に読み切った。

(君は今こう考えている。“一度賭けられた場所には落とさない”と、“思っている”……と、“思わせたい”)

 “ミスター杉野”は、罠を張っているつもりでいる。

(今までにミスター杉野が賭けた場所は、“0”、“5”、“15”、“19”、“22”、“26”、“32”、“34”。だから次はその隙間に君は賭けるんだろー? 例外は“0”だが……)

 イツキが、チップを持つ手を伸ばした。

(君は、“(ノアール)の2”に置く……)

 それは“19”と“34”の丁度中間。
 上原の予想通り、イツキはそこにチップを一枚置いた。

(次は“(ルージュ)の36”……だがそこには一度落ちている。だから、“(ルージュ)の30”……)

 イツキの動きはわかりやすく、一度“36”に置きかけて、隣の“11”に賭けようとし、そしてそこも先刻出た目と気付いたように、またチップを動かし“30”に落ち着いた。

(次は……“5”と“22”の間、“(ノアール)の20”か“(ルージュ)の1”だが、後者だろうな―……赤と黒を半々にしたいだろうから……意味はないのになー)

 それはまるで上原の思考をなぞるように、イツキのチップを持つ手は“1”へと向かい、迷いすらなくそこへ置かれた。

(そして、“(ノアール)の28”……これで赤と黒が半々、そして……)

 イツキはやはり、“28”にチップを置き、そして、

(“0”……“0”だけは例外、君が賭けた後に私は一度落とした……だから君は賭ける……だから、“0”は……)

 また、一枚、チップを持った。
 と同時に上原もホイールに手を置き、

(“0”は使えない……一番自信のある、“0”は……)

 集中していた。
 頭は冷えていた。
 確率を90ではなく、99ではなく、100に出来る気がした。

 イツキは確かに、上原の眼の前で、“0”に、チップを置いた。
 それはまるで頭の中の思考が現実になるような――願いが、想いが、未来を変えるような感覚――
 ――祈りが、届くような。

 そしてイツキはまた気怠そうに座り直し、ホイールへと視線を戻した。
 上原がホイールを回しボールを縁に置くと、その手を凝視していた。

 最後に残る問題は、

(あと三枚のチップ……)

 手元に“三枚”、600万分のチップをイツキは残している。
 インサイドベッド一点賭けで配当は36倍、チップを“ニ枚”賭ければ勝利条件の一億に届く。

(だから最終戦に希望を繋ぐ為に、ミスター杉野はチップを“ニ枚”手元に残す)

 つまりこの一戦、遊びチップが“一枚”ある。

(隙間に賭けて、“一度賭けられた場所には落とさないと思っている”自分をミスター杉野は演じる。だからあえてなお、その一枚は、今まで賭けた中から選ぶ……そうだろうー?)

 それが何処かまではわからないが、要はそこを外せばいい。
 要は、一切の狂いなく。

(“0”の次に、自信があるのはー……)

 気温も、湿度も。空気の流れも。
 何一つ変わらない、同じ条件の地下室で。

 上原は、絶対の自信を持ってボールを投げ入れた。

「“(ノアール)の13”」

 イツキが静かにそう呟いた時。

「…………どうして……?」

 上原は視線を上げ、青褪めた顔でその一言を絞り出した。

 祈るように――
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